いつもどおりの朝だった。
 その日、調査兵団は何十回目かの壁外調査を決行した。
 トロスト区からの出入りが不可能となり、カラネス区から出発したのも、見送る人々が殆どいなかったのもいつもと何ら変わらなかった。エルヴィン団長を筆頭に、人類最強と呼ばれるリヴァイ兵士長や、変わり者と噂されるハンジ分隊長、若手ながら並の兵士数百人分の実力を持つとされるミカサ・アッカーマン、そして自分の意志で巨人化できるというエレン・イェーガーがいたことも含めていつもどおりだった。

 夜明けとともに出発した調査兵団は、日の入りとともに帰還した。いや、帰還したのは一部の者のみだったが、それすらもいつもどおりだった。
 今回の壁外調査ではどれだけの被害を受けたのかを確認するために集まった人々からは、溜息と諦めの言葉が漏らされた。
 どうやら今回もたくさんの命を壁外に捨ててきたみたいだ。多くの税金を注ぎ込んでやることが死にに行くことなのか。壁外に出るより壁内の安全を担保する方がよっぽど有意義だろうに。
 周りから飛ばされる野次も調査兵団にとっては聞き慣れたものだった。背中に自由の翼を背負った者たちは、どれだけの顰蹙を買おうと壁外への希望を捨てない。人類が巨大な壁の中で暮らし始めてからそれは変わらず受け継がれていることだ。
 帰還したエルヴィン団長が周りからの心無い言葉に顔色一つ変えず無言であることも、リヴァイ兵士長が無表情なのも、いつもと何ら変わることはなかった。ハンジ分隊長は物静かであったが、壁外で多くの仲間を失ったことを考えれば特に変わったことはない。
 人々の目についたのは、気絶した状態で帰還したミカサ・アッカーマンと、調査兵団の中のどこにも見当たらないエレン・イェーガーの存在だった。
 その日、壁外調査に出発したはずのエレン・イェーガーが再び門をくぐることはなかった。

 調査兵団が壁外調査を終えた翌日、調査兵団を希望し、今なお生き残っている104期生は、普段分隊長級以上のみが出席する会議に招集されていた。
 議題は次回の壁外調査についてである。
 本来、壁外調査は十分な準備期間を確保して行われるものである。壁外調査における目標、目標を達成するための作戦、作戦に合わせた訓練。奇行種一体の存在で全てが泡になることもあるが、前回の調査の反省を次の作戦に活かす。そうやって調査兵団は少しずつではあるが巨人に対抗する術を培ってきた。
 更にいえば、失われた兵力の補充や、財源の確保も壁外調査を短期間で何度も行うことができない理由のひとつである。壁外調査の度に多くの命が失われているのはもちろんのこと、武器なども無料で手に入るものではない。ただでさえ税金泥棒と罵られている状態でありながら、日を空けず決行することは人々の不満を更に高めることに繋がる。
 だが、様々な背景があることもすべて承知の上でエルヴィンは次の壁外調査の決行を決めた。そうしなければならない理由があるからだ。
「便宜上『壁外調査』と呼んでいるが、今回の目的は調査ではない。目的はただ一つ、エレン・イェーガーの奪還にある」
 その言葉に、ミカサ以外の104期生が息を呑んだ。
「エレンのもつ巨人の力は調査兵団、いや、人類にとって必要不可欠な力だ。簡単に手放すわけにはいかない。昨日の状況から無事ではないという意見がないわけではないが、」
「エレンは生きています」
「ミカサ・アッカーマン、君のそれは何か根拠のある話なのかな」
 新兵でありながら団長であるエルヴィンの言葉を遮ったミカサに対し、ハンジが落ち着いた声で諌めるように言う。
「それとも君の希望的観測だろうか?エレンが生きている。ここにいる大半の人はそれを信じたいよ。ただその確証はない。それでも生きている可能性があるから救いに行こうとしている。エレンの力を失うわけにはいかないからね。でももし死んでたらただの無駄足だ。壁外に一歩出ることは即ち命の危険を伴う。全員が無事に帰れるなんて誰も思ってないし、もしかしたらエレンの死を確認するためだけに多くの命を失うかもしれない」
 ミカサはハンジの言葉に対抗するだけの根拠など持ち合わせていなかった。希望的観測と言われればそれまでだ。
「……エレンは、生きています」
 悔しくとも、小声で繰り返すことしかできない。
「あの、僕もエレンは生きていると思います」
 ミカサの横に立っていたアルミンが右手を軽く挙げる。
「エレンは巨人化の能力を持っています。重傷を負ったとしても修復する力を持っている。以前切断された脚や腕が元通りになったように、普通なら死んでしまうような傷でも死なない。かなりの重傷を負ったユミルが生きていたのがその証拠です」
「アルミン・アルレルト。君の言うことも一理ある。エレンの修復能力は実際この目で見ているしね」
 ほっと息を吐いた瞬間、ハンジの口から漏れた「でも」に続く言葉にアルミンは顔を強張らせた。
「巨人化の能力を持った人間がどこまでの重傷を負ったら死ぬのか、私たちは誰も知らない。脚や腕は再生する。折れた歯も再生した。多少の傷ならすぐに治る。では首を落とせばどうか。心臓を一突きしても死なないのか。それはわからない。実験することもできない。実験で死なせるわけにはいかないからね。私はエレンに協力してもらって幾つかの実験をしたけど、巨人の力についてわかっていることはとても少ない。エレンに関してのみの話なら、彼の巨人化の能力は酷く不安定だということくらいしかわからない。そんな状態でエレンが生きていると断言することは私にはできないよ」
 ミカサと同様にアルミンも返す言葉を持たなかった。今まで、エレンは無事だと信じ込んでいたが、全てがひっくり返されたような気になる。途端に不安ばかりが押し寄せてくる。
「……勘違いをしないで欲しいのだが」
 エルヴィンの声に顔を上げる。非情と言われる団長の顔がそこにあった。
「エレンの生死が不確定である以上、壁外調査は実行する。人類存続のためには、彼の巨人化の能力は必要不可欠だ。私達が諸君に求めているのはエレン・イェーガーの生存を信じることではない。死を確認するだけに終わるかもしれない中で命を捧げる覚悟を求めている」
 104期生の間に動揺が広がる。エレンは仲間だ。いや、仲間だったはずだ。助けられるのなら、もちろん助けてやりたいと思う。だが死んでいるとしたら話は別だ。
 調査兵団に入った時点で、己の心臓は既に捧げてある。命令されればそれに従う。けれど、死体を見に行くために捧げたわけではない。何一つ不満を抱くこともなく己の命を賭して戦えるだろうか。

「ミカサ・アッカーマン、それからアルミン・アルレルト」
 名を呼ぶ声に二人が視線を向けると、そこにはリヴァイが腕を組んで立っている。
「お前らには特に忠告しておくが、俺達の指示が聞けないのであれば今回は壁内に残れ。エレンが死体になっていた場合、俺達はそれを持って帰るようなことはしない。そのまま壁外に捨て置く。死体はただの荷物でしかねぇからな」
 ミカサがリヴァイに掴みかかろうとするのを咄嗟にアルミンが阻む。
「お前らはエレンに執着しているようだが、それは作戦に邪魔なだけだ。壁外で勝手な行動を取られたら周りが迷惑する。どんな時でも冷静でいる自信がねぇならついて来るな」
 アルミンは拳をぎゅっと握りしめた。言われていることは理解できる。それなのに怒りで身体が震える。
「……つまり、調査兵団にとって必要なのはエレンではなく巨人化能力である、と」
「今までエレンを守ってきたのは、あくまで巨人化能力があるからだ。それがなければエレンだけ優遇する意味がどこにある。エレンを守るために多くの兵が命を落とした。そいつらの亡骸は拾わず、エレンだけ拾えってのか?生きていれば兵力のひとつにもなるだろうが、死体には用がない。それだけだ」
 その時アルミンの中にあったのは、怒りや悲しみだったが、何より悔しさが大半を占めていた。
 自分やミカサがエレンを特別扱いしているのはわかっている。それと同等のものを求めているわけではない。それに、兵団の主力としてエレンだけを特別扱いできないこともわかっている。
 それでも、それでもどうしても納得できないことだってある。エレンはリヴァイの班に属している。必然的にエレンと過ごす時間も他の兵に比べて多かったはずだ。それなのに、何も感じないのだろうか。死んだのが己の部下でも、死体に用はないと言ってのけるくらい、何の感情も抱かないのだろうか。
 それが悔しくてたまらない。
 今度こそミカサがリヴァイに掴みかかるのではないかと思ったが、ただ睨むだけに留まった。
 アルミンは思う。ミカサはエレンの死体を見つけたとしたら、おそらく指示など聞かずにエレンの亡骸とともにどこかに消えるだろう。彼女にとって大事なのは人類の生存ではなく、巨人を駆逐することでもなく、ただエレンのみに終始する。エレンが死んだなんて考えたくもないけれど。
 だがもしもそうなったとしたら、二人の幼馴染である自分にしかできないことがある。そしてそれは壁内に留まっていてはできない。
 アルミンは右手を己の心臓に当てる。敬礼。己の心臓を捧げる意。
「何があろうと迷いません。自分の心臓はとっくに捧げてあります」
 何に捧げているか、それは言わないけれど。

 アルミンの敬礼に引き摺られるように、104期生の面々はみな一様に同様の敬礼をする。エルヴィンは眩しいものを見るみたいに少し目を細めた。
「……そうか。君たちに心からの敬意を。そして今日この場に参加してもらった意図は別にある。それが今日の本題なわけだが」
 104期生を一人ずつ確認するように一瞥する。
「ジャン・キルシュタインは君たちの同期で間違いないな?」
 ジャンの名前が出た瞬間、皆の顔が強張った。何を問われるのか予め大体の予想はしていたが、仲間のことで尋問を受けるのは良い気分のするものではない。だがただ一人ミカサだけは表情も態度も変わらない。
「はい、間違いありません」
「エレンとの関係は」
「同期の中では仲が悪く、よく喧嘩もしていました」
「では、アニ・レオンハート、ライナー・ブラウン及びベルトルト・フーバーとの関係は」
「特別仲が良いようには見えませんでした」
「ユミルとの関係は」
「それも特別何かあるような関係には見えませんでした」
「ジャン・キルシュタインは今挙げた者たちのように巨人化能力を有しているわけではない、という認識でいいのか」
「ライナー達を巨人だと疑ったこともなかったので明確な回答は出来かねますが、ジャンは普通の人間であるように思います」 
「それに根拠はあるのか」
「根拠と言えるほどのものではないですが、これまでアニやライナー、ベルトルトがエレンを連れ去ろうとした際は巨人化していました。調査兵団に対抗し、更に壁外を目的地まで抜ける際に便利かつ安全であるためだと思われます。けれど昨日ジャンがエレンを連れ去った時、巨人化はしなかった。これは巨人化の能力がそもそもないからだと考えられます」
 エルヴィンは顎に手を当てて、ふむ、とひとつ頷いた。
「君たち同期の目から見て、ジャン・キルシュタインとはどんな人間だと思う」
 この問いにミカサは口を噤んだ。代わりにアルミンが述べる。
「……ジャンは、良くも悪くも正直な人間だと思います。心象が悪くなるようなことでも、誰に媚びるでもなく思ったままのことを口に出す。それで敵を作ることも多かったけれど、嘘がない分わかりやすい」
「わかりやすい、か。では問うが、ジャン・キルシュタインの目的は何だと思う」
 それは昨日からずっと考えているが、未だ答えが出ないでいる。

 104期生が去った後の会議室に、エルヴィンとリヴァイ、ハンジの三人だけが残った。ハンジは扉の向こうを見つめる。
「みんな若いね。ほんと若いってすごいことだよ」
 エルヴィンは口元を緩めた。
「私達もさ、エレンに生きていて欲しくないわけじゃないんだけどね。やっぱりそれなりに愛着もあるしさ。でも、生きていることを信じるには、もう失いすぎちゃってるんだよねぇ」
 頬杖をついて目を閉じる。
「目の前で仲間を食べられた回数なんて数えきれないし、さっきまで仲間だったモノが次の瞬間肉塊になってたこともいっぱいある。薄情だと思われるかもしれないけど、数が多すぎて全員の顔を思い出すこともできない。いつだって最悪を想定しながら生き抜いてきたわけだし、そう簡単に変えられないんだよなぁ」
 希望を抱けば、裏切られて絶望を与えられた時に自分の抱いた希望に雁字搦めにされて動けなくなることがある。けれど、最悪を想定していれば何が起きても対処できる。
 へへへ、とハンジは笑う。
「リヴァイもさっき幼馴染二人組にすごい睨まれ方してたね」
「何笑ってやがる」
「いやぁ、リヴァイにあんな態度取れるって結構大物だなぁと思ってね」
 ハンジも、リヴァイも、そしてエルヴィンも仲間を想う気持ちを失ったわけではない。失えばその度に心を痛めるし、亡くなっても可能な範囲で弔ってやりたいと思う。ただ、生きている命を無駄にしてまで優先すべきではないと理解しているだけだ。
「エレン、無事だといいね」
 それを盲信することは、できないけれど。



 エレンが目を覚ました時、一番最初に目に入ったのは暗闇の中に浮かぶ仄かな明かりだった。
 身体が重く、視界もすぐには定まらない。巨人化した後は後遺症のようにこういった症状が続く。
 エレンの巨人化の能力は調査兵団の作戦に当然のように組み込まれるようになった。それに対する不満は特にない。この能力が巨人を駆逐するために有効な手段であるなら思いっきり行使するだけだ。
 身体がうまく動かせず身動ぎすると、暗闇の中から知った声が響く。
「目が覚めたかよ」
 声のした方に顔だけをなんとか向ける。今にも燃え尽きそうな小さな松明の明かりの向こうに人影が見えて目を凝らす。未だ視界はぼんやりとしているが、なんとか判別がつく。
「……ジャン……?」
「気分はどうだ」
「……身体が重い。あと、あちこち痛ぇ」
「だろうな。てめぇ自分の腕どうなってるかわかってんのか」
「腕?」
 正直、全身が重くて動くのも怠い上に、腕や脚は感覚が戻っていないのかよくわからない。ただ、肘のあたりからは激痛が走る。痛みに眉を顰めながら腕を上げると、肘と手首のちょうど中間あたりから先がなかった。そりゃ感覚もないはずだ。
「……ねぇな」
「自分の腕が切り落とされてるってのに反応はそれだけかよ」
 ジャンは憔悴しきった様子で、乾いた笑いを漏らした。
「なあ、ここどこ」
 今まで巨人化して気を失った後は大抵調査兵団本部のベッドの上で目を覚ました。壁内に戻る荷車の上ということもあったが、ある程度場所が特定できた。しかし今はまったくわからない。
 仄かな明かりしかない殆ど暗闇の状態のせいもあるだろうが、まず建物内でないことだけは確かだ。背には調査兵団の戦闘服であろう布が申し訳程度に敷かれてはいるが、その下はゴツゴツとした地面だ。
「ここは壁外だよ」
 まるで何でもないことのように吐き出された言葉に、エレンは目を見開いた。咄嗟に飛び起きようとして身体が上手く動かず沈み込む。
「……っ!巨人は?!」
「心配しなくともこの中には入って来ねぇよ。おれらの大きさでやっと通れるような狭い洞窟の中だ。3メートル級でも入っては来れねぇ。まあ人間のにおいを嗅ぎ付けて外には大量に控えてるかもしれねぇけどな」
「何でそんな状況に……他の調査兵団は、」
「さあ。今頃壁内に戻ってるんじゃねぇか」
 エレンは眉を顰める。ジャンの様子がおかしい。
 元々は内地で暮らすことを目標にしていて、それを隠しもしなかった。そのせいで度々衝突もしたが、同じ104期生の中でジャンが最もわかりやすく安全な暮らしを求めていた。調査兵団に入ったのも意外だったが、更に最も危険な場所であるはずの壁外にいながら、他の調査兵団は壁内に戻ったなどジャンらしくない。
「お前は何でここにいんだよ」
「おれが聞きてぇよ。腕もなく気絶したお前連れてたらこうなっちまったんだからしょうがねぇだろ」
「……は」
 ジャンの言葉に再びエレンは目を見開いた。
 今、こいつは何と言ったのか。おれを連れてたから。おれがいなければこうはならなかった。つまりおれのせいか。
「……お前、何してんだよ。おれなんか放っておけばいいだろ。お前おれのこと嫌いなんじゃなかったのかよ」
「嫌いだよ。お前みたいな死に急ぎ野郎」
 動けないおれの代わりに、ジャンがおれのもとに歩いて来る。頭もとに腰を下ろすと顔を覗き込まれる。何て顔してんだよ。
 名を呼ぼうとしたおれの声は上から被さってきた声に打ち消された。
「お前、なんで自分の命大切にしねぇんだよ」
 ジャンの手がおれの目を覆い視界を奪う。額あたりにぽとりと水滴が垂れて、鼻を啜る音が聞こえる。
 なに、こいつ。何で泣いてんだよ。
「あの日、トロスト区の壁が壊された日、おれは仲間が目の前で巨人に喰われているってのに、自分が助かるためにそれを見殺しにした。おれが突っ込めと合図したせいで仲間が何人も死んだ。全部おれが弱いせいだ。でも、そんな光景を目の当たりにしながら、おれは喰われたのが自分じゃなくてよかったと、本気でそう思った。おれは狡い人間だ」
 ジャンの言葉はまるで懺悔みたいだ。
「でも、お前は違う。お前がおれと同じ状況にいたら、迷わず仲間を助けに飛び込んじまうだろ。それで自分が死ぬかもしれないなんて一切考えることもないんだ。強いよ、お前。すげぇよ。けど、お前には目標があるだろ。この世から一匹残らず巨人を駆逐するって言ってたじゃねぇか。死んじまったらその目標どうすんだよ」
 ずず、と鼻を啜る音がしてジャンの手が目から離れる。
「お前のその腕、何でそんなことになってるか覚えてるか」
「いや、」
 エレンが覚えているのは、壁外調査で巨人に遭遇し、巨人化して戦ったところまでだ。その際には腕はまだこんな状態ではなかった。
 否定の言葉を吐いたエレンに、ジャンはとても冷たい声を発した。
「リヴァイ兵士長が切り落としたんだよ」

 その日、調査兵団は何十回目かの壁外調査を決行した。
 エレンとリヴァイは中央から少し後方に位置していた。ジャンもエレンとは班が違うものの、すぐ近くの右手側に位置していた。
 暫くは前方からの信煙弾を合図に特に問題なく巨人を避けながら進んでいた。しかしそこに奇行種が数体入り込み、大きく陣形が崩れた。立体起動装置が役に立たない平地での戦闘。エレンは迷わず巨人化し応戦した。
 知性のある巨人ではなかったため、戦闘としては然程厳しい状況ではなかったが、相手にする巨人の数が多かった。次から次へと涌いて出る巨人をエレンはほぼ一人で倒していた。だだっ広い平地でただの人間はとても無力だった。
 巨人と戦っている間、エレンは正気を保っているように見えた。相手にするのは巨人のみで、人間に対しては一切危害を加えない。それどころか、巨人と戦う際にも出来る限り人間に被害が及ばないように配慮しているように見えた。
 しかし粗方の巨人を倒し終えたあともエレンは巨人の身体から出てこなかった。人に危害を加えるわけではないが、敵を求めているように見えた。
 隣にいたリヴァイがチッと舌打ちをする。あのクソガキが、と呟いたのが聞こえた。
「ジャン・キルシュタイン。一緒に来い。エレンを救出する」
 リヴァイに直接命令を受けたのはそれが初めてだった。何故自分を選んだのか。おそらく意味はないだろう。すぐ近くにエレンの同期がいたから連れて行った。それだけだ。
 立体起動装置を使い、エレンの項付近へと登る。一体どうやって救出するのかと疑問に思っていたジャンの目の前でリヴァイは刃を抜いた。それをエレンに向ける。
「ちょっ!ちょっと待て!いや、待ってくださいよ!」
 静止の声を上げたジャンに、胡乱気な目が向けられた。
「エレンを殺す気ですか?!そこ、エレンが入ってること知らないわけじゃないでしょ?!」
「当たり前だ。入ってるから切るんだろうが」
「どういう状態で入ってるかも見えないのに削ぎ落とすつもりですか」
「急所が外れるよう祈っとくんだな」
 言われた言葉をすぐに呑み込むことができなかった。この人は一体何の話をしているのだろう。今切り取ろうとしているのは、人類に対して攻撃をしてきた巨人ではない。おれたちを守りながら戦った仲間だ。それを簡単に、確証もなく切るのか。
 呆然としている間に、リヴァイの刃はエレンに向かって振り落された。結果として確かに急所は外れていた。けれど両方の腕は肘より下が切り落とされていた。
 舌打ちとともに、両腕を失ったエレンの身体をリヴァイはジャンに委ねた。その時吐かれた言葉をはっきりとは覚えていない。思い返せば、自分は再び現れた巨人を相手にするから、エレンは任せたとかそんな内容だったような気がする。
 
 エレンとは喧嘩ばかりだった。自分にないものを持っているエレンが羨ましいと同時に憎くもあった。仲が良かったとはとても言えない。
 だが、それでも。
 こんな仕打ちはない。
 おれたちを守るために必死で戦った結果がこれって、そんな残酷なことはねぇだろ。

 気付いたら身体が勝手に動いていた。気絶しているエレンを抱いて、馬に乗る。後から現れた巨人と戦闘を繰り広げている調査兵団とは逆方向へ駆けた。
 南側には調査兵団が多くいるため、北側を目指した。途中で動きの速い奇行種に会わなかったのも、巨人の侵入できない狭い洞窟を見つけたのも非常に僥倖だった。

「お前、あのまま調査兵団にいたら、きっといつか殺される。だから逃げろよ」
「逃げるって、どこに」
「どこでもいい。お前一人ならどうにかなるだろ」
「おれ一人ってお前はどうすんだよ。ここ壁外だろ。すぐ巨人に囲まれて終わりじゃねえか」
「おれのことなんか今はどうだっていい。誰より巨人を憎んでいるお前が、人間に殺されるなんて、そんなのあっていいはずがない。おれが見たくねぇんだよ。だから頼むよ。おれのために逃げてくれよ」
 エレンは今自分に腕がないことを悔やんだ。腕があったなら、ジャンに手を伸ばすこともできたのに。
「ジャン、お前なんでそんな苦しそうな顔してんだよ……。おれの腕なんてまたすぐ生えてくるような安いもんだろ。おれは化け物で、お前らとは違うんだよ。一回失ったら取り返しのつかない大事なものじゃねぇんだ」
「それでも、痛みは一緒だろ」
 ジャンの言葉にエレンは息をのんだ。
「何回でも生えてくるかもしれねぇけど、失うときの痛みがなくなるわけじゃねぇだろ」
「……ジャン、お前ってほんとうにずるいやつだよ」
 おれ今腕がないから、涙が零れても拭うことすらできねぇじゃねぇか。
「あの日、おれが巨人化したあの瞬間から、おれは今初めて人として扱われた気がする」
 調査兵団の面々は皆一様におれを巨人として見ている。巨人であって巨人でないもの。巨人に対抗し得る戦力。調査兵団への加入の理由を考えれば当たり前の話だが、おれを普通の人間として見ている者はいない。
 ミカサやアルミンの態度は変わらなかったけれど、それはおれを人間として見ているわけではない。二人とも巨人のおれを受け入れてくれているだけだ。
「おれは自分の存在意義を理解しているつもりだった。自分が人類の天敵であることも、だからこそこの力を使って人類の希望でいなくちゃならないことも、全部わかってるつもりだった。でも、どうしよう。おれすげぇ酷いやつだ。人として扱われるのがこんなにうれしいなんて」
 人として生きようとして、仲間からの信頼を得ようとして、たくさん死んだ。おれがもっと巨人として、ただの巨人に対抗し得る戦力としてのみの自覚をもっと早くに持てていたら、助かった命がきっと幾つもあったんだろう。
 リヴァイ班のみんなも、もしかしたらみんな助かっていたのかもしれない。おれが間違えた。人間ではないのに、人間になろうとしたから。だからみんな死んだ。
 それなら自分は化け物であることを自覚しよう。人として振る舞うのはやめよう。おれに求められているのが兵器としての力なら、おれは兵器でいよう。そう、思っていた。
 けれど、全部間違っていた。自分が人間か巨人かなんて自分で決められるものではなかった。おれを人として認識してくれる人がいて初めておれは人間たり得るんだ。
「ジャン、ごめん。ありがとな」
 ジャンは一瞬虚をつかれたような顔をして、おれの目を隠すようにペチンとおれの目元を叩いた。
「うっせ。泣いてんじゃねぇよ」
「なんだよ。お前だって泣いてんだろ」
「泣いてねぇよ」

 少しずつ身体の力が戻ってきて、おれは上半身を起こした。まだ腕は戻らない。損傷が激しい分時間がかかるのかもしれない。もう一度巨人化したら戻るのかもしれないが、ここで試すわけにもいかない。暫くは激痛と付き合うしかなさそうだ。
「なあ、ジャン」
「なんだよ」
「謝りついでに、もう一つおれお前に謝っとくよ。お前の気持ちはほんとにすげぇ嬉しかったんだけどさ、でもやっぱりおれは調査兵団に戻るよ」
 ジャンは何か言いたげだったが、眉を顰めるだけに留めた。
「おれ、巨人のことは心底憎くてしょうがねぇし、自分がそんな巨人と同じだってのも嫌なんだけどさ、でもそれ以上に巨人を殺したくてたまらないんだ。この世から一匹残らず駆逐するまで、おれは戦うことをやめることはできない。きっと、人類すべてがおれの敵になっても、戦い続けると思う。おれは化け物だけど、その前に異常者なんだ。5年前、目の前で母さんを喰われた瞬間から、どっかおかしくなったんだ」
 何年経っても、あの瞬間のことだけは色褪せることなく鮮明に浮かんでくる。
「調査兵団は一番多く巨人を殺せるところだから、おれは戻る。死にたくはねぇけど、ただの巨人みたいに誰かを傷つけるなら殺してでも止めて欲しい。そういう意味でもあそこはおれに一番適したとこなんだと思う」
「人の手で殺されることになっても構わないっていうのかよ」
 エレンは笑った。拭えなかった涙の跡が残っていて、まるで泣き笑いみたいな顔になった。
「そうならねぇようにお前がおれを上手く使える作戦立てろよ」
 ジャンはガシガシと自分の頭を掻いて、呆れたように笑った。
「それは無事に壁内に戻ってから言いやがれ、死に急ぎ野郎」



 結果から言うと、おれとエレンは無事に壁内に戻ることができた。
 エレンを探しに壁外に出た調査兵団の精鋭が迎えに来たのである。おれたちの消えた方角へ馬を走らせたところ、不自然に巨人が集まっている場所があったためすぐにわかったらしい。やはりというか、洞窟外は巨人に囲まれていたらしかった。
 正直なところ、調査兵団が来て非常に助かった。エレンの怪我はいつ治るか見当もつかなかったし、おれのガスも残り少なかった。二人で巨人を相手にするには限界があっただろうし、籠城するにも食料が殆どなかった。
 思い返してみれば、咄嗟の行動だったとはいえ恐ろしいことをしたもんだと思う。

 洞窟内に入ってきたのは、ミカサとアルミン、ハンジ分隊長、リヴァイ兵士長の4人だった。その他多くは洞窟の入り口付近で巨人と戦闘中であるらしかった。
 ミカサはすぐさまエレンに駆け寄り、もの凄い形相でおれを睨みつけた。これは本気で嫌われたな、と溜息を落とす間もなく、おれは人類最強に刃を向けられていた。
 やべ。おれ死んだ。
 本気でそう思った。威圧感やら殺気やらが尋常ではなかったのだ。漏らさなかった自分を褒めてやりたいくらいだ。
「……ジャン・キルシュタイン。おれはてめぇに『エレン・イェーガーを保護するように』と指示したはずだが。てめぇは人類の敵か、味方か。どっちだ」
 恐ろしく重低音な声で言われる。疑問形にしてあったが、「敵だろ、なら今すぐ削ぎ落としてやる」と脅されているようにしか思えない。どっちだと答えようとも、いやむしろ口を開いた瞬間に殺されそうな勢いだった。
「待ってください、リヴァイ兵長」
 口をきけずにいるおれの代わりに横から割って入ったのはエレンだった。
「ジャンは兵長の命令に逆らってなどいません」
「なんだと」
「兵長の指示は『おれを保護すること』ですよね。だからジャンはおれを保護したじゃないですか。腕もなく気絶した状態で巨人との戦闘の中に入るわけにはいかない。だからより安全な場所におれを移しておれの回復を待ってたんです」
「……と言っているが、お前の認識もそういうことでいいのか」
 おれは思いっきり首を縦に振った。
 実際のところ、おれがエレンを保護したのは巨人からではなく、目の前にいるこの人類最強からといってもいいのだが、まあ嘘はない。
「ならそれを外にいるエルヴィンに報告するんだな。てめぇの処遇を決めるのはおれじゃない」
 人類最強の刃が引っ込められ、おれは気付かれぬよう静かに息を吐いた。おれじゃないと言いながら、何かあればおれを殺す気満々だっただろうに。

「エレン、立てるか」
 リヴァイ兵士長はエレンの前で膝をついた。心なしか声がいつもと違う。なんというか、ちょっとやわらかいような。
「はい、なんとか」
 そう答えたが、どうやら脚に力が入らないらしい。腕がなく、支えがないというのも原因のひとつだろうが。
「無理すんな。そういえばお前腕はまだ生えねぇのか」
「あ、はい。痛みは少しおさまってきたんですけど」
「……そうか」
「でも、またすぐ生えてくると思うので大丈夫です……ってうわ!」
「エレンはまだ歩くの難しいようなので私が運びます」
「ちょ、ミカサ、下ろせって」
 ミカサはエレンの言葉に構わずすたすたと歩いていく。女にお姫様抱っこされるって男としては屈辱だろう。

「あの、リヴァイ兵士長」
「なんだ」
 やばい。まじで怖い。エレンに向ける視線も声も、本当に同じ人のものなのかと思うくらい怖い。
「この度は多大なるご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「……いや、無事ならいい」
 その一言に、おれの当初の目的どおりエレンが逃げてたら本気で殺されてただろうなと思う。
「リヴァイ兵士長はエレンのことを人間だと思っていますか。それとも巨人だと思っていますか」
 口をついて出た問いに、リヴァイが眉間の皺をよりいっそう深めた。
「質問の意味がわからん。人間でも巨人でもエレンはエレンだろうが。あえて言うならクソガキだとは認識しているが」
 はは、とおれは乾いた笑いを漏らした。
 これはミカサとアルミン並に手強いライバルな気がする。と、そこまで考えて、いやいやライバルっておかしいだろ、とおれは一人首を振った。



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