08

 ルフィは、ぱちぱちと瞬きをしておれを見つめると、いつもと変わらぬ声音で言った。
「エース知ってるか?今の、ちゅうって言うんだぞ」
「………そうだな」
「ちゅうってな、好きなやつにやるもんなんだぞ」
「……………そうだな」
「知ってんのか?じゃあエースはおれのこと好きなのか?」
「…………………」
「違うのか?じゃあ何でちゅうした?」
「それ、は……」
 何でか、と訊かれると、思わず、としか言いようがない。そうしようと思ってしたわけではなかった。
 朝、お前は抱き締めたいとかキスしたいとか思ったことないのか、と訊かれたときには、そんなものどうしてしたいと思うのかわからないとすら思っていたのに。しかもそう思ったのは今朝の話だというのに。気付いたら両方ルフィにやっていた。何でだ。
 そもそも、好きってのはどういう感情だろうかと思う。一緒にいたいと思えばそれはもう好きなのか、それとも違うのかおれにはよくわからない。
 ルフィを失いたくないと思う。側にいると安心する。大事なのだろうとは思う。だったら、それはイコール好きであるということなのだろうか。
 人間の言う、感覚や抽象的、哲学的なことは、ひどく難しいのだ。物の名前みたいにわかりやすければいいのに、どうしてこうも複雑になっているのかと思う。
 そんなことを考えていると、不意にルフィの身体がぐらりと揺れた。そのまま倒れそうになる身体に、咄嗟に手を伸ばして抱きとめる。
「ルフィ?!おい、大丈夫か?」
 呼びかけても、ルフィからは返事がない。ルフィに触れたところが妙に熱く感じられる。
 まさか、何処か故障したのだろうか。軽い故障ならいい。だが、もし核となる部分が壊れているのだとしたら。
 触れた場所とは対照的に、自分の内側からどんどん冷えていくような、そんな感覚に襲われる。ルフィの故障は、おれじゃあ直せない。

―――誰か。
………誰か?一体、誰が?

 そう思った瞬間、背後で扉が開いた。ルフィの身体を抱きとめたままの体勢に、暢気な声が届く。
「ただいまー…って何だお前らそんなとこで」
「……シャンクス」
 おれが男の名前を呼んだのはおそらく初めてのことだったが、今はそれどころではないとおれの様子から悟ったらしい。自分の顔は見えないが、きっと情けない顔をしているのだろうと思う。
「ルフィが、」
「どうした」
「わかんねえ……。いきなり倒れて、呼んでも返事しねえんだ……!」
 男はルフィの方に回って、おれに寄り掛かるようにして意識を失ったままのルフィに目を落とす。目を細めてルフィの頬に手を当て様子を見ると、顔を上げた。
「……エース。ルフィを下の部屋まで運んでくれるか?」
「………っ!」
 下の部屋ということはつまり研究室のことを指しているのだろう。おれは思わず男の手首を掴む。男は少し驚いたようにおれを見たが、その手を解こうとはしなかった。
「……ルフィは、大丈夫なのか……?助けて、やれんのか……?」
 自分の声が震えているのがわかる。情けない声だと思う。だが、男は笑わなかった。ただおれの手に自分の手を重ねて言った。
「大丈夫だ。信じろ。」
 男は、自分をとも、ルフィをとも言わなかったが、その一言でおれは掴んでいた手を放した。


 横になったルフィの身体の前に座って、男はパラパラと紙を捲る。そうして一つ頷くと、いつもと変わらない様子で言った。
「こりゃ知恵熱だな」
 おれは思わず眉を寄せる。
「……知恵熱って」
「昨日散々頭使ってたみたいだしな。普段あんまり考えずに行動してるもんだから、頭の方が吃驚したんだろ」
「……アンドロイドにも知恵熱ってあんのか?」
「みたいだな。おれも知らなかったけど、っていうかこいつくらいだろうな。知恵熱なんて。まあ実際乳児みたいなもんだし、出ちゃったもんはしょうがねえだろ。一応一通り検査もしてみたが他に悪いとこはねえよ。安心しろ。放っときゃそのうち治る」
 そう言って、紙の束でペシンとおれの頭を軽く叩いた。おれは思わず息を吐く。よかった、と小さな声が口から漏れた。
「んで、無事に仲直りは済んだのか?」
「……ああ。……多分。」
「何だよ多分って」
 仲直りは済んだと思う。だが、それと同時に違う問題が浮上してしまったのだ。
「そういや昨日散々悩んでた時は熱出さなかったのに、いきなりだな。なんかまたルフィに頭使わせるようなこと言ったのか?」
「……言ったっていうか、」
「何だ」
「…………」
 果たして言うべきなのか迷う。おれにはどうしたらいいかわからないが、もし話したら男は解決策を知っているだろうか。出口へ、導いてくれるだろうか。
「…………した」
「悪い、聞こえなかった。もう一回言ってくれ」
 そう言って耳をそばだてる。何となく気まずい。
「……キス、した」
「………は?」
「だから、キスしたんだ、おれ。……ルフィに。」
 男は本気で驚いたらしく、暫し固まったように動きを止めた。
「やっぱり、おれが悪いんだよな」
「いや……悪いっつーか……なあ。」男はおれの前に手を出して言う。「ちょっとタンマ。一分、考える時間くれ」
 言った瞬間、額に手を当てて俯く。そうして一分が過ぎると男は顔を上げた。しかし、何を言っていいか迷ってるみたいに、あー、と言葉にならない声を発する。
「……おれ、ここで三年暮らしてるけど、こういう、自分でもよくわかんねえ行動取るの今回が初めてで、どうしたらいいのかわかんねえんだ。おれやっぱり間違ったことしてんのか?」
「いや、間違ってるかどうかってのは多分価値観の話だろうけど、なあ……。しかし、そうか。嬉しいとか悲しいとか悔しいとか、総ての感情がルフィに起因するんだったら、まあ、そうだよなあ……。そういう気持ちも、やっぱりルフィに対して抱くのが自然と言えば自然なのか……?とは言え、おれがけしかけたような部分も今思えばなくもねえし、なんつーか、なあ?」
 なあ、と言われても同意できるわけではない。おれは何もわかっていないのだ。
 男はガシガシと自分の頭を掻いて、ルフィを見た後、おれに目を戻した。
「……ルフィが好きか?」
「………わかんねえんだ。好きかどうかっていうより、好きってのがどういうものなのか」
「じゃあ、ルフィのことが大事か?」
「……ああ」
「まあ、そうだよな。さっきの慌て具合からもそれはわかるし、何と言ってもそんなことはずっと前からわかってたことだ。しかし入れ物はまだ未発達なのに、気持ちだけ先に行っちまった感じか」
 独り言のように呟いて、一度自分の頭を叩く。そうして大きく息を吐いて言った。
「まあ、いい。お前らは自由だからな。お前らの持つ感情を無理やり規制したり、それに伴う行動を止めるようなものは、今のお前たちにはない。おれもお前らの感情を否定したりはしない。お前らはお前らの好きなように、やりたいようにやっていいんだ。結果がどうなるかなんてやってみなきゃわかんねえだろ。もしそれがもし人として許されないような行動に繋がるようなら、その時は責任持っておれが止めてやる。だから安心して、好きなように生きてみろ」
 男は立ち上がって、それから、とルフィを指差した。
「あの知恵熱はやっぱりお前が出させたようなもんだから、責任持って看病してやれよ」
 それだけ言うと、部屋を後にした。

 看病って、さっき放っときゃ治るとか言ってたくせに、と思いながらルフィに近寄る。その気配に気付いたのか、ルフィが目を開けた。
「……エース……?」
「ん、なんだ?」
 ルフィがゆっくり伸ばしてきた手を、おれは右手で掴んだ。熱のせいか、ルフィの手は少し熱い。
「やっぱり、エースが近くにいると落ち着くなあ、おれは」
 おれは少し眉を寄せる。
「………お前、ずっと一緒じゃなくてもいいって言ったくせに」
 思わず口をついて出た言葉に、ん?とルフィが首を傾げた。
「ああ、学校行った日のやつか?エース、あれ気にしてたのか?」
「…………。」
 思わず言葉に詰まる。こういうのを墓穴を掘るっていうんだろうか。
「そっかー、気にしてたのか。エース、おれのこと大好きだなー」
 悪いか、と呟くと、ルフィは、ししし、と笑った。
「あれはなー、何て言ったらいいのかよくわかんねえけど、何でかおれはエースと離れてたらその間にエースがどっかに消えちまうんじゃねえかと思ってたんだ。目が覚めたら真っ暗で、見渡しても何処にもエースがいなくて、一人ぼっちになっちまってるような、そんなのが時々ふっと頭に浮かんでたんだ」
 それは、その感覚は何となくおれにもわかる。
 帰ってきたとき、家の中の何処にもルフィの姿がなかった。目の前で突然ルフィが倒れた。その時の慌てようは今思い出してもどうしてあんなに、と思うくらい酷かったのだ。
 きっとルフィが言うように、おれも目を離しているうちにルフィがいなくなっちまうことを恐れていたのだろう。
「でもな、それじゃあいけねえんじゃねえかとも思うんだ。おれはエースと一緒がいいし、一緒にいれたら嬉しいけど、でもそうやって二人だけでいたら多分ずっと何も変わんなくて、色んなこととか何も知らないままで、それってなんかすげえ寂しいことなんじゃねえかって思ったんだ」
 それに、とルフィは続ける。
「ナミが言ってただろ?おれはエースの近くにいるって。それって多分、手が届くとか届かねえとか、そういう意味じゃねえんだよな?」
「……ああ、多分、な」
「だからずっと一緒じゃなくてもいいって言ったんだ。エースはエースの毎日があって、おれにはおれの毎日があるんだ。そんでその上におれたちの毎日もある。そういうのが一番いいんじゃねえかって」
「だから学校にはもう来ねえって言ったのか?」
「そうだ。学校にはエースの居場所がちゃんとあって、そこはおれの居場所じゃなかった。だから学校には行かねえ。でもここは、この家はシャンクスと、エースと、おれの居場所で、そんでおれたちの居場所だろ?おれはエースの側にいてえから、だからここでは嫌だって言われても一緒にいるんだ。おれがそうしたいから、そうするんだ」
 ふうん、と言いながら、おれは内心少し驚いていた。ルフィはルフィなりに、本当にちゃんと考えていたのだ。きっとおれよりもずっと。
「それに、やっぱりエースの側が落ち着くしな!」
「……そうか?」
「おう。よくわかんねえけど、目が覚めたらすぐそこにエースがいるっていうことが、おれは一番安心するんだ。そんで、それがすげえあったけえなあって思う」
 あまりにルフィが真っ直ぐに言葉を伝えてくるものだから、色んなことを誤魔化そうとしている自分が何だか少し格好悪いような、そんな風に思える。ルフィのように真っ直ぐに、思ったことをそのまま吐き出したら、ルフィはちゃんと受け止めてくれるだろうか。
「………ルフィ」
「なんだ?」
 繋いだ手をぎゅっと握って、もう片方の手をルフィの頭に伸ばす。何でか、それはおれにもよくわからないが、わざわざ自分から遠い、頭の左側に手を伸ばして撫でた。さらりとした感触。機械の部分など何処にも見えていない。
「………おれも、多分、お前と一緒なんだと思う。お前が居なかったら落ち着かねえし、一緒にいてえって、そう思う」
 言うと、ルフィは偉そうな顔をおれに向けた。
「そうか。だったら、一緒にいてやってもいいぞ」
 ルフィがそう言うので、おれはふと息を吐いて、「頼む」と告げた。
 ししし、とルフィが笑う。おれもつられて笑った。

 それは初めてのことなはずなのに、何だか、妙に懐かしい気がした。
 三日前とか、三年前とか、そんな期間ではなく、もっと、ずっとずっと懐かしい記憶のような気がした。



end.



→(番外編)