07

 朝、7時前に起きる。着替えて三人分の朝食を作る。三人。男の分、おれの分、そしてルフィの分だ。おれとルフィは食べなくてもいいのに作る。いや、きっと食べることができるから作るのだろう。
 大したものが作れるわけではない。料理人であるサンジとは比べるべくもないが、作ること、そしてそれを食べることに意味があるのだといつだったか男は言った。その時は意味がわからなかったが、今なら何となくわかる気がする。
 こんがりと焼いたベーコンの上に卵を割り落とすと、三つの卵のうち一つだけ黄身が二つあった。双子の卵。珍しいこともあるものだ。
 焼いた食パンの上に目玉焼きを乗っけて、横にウインナーとサラダを添える。ヨーグルトにブルーベリージャムを混ぜる。後はコーヒーを淹れれば完成だ。ルフィはコーヒーを飲まないから、マグカップの代わりにグラスを置いておく。きっと自分で冷蔵庫から牛乳を取り出して飲むだろう。
 湯気をたてるコーヒーの入ったマグカップを置くと、タイミングを見計らったかのように男が起きてきた。いや、おそらく一晩中起きていたのだろう。低血圧な男が7時過ぎに自分で起きてくるなど皆無に等しい。また何かよくわからない研究を徹夜でやっていたのだろうか。どうせこの時間まで起きていたからと、朝飯を食べてから一眠りするつもりだろう。
「おはようさん」
 疲れたような声で言って、コーヒーを口に含む。はあ、とため息を吐いたかと思えば、おれももう若くねえなあ、と呟いた。
「徹夜でやらなきゃなんねえ研究でもあんのか?」
「ん?ああ、いや、研究してたわけじゃねえんだ」
 だったら何だ、と目を向けると、男はにやりと笑った。
「一晩中ルフィが寝かしてくれなくてな」
 いや参った、と言いながらおれの反応を面白がるように見てくるが、意味がわからない。
「何だそれ」
 そう返すと、男は一瞬呆けたような顔をして、そうかと思えば大袈裟なため息を吐いた。
「ルフィ取られてちょっとぐらい妬いたり怒ったりするかと思ったが、まさか言葉の意味すら伝わらねえとはな。お前らの思考回路ってそっち方面には全然繋がらねえのか?いやしかしなんつーか、健全すぎて健全じゃねえな。なあ、エース」
「……なんだよ」
「お前には誰かを見てて、抱き締めたくなるとか、キスしたくなるとか、そういうことってねえのか?」
 男の言葉におれは眉をしかめる。何を言うんだこのおっさんは。
「ねえよ」
「一度も?」
「ねえって言ったらねえ。そんなの人間だけだろ」
「あーもう、お前はまたそうやって人と自分を分ける。ったく、ほんと頑固だな。昨日やっと少し受け入れたかと思ったのに、また元通りか。まあいいけどよ。お前はどうせルフィ絡みだと人間とかアンドロイドとか言ってられなくなるわけだし」
「………」
 出て来ない否定の言葉の代わりに、おれは男から目を逸らした。何だろう。この何かに負けたような気分は。

 男が食パンをかじる音が聞こえて顔を上げる。家族揃って飯を食うことを大切にする男が、ルフィの揃わない状態のまま食事を始めた。それはおれに無言のまま此処にルフィが来ないことを伝えているみたいだった。
 男をじっと見ると、おれが見ていることに気付いているだろうに、男はおれを見ようとしない。おそらく、知りたければ自分でちゃんと訊けということなのだろう。
「………ルフィ、は」
 声に出すと、男は顔を上げずに言う。
「起きてるよ。一応な。考えて、充電して、考えて、考え疲れて、眠って、起きた。今はもう考え過ぎて思考停止なんてことにはなってねえから、自分なりに答え出したんだろ」
 そこまで言って、漸く顔を上げた。
「訊きてえか?」
 おれは少し逡巡した後、小さく頷いた。
「あくまでついさっきのルフィの言葉だからな」そう前置きをして、言う。「『エースの傍には行かねえ』んだと」
「………そうか。」
 それは予想通りの答えではあった。自業自得だと思う。自分から近付くなと言っておいて、何事もなかったかのようにまた同じように接して欲しいなんて虫のいい話だろう。
 だが、予想以上にその言葉はずっしりと重くて、思わずため息が零れそうになった。そんな様子を感じ取ってか、男は言う。
「お前、後悔してんのか」
「後悔……?」
 口に出してみて、そうかもしれねえ、と思う。ルフィが後悔という言葉を使った時には、アンドロイドのくせに人間みたいなことを言うと思ったのに、確かに今の気持ちを表すなら後悔が一番合っているような気がした。
「『後悔ってのは苦しいもんだ』なあ、エース」
 何か意味有り気にそう言って、片肘を付いた。おれは一度目を閉じて頷く。
「…………ああ。」
 これが本当に後悔と呼ぶものだったなら、こんなに痛いことはない。苦しいとか、痛いとか、言葉の意味は理解をしていても実際に感じるのはおそらく初めてだ。
 こんなの、まるで人間みたいじゃねえか、と思う。
「……なあ、」
 顔を上げると、男と目が合う。一瞬怯みそうになったが、何とか押し止めて真正面から訊いた。
「おれはずっと、完成した人工知能なんて人間が夢見てるだけで、実際には造れねえし必要もないもんだと思ってた。けどよ、その完成した人工知能ってのは、もしかして、おれの中に入ってんのか……?」
「ああ、入ってる」
 男は目を逸らさない。そしてその瞳はおれの目も逸らさせなかった。
「お前が知ろうとしなかっただけで、最初からお前の中にあるんだ。それこそずっと前からな。ただ、きっとまだ不安定なんだろうな。ルフィに関する時だけお前のそれは働くらしい。昔からそうだった。変わらねえもんだな」
「昔?ルフィができたのはつい何日か前のことだろ」
「ああ、今のお前にとってはそうだな」
「他に何かあんのか?」
「……いいや。お前がいて、ルフィがいる。それだけだ」
 いまいち腑に落ちないが、男はこれ以上それについて話す気はないらしい。おれは自分の身体を見下ろして、胸に軽く手を置いた。心臓音があるわけではない。でも動いている。
「………おれに、完成した人工知能が」
「その表現、おれはあんまり好きじゃねえな」
「どういう意味だ?」
「お前の身体には『完成した人工知能』が入ってる。それは事実だ。だがあくまでそれは入ってるだけだ。お前はそれを働かせて、ちゃんと自分の考えを持つことが出来る。ルフィもそうだ。なあ、エース。お前も、ルフィも、ちゃんと『心』を持ってんだよ」
「心…?」
「そうだ。嬉しいことも、悲しいことも、悔いる気持ちも、それぞれ自分だけのものだ。それをお前たちはちゃんと持ってる。感じることが出来てる。これから先もまだ幾つでも何度でも抱くことができる。お前らには未来があるんだ。お前らだけの続きが、ちゃんとあるんだ」
 おれに心臓があったなら、大きく鳴っていたかもしれない、と思う。続きがある。その言葉におれの身体の奥がざわりとなった気がした。
「嬉しいと感じられるってことは、悲しいことも同じだけ感じられるってことだ。喜びを味わえる代わりに傷つくこともある。痛みを感じるんだ」
 だから、と呟いて、男は息を吐いた。
「自分とルフィを、あんまりいじめてやるなよ」
 男はそう言って腕を伸ばすと、ガシガシと乱暴におれの頭を撫ぜた。小さいガキにするみたいに。
 そうして時計を指差して、どうする、と言った。見れば、とうに時間が経ってしまっていて、遅刻は間違いなかった。
「学校、別に休んでもいいぞー?」
 おれは暫し逡巡して、立ち上がる。
「いや、行ってくる」
 男はおれを見て、微笑った。
「そうか。んじゃ、まあ、行ってこい」

 遅刻なんて初めてのことだったが、別にその後の日常に何か大きな変化があるわけではなかった。リズムが少し崩れたくらいでは、おれも周りもすぐに元通りに戻ってしまうらしい。全てがいつも通りであることに拘っていたことが、何だか少し馬鹿らしく思えた。
 最後まで授業を受けて、家路に着く。
 帰ったら、とりあえずルフィに謝ろう。それでどうするかはきっとルフィが決めることなんだろう。
 そう思いながら玄関の戸を開いた瞬間、おれは動きを止めた。そこに仁王立ちしたルフィが待ち構えていたからだ。
「おかえり」
「……ただいま」
 とりあえず中に入って戸を閉める。自分から行こうと思っていたのに、思いっきり出鼻を挫かれてしまった。
「エース、おれは昨日いっぱい考えたんだ」
「………ああ」
「ほんとに、びっくりするぐらいいっぱい考えたんだぞ!」
「………ああ」
 何度も思考停止するくらいに、ルフィなりにちゃんと考えていたのだ。それをおれは知っている。
「この前、エースはおれが一緒にいてもいいって言ったのに頷いただろ。でも昨日は近寄んなって言った。意味わかんねえぞ。どっちだ」
「それは、」
 おれの言葉を阻むように、ルフィは続けた。
「んで、わかんなかったから、いっぱい、いっぱい考えて、それでもおれにはわかんなかったから、もう考えるの止めた。頭使うのすんげえ疲れるしな。もういいやと思って、そんで決めた」
 決めたというルフィの言葉に、思わず息を詰める。
 ルフィが考えて出した答えだ。どんなものでも否定はするな。男の言葉が頭に浮かぶ。
 ルフィは仁王立ちしたまま、ふんっと息を吐いて言った。
「エースがどう言おうと知らねえ。おれはエースと一緒にいてえ。朝はな、エースが近寄んなって言うから、おれだってちょっと我慢したんだぞ。でもやっぱり一緒がいい。だから一緒に居るんだ。そう決めた。だから近寄んなって言われたって離れてやんねえんだからな!」
 そう言って、べ、と舌を出す。
 おれは何だか思いっきり力が抜けて、その場にへたり込みそうになった。それを何とか押し止める。
「お前……ばか……」
「なんだと!これでもいっぱい考えたんだぞ!意味わかんねえこと言うエースの方がばかだ!」
 頬を膨らませるルフィに手を伸ばす。そのまま思わず抱き寄せたら、ルフィがぎゅっとしがみついて来た。
「……ああ、そうかもな」
 悪い、と謝ると、ルフィが抱きついたまま顔を上げて、仲直りか、と問う。
「だな。仲直りだ」
「そっか!いいぞ。許してやる!」
 ししし、と笑うルフィを見て、おれも笑う。
 二人で一頻り笑ったあと、ルフィの頬に手を添えて、顔を近付けた。
 そのまま、唇が重なる。
 ルフィは目を開けたままで、顔を離すとぱちぱちと瞬きをした。そして何が起こったか理解できないみたいに、自分の唇を舌で一舐めする。
 朝の男の言葉が頭を過ぎった。
 ルフィがおれを見つめて、問う。
「なんだ、今の」
 おれも訊きたい。
 なんだろう。