05

 朝、7時前に起きる。着替えて朝食を作る。仕度を整えて家を出る。学校に着いたら自分の席に座って一日授業を受ける。
 そんないつも通りの、何の変化もない行動をとっているはずなのに、妙な居心地の悪さを覚えて仕方がなかった。どうしたって落ち着かない。
 居心地の悪さを覚えたのはこれが初めてではなかったが、今までに感じてきたどれとも違うような気がする。自分という存在が希薄化していくような感覚とでも言えばいいのだろうか。
 しかしおかしな話だと思う。おれという個体は此処に存在している。物体。それが希薄化するなどありえない。その他に『おれ』は存在しえないはずなのに。
 思い出すのはルフィの「一緒じゃなくてもいい」という言葉ばかりだ。昨日からずっと耳に、頭に、こびりついて離れない。何をしていたって、まるで映像データを再生しているかのようにあの時のルフィの言葉が繰り返される。あの顔と、あの声で、何度も、何度も、繰り返し、おれの頭を流れる。
 データごと削除できたならどんなに楽だろう、と思う。だが、それが出来るとしてもきっとしないのだろうとも思う。
 おれにとって、ルフィとは一体何なのだろうか。データとしての存在ですら、簡単には消してしまうことができない。
 いったい、何なのだろうか。
 遊園地で、ルフィはおれと居なければ落ち着かないと言っていた。おれはそれに、おれはそんな風には感じないと返した。
 あの時は確かにそうだったのだ。ルフィの傍に居心地の良さは感じても、離れることに落ち着かなさなんて感じなかった。なのに、今はルフィの言葉がよくわかる。おれは確かに落ち着かなさを感じているのだ。
 そしてルフィは観覧車の中で、一緒にいてもいいんだな、と言った。おれはそれを否定しなかった。一緒にいても構わない。そう思った。今もそう思う。
 なのにルフィは昨日、一緒じゃなくてもいいと言った。おれはそれに何も返せなかった。
 何と返せばよかったのだろう。おれは、何と返したかったのだろう。
 一向に答えは出ない。それどころか、考えるたびに殊更重くあの言葉が圧し掛かってくるような気がする。

 学校で授業を受けている最中だというのに、おれはどこか上の空になってしまっていた。ルフィの存在が頭を掠めて集中できない。当てられて答えられないなんてことは初めてだった。
 いったい、何をしているのだろう。
 アンドロイドは有能でなければ意味がない。有用であることが求められる以上、役に立たない粗悪品が存在する必要はないのだ。おれは人間とは違う。有用か無用か。オール オア ナッシング。その二つしかない。
 そして無用ならば、要らない。
「珍しい。答えられねえなんてことがお前にもあんだな」
 休み時間にそう声をかけてきたサンジに、おれは気のない返事を返した。あまり触れられたいことではなかったし、これ以上混乱するのも嫌だった。
 そんな気持ちを察してかはわからないが、サンジはそれ以上そのことについて触れることはなかった。しかしその代わりに、「ところで」と、より触れられたくない話題を出してきた。
「ルフィ、だっけ?お前の弟、今日も来んのか?」
「………なんで」
 サンジは気にしていないようだが、自分でも予想外の低い声が出て驚く。声音を変えようとしたわけではない。今のは、無意識、だった。
「いや、昨日は弁当持って来ただろ?一応お前の分の弁当を作っている身としては弁当の数とか気になるわけだ」
「……そうか」
 サンジが気にしているのがルフィが来るかどうかということよりも、ルフィが弁当を持ってくるかどうかであることに、どこかすっきりする。何が変わったわけでもないというのに。
「ルフィなら、もう来ねえって。昨日家で言ってた」
 そうだ。それは何も変わっていないのだ。
「へえ。んじゃ、お前の弁当は今まで通りでいいのか?」
「……ああ。頼む」
 サンジは「了解」と笑うと、「それから」と、包みを取り出した。
「これ、ルフィに渡しといてくれ」
「………なんだこれ」
「今度何か作ってやるって昨日約束しちまったからな。今日も来るんならそん時渡そうかと思ってたんだけどよ。来ねえんならお前から渡しておいてくれ」
 そう言って包みを差し出す。条件反射のように受け取ると、妙にずしりと重く感じられた。
 これを渡せばルフィは喜ぶのだろうと思う。昨日もサンジの飯をやたらと食べたがっていたし、あいつのことだから遠慮の欠片もなく、あっという間に平らげるに違いない。そして嬉しそうに満面の笑みで笑うのだろう。
 その様子が頭を過ぎって、何故かむっとする。おもしろくない。
 そう思っている自分に気がついて、おれは愕然とした。
 これは言わば、人間であるサンジからの「渡せ」という命令だ。なのに自分の中に渡したくないと思う部分がある。人間の命令に逆らおうとするおれがいるのだ。

 不安定なまま家に帰り着く。
 ひどく疲れた。いつもよりも電池を消耗している気がする。早めに充電しなければいつ切れてしまうともわからない。
 サンジから渡された包みを鞄の中に入れたままとりあえず居間に向かう。昨日と同じようにルフィがくつろいでいるのだろうと思ったが、そこにルフィの姿はなかった。
 少し意外に思いながら他の部屋を見て回る。寝室、研究室、書斎、自分の部屋も覗いたが何処にも見当たらない。
 玄関に戻ると、そこにルフィの靴はなかった。

 そこでおれは思い知る。
 ルフィが『いない』ことを。

 頭が真っ白になる。何かを考える余裕など何処にもなかった。気がついた時にはもう、おれはルフィを捜すために走り出していた。

 家を出てすぐのところで、おれは誰かとかち合った。おれより頭一つ分くらい小さいそれは、他の誰でもなく、ルフィだった。
 ルフィはおれを見て一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔を見せる。
「おかえり、エース。もう帰ってたのか。ん?でも出てきたってことはまた出かけるのか?」
 ルフィに変わった様子はない。少なくとも見える範囲には何処にも。
「お前……どこ……」
「ん?おれか?ちょっと散歩しに行ってた」
「散歩?」
「おう。エースが学校行ってる間暇だったからな。探検しよっかなーと思って出かけたんだけど、もうすぐエース帰ってくるかなと思って戻って来たんだ。でもちょっと遅かったみたいだな」
「散歩。……そうか。散歩……」
 ルフィは無事だ。何もなかった。昨日と変わらない姿で目の前に、手の届くところにいる。たったそれだけのことに張り詰めた気持ちが一気に緩むのがわかった。
 気が抜けると同時に、眩暈のように身体がふらついて塀にもたれかかった。視界が狭まる。一度視界が真っ暗になって、すぐに再び視界を取り戻した。電池が切れて予備電源に切り替わったのだ。
 こんなの、初めてだ。
 予備電源など使うことはないと思っていた。主電源が落ちるより先に充電するのが常だったし、残量の少ない状態で無茶をするような馬鹿はしないはずだった。
 機械であるおれに、本当にそんなことがあるのか疑わしいけれども、おれは確かに慌てていたのだ。他の何も考えられないほどに。
 家のすぐ前で見つかったから良かったようなものの、もしあのまま駆けずり回っていたら街中で電池切れになっていたかもしれない。それでなくても今日は電池の消耗がいつもより大きかった。ちゃんとその認識もあったというのに、そこまで頭が回らなかった。
 普通ならば、あらゆる可能性を検出して、その中で最も妥当と思われるものを選び出し、最善の方法をとる。それがアンドロイドに求められていることだ。
 なのにおれは必要とされることを何も出来ぬまま、ただただ闇雲に走り回ってルフィを捜そうとした。
 どうかしている。
 本当に、おれはどうかしている。
 授業中に求められた答えを導けなかったり、人間からの命令に逆らおうとしたり。制御しなければならないはずの己の行動が、自分にもわけのわからないまま無意識に振り回されている。
 これが何なのか、おれにはわからない。
 ただ、全てルフィが関わっていることだけはわかる。
「エース?どした?大丈夫か?」
 塀にもたれ掛かったままのおれにルフィが手を伸ばしてくる。
 おれはその手が届く前に払いのけた。パシン、と小気味いいほどの音が響く。
「触んな」
 ルフィが目を見開いて動きを止める。何を言われたかわかっていないみたいに。
「……もう、おれに近寄んな」
 いつも感情をありのままに表すルフィの顔が、ひどく傷ついたように歪んだ。だが、おれにはそれに構っている余裕などなかった。
 払い除けられて行き場所を失くした手を宙に浮かせたままのルフィを一人残して、おれは家に戻る。
 玄関の戸が閉まる前に、おれは振り返ることなく言った。
「お前の傍に居ると、おれはおかしくなっちまう」
 戸が閉まると同時に、倒れそうになる身体をなんとか支えて家に上がる。
 身体が重い。早く充電しなければ、と思う。なのに、それすらも億劫だ。
 とにかく、ルフィから離れなければ、と思った。
 あいつの傍にいると、おれはアンドロイドではいられない。