01

 玄関でルフィは思い切り頬を膨らませて、じとりとおれを見た。時刻は午前7時30分。朝早くから何て顔をしているのだろう。昨日の遊園地といい、よくいじけた顔をする奴だ。
 その表情の豊かさに呆れつつ、その一方で感心もする。嬉しいだとか気に食わないだとかヤキモチだとか、人間臭い感情を微塵も隠すことなく曝け出してみせる。それがあまりにも自然なものだから、なんだか人間のような気がしてしまう。

 ルフィのこの表情は別に昨日からずっと続いているわけではない。遊園地を出てからは不機嫌だったことも忘れたように笑顔を見せていたのだ。
 しかしそれも短時間のことだった。ルフィは遊び疲れた子どものように、家に帰り着くより先に寝てしまったからだ。文字通り、電池の切れた状態だった。
 寝てしまったルフィをおぶって帰る道すがら、日の暮れた暗い夜道と背にかかる重さに、言葉にならない何かが沸き起こりそうになった。嬉しいだとか哀しいだとか、そんな単純なものではなかった。例えるなら郷愁と憧憬を合わせたような感情で、そのくせ悔恨に似た気持ちさえあった。
 おれの頭にはサウダージという言葉が浮かんできたけれども、そんなたった一言で言い表してしまいたくはなかった。何故かは知らない。規格外な答えなど必要ないというのに、どうしても既に存在する、造られた型には嵌めたくなかった。おれもルフィも、造られた型だというのに、だ。
 まるで自分の中で道に迷ったようだ。そう思った。不安定なのに、帰り着く場所がある。帰る場所があるのに、進むべき道がわからない。
 おれのそんな状態を知ってか知らずか、並んで歩く男は静かに言った。
 やっぱりそこは、ルフィの居場所で、そんで、エースの居場所なんだよな。
 それはおれに言っているようで、独り言のようでもあった。聞こえていないならそれでも構わない。そんな小さな声だった。現に、男はおれに返事を求めなかった。
 代わりにおれは、おぶったルフィを抱え直した。ルフィがずり落ちそうになっていたからではなく、ただルフィの重さを、そこに在ることを確かめるように抱え直した。
 何か、自分の中に今まで無かった何かがあるような気がした。機械仕掛けの中に、しっかりと。形があるわけではないのに、確かな質量を持っている、そんなものが。
 それが何なのか、おれは知らない。
 しかし、或いはこの男は知っているのではないかと、そう思う。


 そして翌日。5月7日、平日。ゴールデンウィークも過ぎ去り、再び学校のおれは着慣れた制服に着替え、家を出ようとした瞬間にルフィに捕まった。
 どうやら充電の完了したらしいルフィは、行儀の悪いことに肉の盛った皿を抱えて口を動かしながら玄関にやって来た。ごくん、と大きく喉を鳴らして口いっぱいに頬張った肉を飲み込むと、首を傾げて言った。
「エース、どこ行くんだ?」
「どこって、学校。それよりお前、食べる時はちゃんと座って食えよ」
「学校?エース、学校行ってんのか!」
「……後半聞いてねえな」
「ん?でも昨日もその前も行ってなかったじゃねえか」
「そりゃ休みだったからだ。一昨日は祝日、昨日は振り替え休日。そんで今日からまた始まんの。わかったか」
「ふーん。じゃあ今日エースいねえのか」
「そういうこった」
「そうか。じゃあ、おれも学校行く」
「……はあ?」
 何が「じゃあ」なのか、どうしてそうなるのか、ルフィの思考回路はよくわからない。そのくせ、ルフィ自身はその結論に達することが当たり前だと言わんばかりの表情なのだから困る。
「なんで」
「エースが学校行くから」
「理由になってねえよ。それにルフィ、お前まだ生まれて2日しか経ってねえだろ」
「そんなの関係ねえ!エースだって3歳じゃねえか」
「………」
 それはまあ、そうなのだが。

 ルフィが制服に身を包み、学校にいる姿を想像する。きっと、こいつのことだからそれが家であろうと学校であろうと態度を変えるなんてことはないのだろう。大人しく椅子に座って授業を受けるなんて、そんなことが出来るのか疑問だ。
 それに、ルフィには警戒心も無ければ注意深さも無い。アンドロイドである自分と人間の間に線引きをしていないからなのかもしれないし、アンドロイドだと知られても問題ないと考えているのかもしれない。
 だが、どっちにしろそれは危険だ。人間は、自分と違うものに対しては突然牙を剥く。

「とにかく来んな。お前には無理だ」
「何でだ」
「なんでも。だいいち、お前制服もねえし、転入手続すらやってねえだろうが。学校行くにはそれなりの準備が必要なもんなんだよ」
「準備?それが出来たらいいんだな!」
「いや、そうじゃなくてだな」
 どうしてルフィはこんなにも学校に行きたがるのか。学校なんて、おれたちに必要なものではない。おれだって、別に好き好んで行っているわけではないのだ。
 それに、ルフィが学校に行くと言い張る度に、何かもやもやしたものが膨れていくのがわかる。人間ならこれを胸騒ぎとでも呼ぶのだろうか。
「……もう、いいだろ。おれは行くから、お前は留守番しとけ」
「全然良くねえ!おれは学校に行きてえんだ」
 ルフィは思い切り頬を膨らませて、じとりとおれを見る。そしてその顔のまま、「行くったら行くんだ」と聞き分けのない子どものように繰り返した。
「あー、もう、わかんねえ奴だな!だから、お前には無理だって」
「ちゃんと準備したらいいんだろ?ならシャンクスに言って……」
「だめだ!やめろ!!」
 予想外の怒鳴り声に、ルフィがビクリと肩を震わしたのがわかった。
「………エー…ス…?」
 驚いたようにおれを見上げて、そのまま動きを止めた。ルフィなりに今のおれの行動を情報化して自分の中で処理しようとしているのだろう。
 だが、それが上手くいくとは思えなかった。何故突然あんな声が出たのか、おれにだってよくわからないのだ。

 居心地の悪さを感じた時、おれの怒鳴り声を聞いてだろう、男が奥から現れた。正直なところ、助かったと思った。男が来なければ、二人で立ち尽くすことしか出来なかっただろう。
「どうした?喧嘩でもしたか?」
「………いや。わかんねえ。わかんねえけど、なんか、」
「なんか?」
「………」
 何だと言えばいいのだろう。上手く表現できる気がしない。駄々を捏ねる子どもみたいだが、なんか嫌だった、そう言うのが一番当てはまるように思う。
「エース」
 一瞬、それがどこから発せられた声なのか、わからなかった。初めて聞く声だと思った。だが、それはすぐ目の前のルフィから出た声だった。
「エースはおれが学校に行くの、そんなに嫌なのか?」
「………」
「おれがエースと一緒にいるの、だめか?」
「だめじゃ……ねえ、けど」
 昨日、観覧車の中でルフィが「一緒にいてもいいんだな」と言って笑ったのを思い出す。別にその気持ちが変わったわけではない。ないのだけれど。
「あー…。ちょっと待て。おれにはよく事態が飲み込めてねえんだが、どっちか説明してくんねえか?」
 困ったように頭をかきながら訊く男を見上げると、口を開かないおれの代わりに、ルフィがお世辞にも上手いとは言えない説明を始めた。
「エースがな、おれに学校来んなって」
「学校?ルフィ、お前学校に行きてえのか?」
「おう。だってエースが行くからな」
「そりゃまたお前らしい動機だなあ」
「でもな、学校行くには準備がいろいろいるから、無理だって。だから準備したらいいんだろって言ったら……」
「怒られたのか」
 ルフィはちらりとおれを見て、こくんと頷いた。
「………学校、か」
 たったそれだけの説明なのに、男は納得したように呟いた。そうしておれに目を向ける。この居心地の悪さは何だろう。
「エース。ルフィが学校行くの、反対か」
「………わかんねえ。わかんねえけど、なんか、すげえ嫌なんだ」
 口に出してみて、やっぱり駄々を捏ねているみたいだと、そう思った。だが、男は笑うわけでもなく、からかうわけでもなく、真剣な表情のままだ。
「それが何でなのかは、わかんねえんだよな」
「………ああ」
「そうか」
 男は一つため息を落としてルフィの頭を撫でた。そうしておれを見て、言う。
「なあ、エース。大丈夫だ。大丈夫なんだよ」
 おれは、何が、とは訊かなかった。