02

 ベックマンがシャンクスの部屋に辿り着いた時には、部屋の中はもう既にがらんとしていた。
 読みかけの資料がそこら辺に散らばっていたりだとか、積み重ねられていた本が雪崩を起こしたあとだとか、そういった今まで当たり前のように見てきた光景がきれいに取り除かれてしまっている。

 その情報が耳に入ったのはつい今し方のことだ。どの科学者の助手なのかはわからないが、まだ若く、科学者として認められていないような奴が廊下で噂話をしているのが聞こえたのだ。
 曰く、人工知能開発部の、あのシャンクスがこの機関を去ることになったらしいぞ、と。

 ベックマンはそれが耳に入ってすぐシャンクスの部屋へと急いだ。本当かどうかなど問い詰めるようなことはしなかった。シャンクスが協力を拒否し続けている以上、そういう日が来ることは可能性としては十分にあり得ることだと思っていたからだ。
 そしてその結果が、今目の前にある片付いた部屋だ。個人の持ち物は全て取り除かれ、必要最低限のものだけが残されている。早くも次の研究者が入るための準備が整っているというわけだ。

 それにしても、まさか機関がこんなにも早くシャンクスを追い出しにかかるとは思っていなかった。いや、今でもまだ信じられない。この機関にとってシャンクスの研究と能力は簡単には切り捨てることのできないものであるはずだ。
 それを切り捨てたということは、代わりとなる科学者か、或いはシャンクスの能力を遥かに凌ぐほどの情報を手に入れたということになる。いくら手を焼いていたとはいえ、何の代わりも見つかっていないのに能力を切って捨てるほど機関もバカではない。
 では、機関が手に入れたのは何だ。人材なのか情報なのか。
 どっちにしたって、今の機関の考え方の下で無制約にアンドロイドが造られるようなことになる危険性がある以上放っておくわけにもいかない。

「びっくりだろ。この部屋こんな広かったのかって」
「………!」
 突然背後からかけられた声に振り返ると、いつもと何ら変わらない様子で赤髪の男が立っていた。
 そうだ。この男の様子はいつもと何も変わらない。なのに、何だってこんなにも違和感を感じるのか。
 それはきっとこの部屋のせいだろう。ついさっきまでここはシャンクスの部屋であったはずなのに、既に新しく来る誰かのための部屋に成り下がったこの部屋の。
「おれここ入ってから一回もちゃんとした掃除した覚えねえから荷物も凄くてな。片付けに来た奴らが運び出すの見てたんだが、大変そうでなかなか面白かったなアレは」
「……お前、そんなこと言ってる場合じゃないだろ」
「そうか?おれは結構すっきりしてるがな」
「そりゃあお前にとっては煩わしいことから解放されて良かった部分もあるだろうが、だがこれは恐れていた事態なんじゃないのか?」
 機関はシャンクスがいなくてもアンドロイドを完成させる可能性を手に入れた。その上、シャンクスはもう部外者となってしまった。これからは関係者として人工知能の利用に対して口を出すことすら出来なくなる。
「まあ、そうだな。それなりに危険ではある。だがこれは機関にとってもそんなにうまい話ではねえとおれは踏んでる」
「どういうことだ」
「ん。いろいろあるんだが、……それを詳しく話している時間はねえみたいだな。お迎えだ。」
 シャンクスはそう言って廊下の先に目を向けた。見れば、警備の連中がこちらに向かって来ていた。大仰に革靴による足音を響かせて近付いてくる。そしてシャンクスの目の前でぴたりと止まった。
「元人工知能開発部、シャンクス博士。あなたのIDカードを回収させていただきます。それにより今後一切機関への出入りは不可能となりますのでご了承ください。外までは我々が付き添います。なお、この機関内における研究記録等の持ち出しは一切認められておりませんので、建物入口の警備室にて一度手荷物の検査をさせていただきます。宜しいですか。」
「ああ。好きにやってくれ」
「ではこのまま警備室へどうぞ」
「じゃあな。ベン。」
「おい……っ!」
「また飲みに行こう。そうだな、前に行ったあの店はなかなか良かった。あそこでまた飲みてえな」
「……わかった」
 シャンクスはニッと笑って、そのまま警備の連中に付き添われて行ってしまった。そしてベックマンのスケジュールには、今日の夜あの居酒屋で、という予定が加えられた。


 ベックマンは少し早く酒場に来ていた。正直な話、仕事など手につかない。こうなってしまった以上、落ち着いて作業などしている場合ではなかった。
 一応個室に分けられている居酒屋は何かと都合がいい。酒の勢いに任せて騒ぐ奴もいて、盗み聞きすることは不可能に近い。まあ、こんな普通の居酒屋で盗み聞きを心配するような重要事項について話すような奴がいるなんて思わないだろうが。
 適当に頼んだ料理にも手をつけずじっと待っていると、シャンクスがやって来た。
「……何だその荷物は」
 シャンクスはこれから旅にでも出るかのような荷物をぶら下げてやって来た。どう見たって居酒屋に来るような荷物ではない。
 だいいち、こいつは日頃手ぶらで外出することが多い。その荷物の少なさたるや、財布すら持ち歩かないことがあるくらいだ。
 そのシャンクスが突然大荷物をぶら下げて現れたとなれば何かあるのかと疑うのが当然だろう。
「ん?これか。まあ、気にするな」

 店員を呼び、飲み物を頼む。珍しく酒ではない。机の上に並んだ料理を適当に摘まみ、ノンアルコールの飲み物が来たところで漸くシャンクスは「さて、」と話を切り出した。
「何から話せばいい?というか、何が訊きてえ?」
「とりあえずお前が機関を去ることになったところから順序良く話せ」
「順序良く、ねえ。そうだな、おれが上の連中に呼び出されたのは今日の朝イチだ。そこで言われたのは、このまま機関のやり方に反対し続けるなら近いうちに辞めてもらうことになる、ってことだ。お前もこういう日が来るだろうってことは予想してただろうが、もっと先だと思ってただろうな。だが、おれは多分この二、三日中にそうなるだろうと思ってた」
「何故だ。おれにはここ最近でそんなにも事態が急変していたとは思えないが」
「表向きは、な。だが一週間ほど前におれは別の筋から情報を手に入れてた。それがあれば、機関はこういう行動に出る日もそう遠くはねえとわかってた」
「その情報ってのは何だ。そんなに重大なものなのか?」
「ああ。おれも初めて聞いたときは信じられなかったくらいだ。いや、今でも半分以上疑ってる。そりゃあ、こんなにも多くの人間が集まって研究を続けてきているってのに、たった一人の奴が既に感情を持ったアンドロイドを完成させていた、なんて言われても簡単には信じられねえだろ」
「……何だと?」
「ああ。そういう反応が普通だろうよ。俄かには信じらんねえよなあ。今の時点じゃ完成はまだ夢みたいにあやふやなもんだったんだからよ」
「まさか本当に人工知能を完成させた奴がいるってのか……?」
「さあな。おれだって完成したアンドロイドを見たわけじゃねえ。信じられねえと思っている部分もある。だが、そういう情報があることは確かで、機関はそれを信じてる。そしてそいつを機関に呼び込むつもりでいる」
「そんなこと、お前は許せるのか」

 完全なアンドロイドを造るための知識と技術。それを機関が手に入れる。そんなことになったら、今後どうなるかなんてわかり切ったことではないか。
 有り余る金を注ぎ込み、無制約にアンドロイドが生産されていくに決まっている。それはシャンクスが最も恐れていた事態ではないか。

「まあ、待てよ。言っただろ?おれはそんなにうまい話だとは思ってねえって」
「ああ、確かに言ってたな」
「考えてもみろ。その情報が正しかったとして、そいつは一人でアンドロイドを既に完成させてんだろ?それなら今更わざわざ協力する義理もねえ。それに今までだって機関は存在してたのに一人でやってたんだ。相当な変わり者、或いは本当の天才だな。だが、どっちにしたって機関に関わろうとするとは思えねえ」
「いや、そうかもしれねえが、」
「それよりおれは感情を持ったアンドロイドが存在するってことの方が気がかりだ。そいつには完成した人工知能が埋め込まれてる。それを機関が手に入れてしまえばもう止まらねえだろうよ。完成品が其処にあるならそれと同じものを造るのはそこまで難しいことじゃねえ。機関は今はまだそのアンドロイドよりも創造主である奴の方に目を付けてる。行動を起こすなら今のうちだ」
「どうするつもりだ」
「機関より先にそのアンドロイドを見つける。場合によっては人工知能を取り出して破棄する」
「本気か……?」
「そうする他に手がねえ。そのために早々に機関を抜けたわけだしな。さすがに話を切り出した直後におれから辞めると言い出すとは思ってなかったみてえだが、おれは一週間前から準備は出来てた。こっちから切り出さなくて済んだ分、手っ取り早くて助かった。すぐにおれが今までの研究内容なんかを持ち出さねえように人を寄越してきたが、まあ遅かったな。競業避止義務だとかでおれの部屋にあったもんは殆ど取られて行ったが、あの中に他の科学者共が知らねえような内容は入っちゃいねえ」
「先に持ち出してたってわけか」
「いいや。機関から出る時に一緒に持ち出してきた」
「一緒に……って、手荷物の検査があったはずだろう。それで見つからねえような生ぬるい検査じゃないだろ」
「ああ。ありゃセクハラだな。訴えてやろうかと思った」
「ならどうやって」
「ここ、だ」
 シャンクスはそう言って自分の頭を指した。
「別の媒体なんかに残してたらどうやったって見つかる心配があるからな。だが頭の中に入ってるもんはどんなに厳重な検査があったって奪われる心配がねえ。名案だろ?」
「……普通はそんな膨大な量のデータを記憶するなんてできねえよ」
 まったく。天才ってのはいるもんだ。

「じゃあお前が持ってきたその荷物はこれからアンドロイドを探しに行くための旅の荷物ってことか」
「そういうことだ」
「そうか。だが、そのアンドロイドの情報はどっから聞いた」
「ん。誰かってのは言えねえが、機関の上層部の人間でおれと同じように危機感を抱いてる人もいるってことだ。とりあえず、アンドロイドを造ったやつと機関の交渉は十中八九失敗するだろうからおれがアンドロイドを見つけ出して人工知能を破棄できれば、今後暫くは心配が遠ざかる」
「成程な。お前はこのまま探しに行くんだろう?」
「ああ。早いに越したことはない」
「そうだな。じゃあ、このまま酒を飲む前に発て」
 シャンクスは笑って立ち上がると、じゃあな、と居酒屋を後にした。