その日その場所を通ったのは偶然だった。
 静かな場所を探して適当に歩き辿り着いたのがその場所だった。授業では殆ど使われていないため普段は立ち寄ることのない校舎の裏。煉瓦で組まれた花壇には雑草が生い茂っており、手入れが行き届いていないことがよくわかる。
 その様子から人があまり近寄らないのだということが窺い知れ、ここでいいか、と花壇の隅に腰を下ろした。
 膝の上に譜面を広げる。次のコンクールの課題曲の一つであるそれは技術的な難易度は然程高くない。そうすると必然的に表現力が重視される。
 昔から感情豊かな表現というのがどうにも苦手だった。嬉しい、楽しい、哀しい、悔しい。そういった感情を持たないわけではない。人並みには感情の起伏がある。だが、それが上手く表に出せないのだ。
 どうして譜面に書いてあるものをそのまま音にするだけではいけないのだろう。譜面と異なればすぐに減点対象になるというのに、その一方で他とは違うことを求めてくる。矛盾だらけだ。求められるのが技術的な難易度だけなら誰にも負けない自信があるのに。
 ふう、と息を零したとき、突然頭上から音が降り注いだ。
 脳を揺らすようなドラム音と身体の芯に重く残るようなベース音。そしてその上を、まるで挑発しているかのような速弾きのギターが駆け抜ける。
 思わず音のする方を見上げる。当たり前のことだが、殆ど真上に位置する教室のため演奏者の姿は見えない。
 正直なところ、これだけの演奏をする者が同じ高校にいるということが俄かには信じ難い。ここは音楽に特化した学校ではない。自由な校風の私立校であるため公立校よりは好きなことがやりやすいといった程度で一般入試で入ってくることに変わりはないのだ。だが、身体の奥底を揺さぶるこの音は、今ここで演奏されている生の音でなければありえない。
 楽器の音一つ取ってもそうだが、演奏されている曲自体も完成度が高い。今まで一度も聞いたことのない曲だ。
 ふと、この演奏者たちのために作られた曲なのではないかという考えが頭に浮かぶ。芝居では先に役者が決まっていて後から脚本を書く当て書きというものがしばしば見られるが、この曲にもそれと同じようなものを感じる。それほどに曲と演奏がぴたりと合っていたのだ。
 幼い頃からもう10年以上も音楽に関わってきて一番と言ってもいい衝撃だった。
 広げていた譜面が風に飛ばされるのも構わず、音が鳴り止むまでその場から動けなかった。




「文化祭っすか?」
 御幸と倉持の会話から耳に飛び込んできた言葉を拾い上げ口に出せば、御幸は「ああ」と頷いた。
 青道高校の文化祭は3日間に渡り開催されるのが通例だ。一日目の前夜祭では全校生徒が講堂に集められ、チアリーディング、書道パフォーマンス、邦楽部による琴や三味線の演奏、吹奏楽部のマーチングが行われるなど、主に文化部が盛り上げる。二日目は一般公開日と呼ばれ、保護者や近隣住民等の外部にも開放するため、来客数が多くなり3日間で一番の賑わいをみせる。そして最終日は一般公開日に各自の持ち場から離れられなかった生徒が文化祭を楽しむため、非公開日とされている。更に三日目の夕方からは後夜祭が行われ、陽が沈み暗くなるまで祭は終わらない。毎年の恒例行事ではあるが、高校の文化祭にしてはそれなりに大規模なものとなっている。
「人前でやる機会なんて滅多にねえからな。文化祭ってのはいい機会だろ。次の目標っつーか照準が定まんねえと練習してもイマイチ捗らねえだろうし」
「俺、人前で歌ったこと殆どねえっすよ」
「だからやるんだよ。文化祭なんてその雰囲気だけで観客が盛り上がってるからな。お前が少々失敗してもみんな大目に見てくれるから大丈夫」
 失敗を前提としていることに引っ掛かったものの、普段の練習でも歌詞が飛んだりすることがあるため否定はできない。
「文化祭っていつあるんすか」
「6月の第3金曜から三日間。つまり約2か月後だな」
 2か月。入学から2週間足らずで2曲を歌えるようになったことを思えば準備期間はたっぷりある。短い期間で詰め込む必要がないというのはありがたいが、その反面2か月も先なのかと落胆する気持ちもある。
 初めてドラムとベースの加わった演奏で歌ったとき、今までに感じたことがない感覚に襲われた。一人でも歌っている時はいつも気分がいい。御幸が作った曲を倉持の演奏するギターで歌えば、一人の時よりずっと気持ちがいい。だが、そこにドラムとベースが加われば全く別の感覚となった。
 気持ちいいでは足りない。貧困な語彙では到底表現できない。歌い終わった後暫く放心状態になってしまうほど、その感覚は強烈だった。
 あの時のあの感覚を沢村は忘れられずにいる。まるで麻薬の依存症にでもなったかのように、もう一度と求めてしまうのだ。しかし、ただ歌うだけではあの感覚と同じにはならない。きっとただの練習とは違う緊張感だとかそういったものが必要なんだろうと思う。
 文化祭といういつもとは異なる状況で歌えば、もう一度あの感覚が味わえるのでは、と期待を持たずにはいられない。
「ステージ押さえられる時間にもよるけど、希望としては3曲だな。4曲以上になると間延びしそうだし。時間とれなくても最低2曲はやりてえ」
「3曲やるとして何をやる気だ?」
 倉持の問い掛けに御幸が答えるより早く、沢村は「はいっ!」と手を挙げた。
「俺あの曲やりたいっす!ギター速弾きのやつ!」
 御幸の作った曲で歌えるようになったのはまだ2曲しかないが、それが理由で選んだわけではない。あの曲は沢村にとって特別だった。二人に出逢った時に歌った曲だからか、バンドのボーカルとして歌う自分の代名詞のような曲だという印象を持っていたし、ベースやドラムが入って歌った曲もこの曲だった。
「別にいいけど、お前あの曲ほんと好きな」
「悪いっすか!」
「いや、悪くはねぇよ。作った人間としては気に入って貰えて嬉しいし。けど、あんまり一曲に固執すんなよ。俺はお前をあの曲だけで終わらす気はねぇんだ。まだまだ新しい曲も歌ってもらわなきゃ困る。文化祭に向けてもう一曲新しいの作るからちゃんと覚えろよ」
「新曲!ってことは文化祭は今ある2曲と新曲の3曲っすか?」
「いや、全部オリジナルってのは冒険すぎる。観客はたまたまそこに居合わせた音楽とは無縁の奴らが殆どで俺たちの歌を聞きたくて集まる奴らなんて皆無に等しい。その中で知らない曲ばっかり流れたらいくら文化祭で祭気分とはいえ盛り下がるだろ。売れてる曲を入れといた方が賢明だと思う」
「んじゃオリジナル2曲、カバー1曲ってことか」
「そこが悩みどころなんだよな。欲を言えばオリジナル2曲やりてぇけど、全く知らない曲に観客がどれくらいついてくるかわかんねぇ。1曲やって盛り下がったとしたらもう一曲オリジナルをもってくるのは厳しい。けど観客のノリが良ければそこでカバー曲をやるのは勿体ねぇだろ」
「だったらどうすんだよ」
 御幸の回りくどい言い方に少し苛ついた様子で倉持は問う。御幸はそれを少しも意に介さぬように一人頷いた。
「曲の割り振りは本番で決める」
「はあ?!」
「観客の状態を見て、どっちをやるか決める。どうなるかわからねぇならそれが一番安全だろ」
 あたかもそれが当然だというかのような御幸の言葉に倉持は眉を顰めて沢村を指した。
「そんな簡単に言うけどよ、こいつそんな器用じゃねぇだろ」
 それは俺のことを言ってんすか、と対抗しようとすれば言葉になる前に「ちょっと黙ってろ」と制される。
「別に練習もなしに突然本番で歌えって言ってるわけじゃねぇよ。オリジナル2曲とカバー2曲の4曲練習しといてそのうち1曲は歌わないってだけだ。1曲はもう歌えるし、あと3曲くらいなんとかなるだろ」
 それに、と御幸は視線を倉持から沢村に移して続ける。
「この先のことを考えれば最低限の対応力は身につけてもらわなきゃなんねぇし、失敗が許されるうちに色々試しておきたい」
 御幸の言い分に倉持も思うところがあるのか言葉を詰まらせる。
 この先。それが何を指しているのか沢村にはわからない。文化祭の成功こそが目標ではないのだろうか。御幸の言い方ではまるで最初の小さな通過点に過ぎないかのようだ。今まで改まって人前で歌うなんてことを殆どしたことがない身からすれば文化祭こそが大舞台であって、それ以上など想像もつかない。御幸は、いや、おそらく倉持も、一体どれだけ先を見据えているというのか。
「できるだろ?」
 そう問われれば、頭に浮かぶ疑問もそのままに、つい生来の負けん気の強さが発揮されてしまう。
「誰に言ってるんでしょうかね!この沢村栄純が5曲でも10曲でも完璧に歌ってみせやしょう!」
 任せとけと己の胸をどんと叩く沢村に、「だってさ」と御幸が笑う。倉持は一つ溜息を落とした。


 カバーする2曲が決まり、新曲ができあがったのは文化祭の話をしてから1週間後のことだった。それまで部室に顔を出していなかった3年生も練習のためにやって来る。
 伊佐敷とクリスは文化祭のステージには立つと約束してくれたが、沢村が入部するより先にしていた引退宣言を撤回する気はあくまでないらしい。どの曲をやるのかも、どんなステージにするかも、3年生は口を出さない。御幸と倉持と少しだけ沢村が関わって決めている。3年生は主導権を全て2年に渡してしまっていた。
 どの曲をどんな風にやるのか、それが決まれば教えろとだけ伊佐敷は言った。その言葉だけで十分だ。やる曲を渡せば、最高の演奏をしてくれる。そう信じられるからだ。
 2週間ぶりに部室にやってきた伊佐敷は愛用のベースを持参していて、否応なく沢村の胸が高鳴る。ベースとドラムの加わった音で歌うのが楽しみで仕方がない。各々が演奏の準備をする間もそわそわと落ち着かずみんなの周りを彷徨ってしまう。
 皆の準備が整い早速歌をと思ったところで御幸から制止の声がかかった。
「沢村。お前は暫く俺たちとは別練習」
「は?!」
 言っている意味がわからず思いの外大きな声が出てしまった。別練習ってどういうことだ。一人だけ別では音合わせなどできない。
「お前専用にクリス先輩に別メニュー組んでもらってるから、今日からそっちをやること」
 クリスが沢村に渡してきたのは巻物だった。何故に巻物。そう思いながらも促されるままに開く。そこに書いてあるものを読んで、沢村は再び大声を出した。


 青道高校の敷地は広い。野球部のグラウンドだけでも二つあり、その他にサッカー部用のグラウンド、通常の体育で使用するグラウンド、テニスコートは軟式用と硬式用で計6面ある。その全てを包括した外周は2キロを優に超える。高低差はなく平坦な道であるが、運動部ではランニングに外周コースを使っていることが多い。
 その外周を沢村は一人で走っていた。現在1周を走り終わり、2周目に突入したところである。
 外周を走る際には必ず野球部のグラウンド横を通ることとなる。沢村はそこで一度足を止めた。
 入学式の日までは野球部に入るつもりでいた。おそらく御幸と倉持に出逢っていなければ今頃は何の迷いもなく野球部に入っていただろう。
 もともと生徒自体が少なかった中学時代は野球をするのも一苦労で、男子だけでは足りずに幼馴染の若菜にも協力してもらわなければならなかった。決して上手くはなかった。寄せ集めのチームだと馬鹿にされたし、一度だって勝ち星を上げることはできなかった。それでも野球は楽しかった。
 青道高校は過去には甲子園にも出場している野球の名門校なのだと聞いた。田舎の弱小校とは比べるまでもなく設備が整っていて、もしこの学校で野球部に入っていたらと考える。一度目を閉じて脳裏に浮かんだ映像に頭を振った。
「沢村?お前こんなとこで何してんだ?」
 声のした方に目を向けると、同級生の金丸が立っていた。身に纏った野球の練習着を見て、そういえばこいつは野球部だったなと思い出した。
「ランニング途中でちょっと休んでただけ!」
 その言葉に金丸が怪訝そうな顔をする。
「ランニングってお前軽音部だろ?走る必要あんのかよ」
 それは俺が聞きたい。そう思ったが口には出さなかった。
 クリスから渡された巻物を開いてみれば、そこには外周3周だの腹筋50回を3セットだの、運動部の練習メニューのような内容が箇条書きにされていた。他の者はみな音合わせをするというのに、自分にだけ与えられた別メニューに当然のことながら抗議した。しかし何を言っても取り合ってもらえず、渋々箇条書きにされた一つ目のストレッチをこなし、二つ目のランニングに勤しんでいる。
 何故自分だけがこのメニューをこなさなければならないのか、どうにも納得できない。中学まで野球をしていたこともあって、全く運動していない奴に比べればそれなりに体力はあると思うし、2週間前に歌った時にも不自由を感じたりはしなかった。そもそも歌うだけなのだからそんなに体力がいるとは思えない。何よりも先輩たちの演奏に合わせて歌うのを楽しみにしていた分、それを目の前で取り上げられたことが気に入らなかった。
「金丸。お前野球好き?」
「は?何だよいきなり」
「いや、別に深い意味があるわけじゃねぇけど」
 金丸は怪訝な顔を一層深めた後、頭をガシガシと掻いた。
「うちの練習めちゃくちゃきついんだぜ。たぶんお前が想像するより10倍くらいきつい。朝練もあるし、午後練が終わっても自主練やらなきゃ周りに置いて行かれるばっかりだし、体力的にも精神的にもかなりきつい。そんなきつい思いしながら続けるのに、好きじゃなきゃやってられねぇだろ」
 金丸の言葉は沢村の中に不思議なほどすとんと落ちた。
 別メニューに納得したわけではない。今だって、走るのを止めて歌いたい。金丸の言葉で自分の中でケリがついたのは、走らされていることに対してではなかった。野球部に入らなかったことに対してだ。
 最初は詐欺のような手口に騙されたとはいえ、最終的に軽音楽部に入ったのは自分の意志だった。自分で選んで決めたことだが、野球に対する未練がないわけではなかった。だが、今はっきりと割り切れた気がした。
 もし野球部に入っていたら、と考えて脳裏に浮かんだのは野球をしている自分でもなければ、歌っている自分でもなかった。あろうことか御幸と倉持の姿だった。自分で思っているよりも、二人が、二人の作る音楽が、自分の中で大きくなっているのだとわかってしまった。
 好きだとか嫌いだとかそんな言葉では表せない。正直なところ御幸には何度も騙されているし、倉持にはちょっとしたことでプロレス技をかけられるし、いい先輩と言うには多少抵抗がある。だが、御幸と倉持の二人から離れて、二人と一緒につくる音楽を捨てられるかといえば、答えは否だ。
 単純に音楽と野球のどちらが好きかと問われても、どちらか一方を選ぶことはできないと思う。軽音楽部に入ったのは野球より音楽が好きだからではない。優先したのは、音楽ではなく、あの二人だった。
 自分の中でずっとわだかまっていたことが今急に整理がついてやけに気持ちがすっきりする。
「ありがとな、カネマール!」
 そう言って笑うと、「何がだよ」と金丸も笑った。


 巻物に記されたメニューを一通りこなした時には下校時間が迫っていた。メニューの中にはランニングやら腹筋やら身体を動かすものだけでなく、一つのメニューをこなすごとに何分間休憩を取るかといったことまで細かく記されていた。闇雲に身体を動かさせるつもりというわけではないようだ。
 部室に戻ると、ちょうど中から人が出てきた。その姿に首を傾げる。見覚えのない奴だったからだ。部員でない者が出入りすることは殆どない。入部希望者だろうかと思ったが、それにしては時期がおかしい。入学式から3週間が過ぎたばかりだ。入りたいならもっと前に入っているだろう。
「うちの部に何か用だったのか?」
 そう問えば、「うちの部?」と首を傾げて、一人納得したように頷いた。
「君は軽音楽部の人?」
「おう」
「そう。何の楽器?」
「楽器はできん!歌だけ!」
「歌?ボーカルってこと?」
 その問いに頷けば、一気に興味を失くしたようにみえた。
「楽器じゃないなら君はいいや」
「は?」
「最初は用があったわけじゃないんだけど。たまたまこの近く通りかかったらこの部屋から演奏が聞こえてきたんだ。一人一人の演奏技術もだけど、曲の完成度の高さに驚いた。聞いてる時にもしかしてって思ってたけど、聞けば二年の御幸先輩だっけ?その人が作ってるっていうから。僕にも曲作ってって言った。できれば他の人にも僕の後ろで演奏してもらいたいけど。なんかおもしろそうだし」
 それだけ言って満足した様子で立ち去る男の背を呆然と見つめる。
 何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
 曲を作ってもらうよう頼んだ。誰に。御幸先輩に。他の人に演奏してもらいたい。他の人。倉持先輩と、伊佐敷先輩と、クリス先輩のことか。僕の後ろで。バンドで最も前に立つのは誰だ。そんなのボーカルしかいない。楽器じゃないなら君はいらない。あいつはそう言った。ボーカルは自分一人で十分だってことか。
 背後で扉が開く音がしたと思えば、少し驚いたような御幸の声が重なった。
「お前戻って来てたのか。そんなとこ突っ立って、何で入ってこねぇの?」
「さっき、ここから出てきた奴」
「ああ、降谷?会ったのか」
 ふるや、と名前を繰り返す。
「お前ら同学年だろ。知らねぇの?」
「知らねぇ。さっき初めて会った。あいつ、あんたに曲作ってもらうって言ってた」
「ああ、頼まれたな。突然訪ねて来て曲作れとか言うからさすがに驚いた」
「あいつに曲作るのか?」
「んー、なに?気になる?」
「別に!!気になんてなんねーし!」
 揶揄するような御幸の言い方に思わず言い返すと、倉持の「うるせぇ!」という怒鳴り声が届いた。
 なんだかよくわからないが、胸のあたりがもやもやする。沢村にはそれが何故だかわからなかった。




「たのもー!」
 芸術棟の最上階にある多目的ホールの扉を開けながら、沢村は威勢のいい声を上げた。その後ろから倉持の右脚が沢村の膝裏にヒットする。膝カックンを受けて沢村は倒れた。
「なにするんすか!」
「そりゃこっちの台詞だ!てめぇ道場破りでもする気か!」
「こういうのは勢いが大事なんすよ!」
「こっちは頼みごとしに来てんだよ!喧嘩売ってどうすんだ!」
「二人とも落ち着けって。みなさんびっくりしてるから」
 御幸の言葉に二人が顔を上げると、20人近くが動きを止めて闖入者である3人を見ていた。咳払いをしたかったのか、仕切り直すように「コホン」と口で言った沢村は、倒れた姿勢から身体を起こし正座した。
「文化祭のステージ、譲ってくだせぇ!」
 何の説明もなく結論だけ述べた沢村に、今度は倉持の拳が頭にヒットした。

 文化祭の場所取り争いは熾烈を極める。
 各クラスの出し物は教室でやるのが原則ではあるが、校舎内は火気厳禁であるため、屋台を出す場合は少しでも人通りの多い場所の取り合いとなる。経験上どこに人が集まるかわかっている上級生が良い場所を抑えていくため、人気の少ない場所に当たってしまった下級生は仮装などで必死の呼び込みをするのが慣例だ。
 しかし建物外での場所取りは人通りの多寡はあれど必ず何処かの場所を確保できるため然程大変なものではない。熾烈となるのは、講堂及び体育館だ。
 ある程度の人数を集めようと思えば、それに見合うだけの広さが必要となる。それを満たすのが講堂と体育館だけということもあり、一般公開日と非公開日の二日間は間断なくイベントが催される。イベントがあればその分集客数も上がり、集客数が上がれば使用許可を求める者が増える。使用申請が増えればその中から人気を集めそうなものが選ばれ、数多の中から使用権を勝ち取ったものを興味本位で観に行く者が増える、といった連鎖が巻き起こっていた。
 そんな、使用許可を得ようとする者からすれば負のスパイラルの中で、最も競争率が高いのは文化祭二日目、一般公開日午後の講堂だ。その使用権を得るため、御幸と倉持、沢村の三人は演劇部を訪ねていた。
 文化祭中の講堂の使用許可を出すのは演劇部ではなく生徒会である。何故演劇部を訪ねたかといえば、生徒会を訪ねた時には既に演劇部に午後を抑えられていたからだ。しかも午後の一部の時間ではなく、午後全てである。いくらなんでも横暴すぎる。それなりに長い演劇をするとしても1~2時間で十分だろう。生徒会でそれを問えば、ごにょごにょと言い訳のようなことを言われ、明確な答えが返ってこなかった。ならば直接演劇部に話をつけた方が早いと判断した。
 文化祭前のこの時期、多目的ホールは演劇部の練習場所となっている。文化祭に向けて多くの部やクラスが場所の確保に躍起になる中で、教室3つ分ほどの広さのあるホールを独占するというだけでも相当な特別扱いである。全国大会で優秀賞を獲り続けていることや、役者を何人も排出しているという実績が考慮されているのだろうが、この上文化祭の舞台を独占するという暴挙まで認めるわけにはいかない。
 とはいえ軽音楽部には演劇部に対抗できるような実績など全くない。強気に出たところで勝ち目はないだろうと踏んで"お願い"をしに来たというのに、沢村の一言で全てが台無しとなってしまった。
 突然やって来て何の説明もなくステージを寄越せと言われて、はいわかりましたとなるわけがない。そんな簡単に譲ってくれるなら、そもそも押さえてなどいないだろう。

「栄純くん?」
 動きを止めた演劇部員の中から一人が歩み出てきた。男子高生の平均よりはやや小柄で、特徴的なのは目元までを覆う桃色の髪の毛だ。
「おー春っちじゃん!演劇部だったのか」
 春っちこと小湊春市とは同学年で、クラスこそ同じではないものの2クラス共同の授業で隣の席になったことから親しくなった。中性的な見た目とは裏腹に男らしい一面を持っている。しっかりしていて頼りになる友人の一人だ。
「そういう栄純くんは軽音部だったよね?文化祭のステージって軽音部としてってこと?」
「さすが春っち、話が早い!二日目の講堂、午後は全部演劇部が取ってるだろ?そのうちの30分でいいから俺たちに譲ってくんねぇ?」
「いや、僕は一年だし、僕に言われても決定権なんて持ってないよ」
「じゃあ誰に言ったらいい?」
 それは、と言葉に詰まった春市が視線を後ろに向ける。視線の先に立っていたのは春市と同じ髪色をした男で、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
「春市の友達?なんだかとても図々しいことが聞こえた気がするんだけど、気のせいかな」
 沢村の後ろに立っている御幸と倉持は一瞬でこの人には逆らってはいけないという共通認識を持ったが、哀しいかな沢村にはその認識は抱けなかったらしい。
「そう言わずに!30分でいいんで!」
「30分って、まるで短い時間みたいに言うけど、俺たちにとっては貴重な時間なんだよね。君は演劇なんて演じてる時間だけ舞台を確保できれば大丈夫とでも思ってるんでしょ?演じる舞台を作るための準備時間なんかは全然考慮してない。今も練習っていう貴重な準備時間を割いてるわけだけど。君たちに30分を譲ったとして、君はその30分をどんな形で補填してくれるわけ?」
 これは相手が悪い。完全な負け戦だ。沢村をどう引き下がらせるか、その算段を御幸と倉持が考えているそばから沢村は一歩も引き下がらず言い返す。
「それって30分の働きをしたら譲ってくれるってことっすか!」
 御幸と倉持はそれを聞きながら、同じことを思った。バカってすげぇ。傍から見ていれば「何もできないくせに偉そうなこと言ってんじゃねぇ、さっさと帰れ練習の邪魔だ」と言われていることは明白だ。沢村はそれに気付かないばかりか、譲るための条件を提示してもらったとでも思っているのだろう。どこまでポジティブなのか。
「君にそれだけの働きができるとでも?」
「何をしたらいいかはわかりやせんけど、俺にできることならやらせていただきましょう!」
 そう言ってどんと胸を叩いた沢村に興味を抱いたように一頻り見つめて、じゃあ、と切り出した。
「君にもうちの劇に出てもらおうかな。そこまで言うならこっちも少しは妥協してあげないとね。もちろん舞台に立つ以上練習にも参加してもらうし、中途半端なことしたら許さないよ」
「ちょ、ちょっと待ってください」
 制止の声をかけたのは倉持だ。
「そいつ、一応ボーカルなんで、うちの練習もしてもらわないと困るんすけど」
「心配しなくてもそんな大役与えるわけないだろ。必要な部分の練習に出てくれればいい。うちの練習以外の時間でそっちの練習しなよ。30分とはいえ舞台譲るんだから、それくらいは許容してもらわないと。ま、嫌なら別にいいけど。うちは当初の予定どおり午後いっぱい舞台使うだけだし」
 そう言われてしまえば引き下がるより他ない。ここで反論すれば舞台を譲ってもらうことはできないだろう。敗訴確定の裁判で和解を申し出てもらえたようなものだ。断るのは賢明ではない。こちらの練習時間が削られることにはなるが、舞台に立つという点では同じだ。練習不足に陥らないように多少は考慮してくれるだろう。いや、考慮してくれると信じたい。
「で、どうすんの」
 その問いに答えるのに、沢村は一度も後ろを振り返らなかった。
「不肖ながらこの沢村、立派に大役を務めさせていただきやす!」
 満足そうに頷いて、大役じゃなくて端役だけどね、と訂正するのを忘れなかった。


 演劇部の練習に参加し始めた沢村はまた外周を走っていた。クリスから与えられた日課ではない。演劇部の練習の一環として、部員全員で並んで走っている。
 演劇部の練習は想像していたものとは大きく異なっていた。台本があって、それを演じる。そんなイメージだけを持っていた。もちろんそういう練習も行う。しかしそれに入るまでにはゆっくりと時間をかけたストレッチから始まり、ランニング、腹筋とクリスが作成した練習メニューと似通ったものとなっていた。
 一頻り身体を動かした後は発声練習を行う。これもストレッチと同様にたっぷり時間をかける。その後漸く台詞の読み合わせや動きの確認をするのだが、沢村はそれには参加していない。自分がどんな役をするのか教えてもらっていないのだ。
 演劇部の練習に参加することとその練習メニューをクリスに伝えると、別の巻物を渡された。中を見てみれば、被っている練習メニューを除いた、新たな練習メニューが記されていた。何処でもできるものだったため、演劇部の練習を眺めながらこなす。
 どうせ部室に戻ってもお前は別メニューだとか言って歌わせてもらえない。皆が曲の練習をしているところに居れば、どうしたって歌いたくなってしまう。それなら目に入らず、耳にも届かない場所にいた方が与えられた練習メニューに集中できる。
 毎日の放課後を演劇部で過ごし、帰宅間際に少しだけ軽音部に顔を出す。そんな生活を続けながら、一体いつまでこの状態を続ければいいのかと不満ばかりが募っていく。
 一人別メニューとなって三週間が経ってなお、一度も歌わせてもらえていない。覚えておくように、と歌詞とデモテープだけは渡されたがそれ以上は何もない。一曲は歌える曲があるとはいえ、あとの三曲は一度も合わせていない。
 文化祭までの期間は残り一月を切ろうとしている。こんな状態で本当に文化祭に間に合うのだろうか。満足な練習すらさせてもらえず、気持ちばかりが逸る。考えれば考えるほど焦燥感が増して、演劇部へと向かう足を止め行き先を軽音部へと変えた。

 部室に着くと、そこには倉持が一人でギターを鳴らしていた。他の部員はまだ来ていないらしい。沢村の姿に気付くと、少し意外そうな顔をして、ギターを下ろした。
「どうした」
「もっち先輩!俺いつまで体力作りしてたらいいんすか?もう文化祭まで一か月しかねぇんすよ?!いい加減歌わせてつかぁさい!」
「誰がもっちだ!つーかお前演劇部はいいのかよ」
「それはこの後行きやすけど!でも俺演劇部じゃなくて軽音部ですからね?!なんか最近演劇部の方にばっかり出て全然歌ってねぇけど!そもそも演劇部の練習に出てるのも軽音部として文化祭に出るためであって、劇に出たいからじゃねぇんすよ?!」
 三週間の我慢を一気に吐き出せば、その勢いのままに声も大きくなる。
「うるせぇな!大声出さなくたって、んなのわかってるっての!」
「わかってるなら何で歌わせてくれねぇんすか!そりゃあ演劇部手伝うって言ったのは俺だし、約束だから練習出なきゃなんねぇけど、でも他の時間はこっちの練習出たっていいじゃねぇっすか!それを俺だけ別メニューとか!仲間外れにするなんてかっこ悪いっす!」
「仲間外れって……お前ガキかよ」
 呆れたような顔をする倉持に勢いを奪われたように、沢村は声のトーンを落とした。
「俺はもっち先輩のギター好きだし、御幸の作る歌も好きだし、二人の音で歌うのが好きだ。だから文化祭でやりてぇし、他の人にも聞いてもらいたいって思ってんすよ。そのために演劇部にも頭下げるし、俺にできることならやろうって思ってる。なのに、肝心の歌が歌えねぇなら、俺が今頑張ってる意味ねぇじゃん」
 ずっと抱えていたわだかまりを吐き出すと同時に零れ出た涙を左腕で拭う。
「ってお前、泣くなよ」
「泣いてないっす」
「いや、どう見ても泣いてんだろそれ」
 ずずっと鼻を啜ると、ほら泣いてんじゃねぇか、と笑う。倉持の手が頭の上に乗せられ、くしゃりと撫ぜられる。その手つきは思いの外優しい。
「あのなぁ、沢村、」
 倉持が何かを言いかけたところで、部室の扉が開き、御幸が入って来た。
「あれ?沢村?お前何してんの?っていうかなにその状況」
 涙を流す沢村を倉持が慰めるという常にない状況に頭を捻る御幸に、倉持は舌打ちをして「なんでもねぇよ」と吐き出すように言う。御幸は一頻り剣呑な目つきで倉持を見たあと、まあいいやと話を切り替えた。
「ちょうどいいし、文化祭のバンドメンバー一人増えたから紹介しとく。紹介って言ってもこの前既に会ってるけどな」
 その言葉に顔を上げると、御幸の後ろに立っている人物の姿が目に映る。見覚えがあるなんてもんじゃない。降谷という名前までしっかりと覚えている。
 何で、と沢村は訊いた。ボーカルは自分のはずだ。文化祭のステージで、先輩が奏でる音の真ん中で歌うために一肌脱いでいるのだ。自分以外の誰かに歌わせるためにやってるのではない。
 そんな沢村の想いに御幸は気付かないのか、少しも悪びれた様子はない。
「何でって、音が増えればその分できることの幅が広がるだろ」
 その言葉に、沢村の中でプツンと何かが切れた。
「ふざけんな!歌うのは俺だ!あんたが作った曲は全部俺が歌う!」
 ぽかんと御幸が間抜けな顔をみせる。ざまあみろ。いい気味だ。
「あんたが俺にくれた曲も、俺用に作ってくれた曲も、それからこの先作る曲も全部、全部俺のものだ!他の奴になんか譲ってやらねぇ!」
 なんだか勢いに任せて余計なことまで言ってしまった気もするが、すっきりしたからまあいいか。
 部室から出て行く際にとんできた「どこ行くんだよ」という倉持の問いに、「演劇部っす!」と返す。文化祭のステージを勝ち取るためには演劇部の練習をサボるわけにはいかないのだ。

 沢村が立ち去った後の部室で、御幸はその場に座り込んだ。
「いいのか?あいつ盛大に勘違いしてんぞ」
「ああ、勘違いね、うん」
 顔を両手で覆っているが、隠せていない耳まで赤く染まっている。
「いや、まいった。今のは不意打ちだった。やべ。普通に嬉しい」
 だったらそう言ってやれよ。てめぇが肝心なことを言わねぇからあいつが迷うんだろうが。そう思いながら、倉持は大袈裟な溜息をひとつ落とした。



 演劇部の練習に30分遅れで参加した沢村は、春市の兄であり副部長の亮介から遠慮のない嫌味を戴いた。素直に「すいませんでした」と謝れば、亮介はそれ以上は怒らない。嫌味は言うけれど。
 てっきり部長だと思っていた亮介が副部長であると知ったのは演劇部の練習に参加した初日のことだった。声出しをしたり、場を仕切ったりするのが別の人だったため違和感を覚え、訊いてみれば「俺は人を束ねるような器じゃないんでね」という応えが返ってきた。嘘だ、と思った。部長になれば雑多な仕事が増える。おそらくそれが嫌なだけだ。
 いつもどおりのストレッチやランニング、発声練習などをこなして役ごとの確認に入った時、沢村は亮介を捕まえて訊いた。
「声ってどうやったら変えられるんですか」
 3週間練習を見学していて、沢村が一番驚いたのは役に入った時の声の変化だった。役に入った途端にいつもの話声とは全く違う声を出す。しかもその演じる役ごとに声を使い分けている。役のある部員はみな一様にそうで、その中でも亮介の声はまるで別人の声のようだった。普段は男の声なのに、時には少年の声になり、時には老婆の声になった。特に老婆の声になった時は衝撃を受けたのだ。同じ人間からこんなにも違う声が出せるものなのか、と。
 もし自分にも亮介のように、とまではいかなくても異なる声が出せたら、と考えてしまう。悔しいが、音が増えた方が幅が広がると言った御幸の言葉を引き摺っているのは明白だ。
「なに、役者にでもなりたくなったわけ?」
 亮介の問いに首を横に振る。
「なら止めときな。ボーカルの声が歌ごとに変わったらバンドの軸もぶれる。俺たちは芝居ごとに役を作るけど、お前は違うだろ。余計なこと考えずに自分の声のまま勝負しな。そもそも歌い分けができるような器用な奴じゃないだろ」
「でも音が増えた方がバンドとしての幅が広がるんじゃ……」
「そう誰かに言われた?」
 口篭もると、わかりやすい奴、と亮介は笑った。
「最初見た時から思ってたけど、お前役者にはなれないね。バカ正直すぎ。あと、思い込みも激しい。もうちょっと自分の先輩たちを信じてやりなよ。これ以上俺から教えてやる義理はないから、あとは自分で本人に聞きな」
「……うっす」
「ところで、今日でここの練習何日目?」 
「ちょうど三週間っす」
「そう。じゃあそろそろいいかな」
 脚を肩幅に開いて直立するように指示され、そのとおりの体勢をとる。
「声出して」 
「はい?」
「腹に力入れて、歌う時と同じように」
 言われるままに声を出せば、拳を腹に当ててぐっと押される。それなりに強い力で、後ろに下がりそうになる。
「もっと腹に力入れな。下がるのは力が入ってない証拠」
 負けじと力を入れれば、身体の底から声が出て来ているような感覚を覚える。身体の中で己の声が反響する。
 一頻り声を出し切ると、亮介は「まあ、悪くはないね」と笑った。
「それと、明日からもう来なくていいから」
「へ?!でも劇は?!」
「なに、本気でうちの劇に出る気だったわけ?冗談でしょ。うちは部員数も多いし、舞台に上がれるのはその中でも選ばれた奴だけなんだよ。部員でもないお前をわざわざ出してやるわけないじゃん」
「え、でも、それじゃあステージは」
「この三週間暇潰し程度にはなったからね。うちの劇が終わった後なら譲ってあげるよ。16時以降でいいだろ」
「十分っす!」
 ありがとうございやす!と頭を下げれば、後頭部を手で押さえられる。下げる角度が足りないってことだろうか、と更に下げようとすれば、耳元近くで声がした。屈めってことだったらしい。
「今日は早く小屋に帰りな。心配性のご主人たちが迎えに来てるよ」
 顔を上げれば、御幸と倉持が入り口近くで立っているのが目に入った。この三週間で迎えが来たのなんて初めてだ。それがなんとなくくすぐったくて、笑ってしまった。



「この沢村栄純の働きによってですね、無事に文化祭のステージが確保できたというわけですよ!この、沢村!栄純の!」
「あーはいはい、わかったわかった。ありがとなー」
 演劇部のもとを離れ、軽音部の部室へと戻りながら己の働きについて力説してみれば、御幸も倉持も至極適当な相槌を返してきた。
「なんという棒読み!もう少し感謝ってものをですね!」
「だからちゃんと感謝してるって。つーかお前機嫌直ったんだな」
 倉持に話を振られて、思わず目を逸らす。
「は、何のことでございましょうかね」
「思いっきり泣いて怒ってたろ」
「身に覚えがありませんが」
「つい数時間前のことだろうが。どんだけ記憶力ないんだよ」
「わざと触れないようにしてたんすよ!もう少し気遣いってものをしてくれてもいいんじゃないっすかね!」
「はいはい。で、どうなんだよ」
 ぶっきらぼうな物言いではあるが、これが倉持なりの心配の仕方なのだろう。
「仕方ないんで許してあげやす。ただし、これ以上別メニューはなしで!俺もちゃんと練習に参加するって条件付きですがね!」
 二人は、ハ、と笑った。
「言われなくても歌ってもらうし、嫌だっつっても歌わせるけどな」
「言っとくけど、お前が歌いたいって思ってた以上に、俺たちはお前に歌わせたかったんだからな」
「はぁ?じゃあなんで歌わせてくれなかったんすか!」
「え、お前気付いてねぇの?」
「何に!」
 二人同時に思いっきり溜息を吐かれた。
「バカだバカだとは思ってたけど、まさかここまでとは」
「だからどういうことなんすか!」
「歌ってみればわかるって」
 そう言われてしまえば、それ以上は聞いても仕方がない。そうと決まれば早く、と部室に向かう足に力を入れた。

 部室に着くなり、倉持と御幸はギターを準備した。
「御幸先輩キーボードじゃないんすか?」
「キーボードは他に弾く奴確保したからな。それより準備できたか?」
「うっす!いつでも!」
 まずは準備運動とばかりに既に何度も合わせている曲を歌う。歌い出しの一小節目だけで、入学した時との違いがはっきりと現れた。声がよく伸びる。声量も上がっている。何より、息が切れにくい。
 一曲丸ごと歌い終わって、自身の喉から腹にかけてを確かめるように触る。御幸と倉持は「やっと気付いたか」と半ば呆れたような顔で言った。
「クリス先輩の練習メニューがただの体力づくりなわけないだろ。ライブで歌い切る体力をつけつつ、肺活量を鍛えるための練習だったんだよ。本当は3週間だけじゃなく長期的に続けていく必要はあるけど、文化祭まで日数が限られてるからな。演奏と合わせる期間と基礎作りのバランス的に3週間は基礎作りにだけ特化させたんだよ。前より断然歌いやすくなったろ」
「はーみんなちゃんと考えてんすね」
「つーかお前が考えてなさすぎなんだよ。ま、これで泣いてたのは解決な」
「泣いてないですし!」
「はいはい。で、もういっこの降谷の件だけど」
 その名前が出るだけでむっとしてしまう。
「それに関しては折れやせんからね!俺をここのボーカルにしたのは先輩たちなんすから、ちゃんと最後まで責任とってもらわねぇと!飼い犬を途中で捨てたりしゃちゃいけないって知ってやす?」
「いや、むしろお前は犬扱いでいいのかって感じなんだけど。まあ、でもお前の言うとおり責任はちゃんと取るよ。うちのボーカルはこの先もお前一人。他の奴には歌わせねぇよ。つーか降谷も歌えねぇし、他に歌える奴もいねぇしな」 
「……今なんて?」
 なんだか聞き捨てならない言葉が聞こえた気がする。
「だから、降谷はボーカルじゃねぇよ。言ったろ。キーボード弾く奴見つかったって。あいつの専門はピアノ」
「え、は?いや、だってあいつ自分の後ろで演奏してもらいたいって言ってやしたよ?!」
 キーボードはそんな前面に出ないだろう。いや、そりゃ出そうと思えば出すことはできるけど。
「グランドピアノがオーケストラと共演するときってピアノが前に来るからな。そういうイメージで言ったんじゃねぇの」
「じゃあ楽器できないなら俺は要らないって言ってたのは?!」
「さぁ。人間の声にはあんまり興味ないとかそんな話じゃね?つーかお前そんなこと言われてたのか」
「それじゃ俺、全部勘違い……」
 ハッとして御幸を見れば、ニヤニヤと笑みを浮かべている。
「沢村~。今日言ったこともう一回言ってくれねぇかな~。何だっけ。えーっと、俺が作った曲は?」
「ストーップ!あれはなかったことになりやせんかね?!」
「え?なかったことにしていいわけ?じゃあ今後俺がお前以外の奴に曲作っても別に構わないってことだよな」
「いや、えっと、それは」
「はっきり言ってくんねぇとわかんねぇな」
「あーもう!わかりやしたよ!」
 したり顔に腹が立つ。
「今後あんたが作った曲は全部俺が歌うんで、俺以外の奴に歌わせないでつかぁさい!」
 これでどうだ、と勢い任せに言い切ってしまえば、御幸は目を細めて笑った。
「いいぜ。その代わりお前も俺以外の奴が作った曲歌わないって約束しろよ。あ、わかってるとは思うけど、コピーとかそういうのは除くからな。文化祭のコピー2曲は普通に歌えよ」 
「それは別にいいっすけど。っつーかあんたみたいに曲作れる奴そんないねぇし、破りようがねぇんじゃないっすかね」
「そりゃまあ、今みたいに部活で歌ってる限りはな」
「それ以外ありやすか?」
 そう問えば、御幸は「そのうちわかる」と不敵に笑った。
「どうせなんで倉持先輩にも約束しやすよ。先輩のギター以外では歌わねぇって」
「要らねぇよそんなの」
 照れ隠しでも何でもなく、くだらないとでも言うかのように吐き捨てる。
「そう言わずに!今なら大変買い求めやすくなっておりやす!」
「通販かよ。っつーか、俺はお前が誰のギターで歌ってても別に構わねぇ。俺は自分がお前の後ろで弾ければそれでいい。あ、だからって俺より下手なギターで歌ってたら許さねぇけどな」
「「…………」」
「何だよ」
「やべー。俺、今不覚にももっち先輩にドキッとしちまった」
「これで無自覚なんだから怖ぇわ、お前マジで。普通に俺自分が恥ずかしくなったわ」
「はあ?」
「決めた!俺もうもっち先輩のギター以外では歌いやせん!」
 呆れたように「勝手にしろ」と呟いた倉持の声はどこか嬉しそうに聞こえた。