全校生徒の集められた講堂はざわざわと浮き立っている。初めての経験となる一年生はもちろん、上級生も幕が上がる時を今か今かと待ち侘びていた。
 オープニングは毎年変わる。一昨年は吹奏楽部だった。某有名アニメ映画作中曲のトランペット独奏で幕が上がり、映画のメドレー演奏で盛り上げた。昨年はチアリーディング部でアクロバティックな演技で皆を魅了した。毎年そのプログラムは文化祭実行委員と演者以外には内密にされるため、どのような内容になるかを予測するのも一つの楽しみとなっている。
 前夜祭の開始は午後1時半。午前中は通常授業が行われるが、みな気もそぞろで授業に身が入らないことから自習となるクラスも少なくない。結局は朝から文化祭準備に勤しみ、祭気分を助長させる結果となっている。それを全校生徒がそのまま持ち込むため、講堂内には高揚した空気が充満していた。
 講堂の席は決まっており、一階席前列を一年生、後列を二年生、二階席を三年生が埋める。前夜祭で何らかの出し物がある者は控え室にいるため席空きとなっているが、それ以外のほぼ全ての席が埋まると更に熱気が増した。
 開始時間である一時半を迎え、ざわめきが更に大きくなる中、講堂内に音が響いた。ビィン、と音合わせのように何度か鳴らされるその音に少しずつざわめきが静まっていく。音は舞台の幕の内側から鳴っていてその正体は見えない。音が鳴り止んで数秒経ったとき、それまでとは異なる荒々しさを含んだ音が鳴り響いた。
 バチィン。
 その一音に講堂内が静寂に包まれる。続けて鳴り響く音に合わせてゆっくりと幕が上がった。
 ステージ上にいるのは唯一人。黒の長着に紋付羽織を重ね、鼠色の仙台平の縞柄の袴を穿いている。堂々とした佇まいで手にしているのは津軽三味線と呼ばれる太棹の三味線だ。最初の一音が嘘のように柔らかな音を奏で、幕が上がり切ると同時にその音は勢いを増した。左手は滑らかな動きで棹を這い、右手は対照的に撥を叩きつける。三本の弦がそれぞれ創り出す音と全ての弦が共鳴して響く音色に、多くの者は息をのんだ。
 邦楽部三年、結城哲也。全国大会でも賞を取り将来を期待されている三味線奏者であるが、一般の知名度は高くない。三味線に高校生のみの全国大会は存在せず、年齢制限のない大会で中高生の部が設けられている程度だ。そのせいか高校内でも注目を集めることもあまりなかった。今、この時までは。
 たった三本の弦から出ているとは思えない奥深い音色。指の動きと叩きつける撥の強弱で滑らかさも柔らかさも強さもそのすべてを表現してしまう。三弦の振動がかみ合い共鳴した時の響きは際立って美しく、激しく鳴らされる音はまるで目の前で太鼓を叩かれているかのように身体の中で振動した。
 三味線の音がやや小さくなると、ステージの左袖から女子生徒が登場した。白の上着に紺色の袴を着用し、筆モップと呼ばれる背丈ほどもある大筆を抱えている。ステージ中央で一礼し後ろを向いた。バケツいっぱいにはられた墨に筆を沈めると、一呼吸置いたあと3mを超える用紙に筆を落とした。全身で筆を動かし紙の上を滑らせる。何度か墨をつけ足し書き上げると、書道部員であろう女子たちが墨が垂れないよう和紙で吸い取る。ステージの奥に準備された吊物に上部を固定すると、持ち上げられ徐々にその全容が明らかになる。
 ステージ上に現れた文字は「青翔」。青道高校文化祭における今年のサブテーマである。
 吊物が上がり切ると同時に三味線の演奏も締め括りに入る。ザン、と一際大きく打ち鳴らすと余韻のように音が伸びた。音が消え入ると一瞬の静寂が訪れ、それを打ち消すように拍手と歓声が響いた。
 青道高校文化祭、幕開けである。





 沢村栄純の朝は早い。早寝早起きが習慣化している祖父の影響か、長野にいる時から夜更かしは苦手だった。最近は以前よりも少し遅い時間まで起きていることが多くはなったが、それでも就寝が日をまたぐことはなく、朝は6時前には起きている。
 顔を洗ってジャージに着替えると、膝の屈伸運動など軽いストレッチをしてランニングに繰り出す。歌が主となった一月前から放課後のトレーニングの時間が無くなったため、出来る限りのメニューを早朝にこなすようになった。それをクリスに伝えると、早朝用の練習メニューを組んでくれた。これで頂戴した巻物は三つ目になる。
 玄関でスニーカーを履き、下宿先の玄関を出ようとしたところで後ろから声がかかった。
「沢村。今からロードワークか?」
 後ろを振り返って、頭を下げる。
「おはようございます!哲さんもっすか?」
「ああ。ちょうどいい。一緒に行くか」
 その言葉に沢村は笑顔で頷いた。
 哲さんこと結城哲也は沢村の下宿先の長男である。物心ついた時から三味線に触れ、現当主である父親に師事しながら毎日その腕を磨いている。代々三味線奏者である結城家には何時でも演奏できるよう防音設備も整っているため、沢村も歌う際には大変助かっていた。
 結城も朝はロードワークに勤しんでいる。出発が重なることはあまりないが、重なった時には一緒に走ることもあった。日によって違うのは、結城が毎日決まった時間に起き、決まった時間に出ているのに対して、沢村は起きる時間が疎らになるからだ。
「そういえば、昨日の前夜祭での演奏すごかったっす!鳥肌たちやした!」
 並走しながら感動を伝えると、結城は「いや」と首を振った。
「まだまだだな。昨日も思ったとおりに弾けなかったところが幾つかあった」
「そうなんすか?俺には全然わかりやせんでしたけど」
「一年前の自分なら昨日の演奏に満足していたかもな。だが、弾けば弾くほどもっとこうしたいって思いが強くなった。一年前より上手くなっている自負はある。不思議な話だが、上手くなった分だけ道が遠退いたように感じる」
 その言葉の意味が沢村にはなんとなくわかる気がした。
 歌はずっと沢村にとって身近にあるものだった。歌うこと自体は好きだったが、日常生活の一部に存在するものであって、今のように自分の中心に居座ってはいなかった。誰も聞いていなくて構わない。演奏などなくても一人だって歌える。自分の好きなときに思いつくまま口ずさんで、たまたま聞いていた人が褒めてくれる。それだけのものだった。それが今や自分の生活の中心にあって最も大きなものとなっている。自分のために作られた曲を自分の知り得る限り最高の演奏で歌う。その気持ちよさを知ってしまったら、もう以前のようには戻れなくなってしまった。
 今も歌い始めてしまえば余計なことは全て頭から飛んで、ただ自分の思うままに歌ってしまうことには変わりはないけれど、以前のようにたまに歌うだけでは足りない。歌えば歌うほど飢えていくような感覚さえ覚える。もっと、もっと歌いたい。もっと大きな声で、もっと伸びやかに。もっと、もっと。
「沢村の出番は今日だったか?」
「っす」
「楽しみにしている」
「え?観に来てくれるんすか?」
 その問いに結城は口元を緩めた。肯定を示すそれに一気に嬉しくなる。
「あざっす!今日の16時から講堂で、あ、その前に演劇部の講演があるんすけどそっちもオススメなんでぜひ!演奏する曲数はそんな多くないんすけど、御幸が作った曲も倉持先輩のギターも、あとドラムとベースとついでにキーボードもすごいし、絶対退屈はしないんで!」
「歌も、だろ?」
「え?」
「家でよく歌っているだろう。それを聞いてよく通るいい声をしていると思っていた。特にここ最近は伸びもよくなっているし、お前の歌のように三味線の音を響かせたいと思ったほどだ。俺はお前の歌にも期待している」
 楽器は違えど音楽に長く携わってきて聞いている人に鳥肌を立たせるほどの演奏をする人物からの言葉に嬉しさがこみあげる。他の奴にボーカルを譲る気なんて毛頭ないし、もっと歌いたいと思うけれど、自分は歌が上手いのかといえばよくわからなかった。今まで歌はそういった評価を受けるようなものではなかったからだ。音痴ではないと思うのだが、それ以上の上手いか下手かの判別はつかない。だから結城の言葉は純粋に嬉しかった。
「任せてくだせえ!その期待に応えてみせやしょう!」
 そう言うと、結城は「ああ」と頷いた。



 登校するなり同じクラスの女子に捕まった沢村は教室内に設けられた更衣室に連れ込まれた。その中には同じように捕まったらしい金丸が、女子に囲まれるという殆どない状況に怯えたように座っている。その口からは呪文のように「女子こわい」という言葉が繰り返され、一体どんな仕打ちを受けたのかと今から自分の身にも起こるであろうことに恐ろしさを覚える。
 仁王立ちした女子に囲まれる。その中心にいる人物がにっこりと笑って訊いた。
「沢村はアリスと白雪姫どっちがいい?」
「は?」
 一体何を訊かれたのかサッパリわからず間抜けな声が出てしまう。
「だから、アリスと白雪姫のどっちがいいかって訊いてんの。金丸に訊いてもどっちがいいとか言わないし、沢村に決めてもらおうと思って」
 そう言って二着の衣装を沢村の前に出してみせた。それが不思議の国のアリスで主人公のアリスが着ていた服に似せて作られた衣装と、同じく白雪姫の衣装であることは沢村にだってわかる。わからないのは何故どちらがいいかを訊かれているのかだ。
「何で俺が決めんの」
「だって着るのあんたじゃん」
「はあ?!そんなの一言も聞いてねえんだけど!」
「聞いてないのはあんた達が毎日毎日放課後になるとすぐに部活に行ってクラスの話し合いに参加しなかったからでしょ」
「うっ」
 演劇部に顔を出していた頃は遅刻がおっかなくて、演劇部に行かなくなってからは少しでも多く歌う時間を確保したくて、ホームルームが終わると同時に教室を駆け出て行っていたことを思い出す。練習の厳しい野球部に在籍している金丸も同じようなものだろう。
「話し合いも事前準備もほぼ不参加なんだから当日くらいはちゃんと働きなさいよ」
「俺今日が本番なんだけど」
 だから手伝えないと遠回しに伝えようとすれば「知ってるわよ」と返ってきた。
「あんたの出番は今日の16時でしょ。集合時間は余裕をもって14時。それまでは大声を出さなければクラスでこき使って構わないってあんたの先輩の了承済みよ」
 先輩と聞いて浮かぶのは二年の二人組だ。あいつら俺を売りやがったな。
「で、どっちがいいわけ?」
 訊かれたって、着なければならないならどっちも一緒だ。

 一年C組の文化祭における出し物は「コスプレ写真館」である。
 当日の販売のみで済む屋台は出店数が決められており、希望したところで上級生から優先的に割り振られていく。一年では出せる確率は低く、更に場所取りも大変であることから却下となった。同じく食事系の喫茶店はメイド喫茶やそれに似たものを出すクラスが多発するのは想像に容易く同じく却下された。だからといって、事前準備にやたらと時間を取られるクラス展示は誰もが嫌がった。基本的には当日のみで済み、食べ物以外のもの、と考えた結果行き着いたのがコスプレ写真館だったようだ。
 コスプレ衣装はクラスの何人かからハロウィンで使ったとか夢の国に着て行ったとかそんな理由で集められたものが数点と、クラスごとに支給された費用で購入したものが数点あるが、その他の大多数は演劇部からの借り物であるらしい。演劇部と聞いて小湊兄の顔が思い浮かぶ。果たしてそんな簡単に貸してくれるだろうかと考えてみたが、どうということはない。普段は存在感のない副担任が実は演劇部の顧問で口利きをしてくれたということだった。
 高校の文化祭、しかも一クラスで行うものにしては豊富なコスプレ衣装が揃っていて、差し出されたアリスや白雪姫の他にもナース服やら軍服、果てはウエディングドレスまで用意されている。一体どこから、と疑問を飛ばすと中古のウエディングドレスってかなり安く売られてたりすんのよ、とあまり知りたくなかった現実を教えられた。
 訪れた客は自分の着たい衣装を着て、写真を撮る。持参したカメラや携帯でもいいし、希望者はポラロイドカメラで撮影したものを渡してやるということになっていた。非常に単純な仕組みであるが、基本的には客が自分で選んで動くため店番のやることが少ないというのが最大の利点である。おかげで事前準備をサボった沢村と金丸の二人には楽な店番ではなく、コスプレ衣装を着て呼び込みするという、当人からすれば最も過酷な任務が与えられた。

「あー…、まあ、思ってたよりはまだ似合う……ような?」
「うるせー!似合わねえならはっきりそう言え!」
 沢村がアリス、金丸が白雪姫の衣装を着ると女子は皆そろって微妙な顔をした。いっそのこと笑ってくれと言いたい。下手な慰めをされても、ちっとも嬉しくない。
 そもそも金丸は180㎝近い身長で身体つきも他の男子に比べれば逞しいし、沢村も175㎝で決して小柄ではない。違和感なく女装などできるわけがなかった。しかも金丸は野球部であるため日焼けして肌は黒く、白雪姫とは正反対の外見をしている。交換してやればよかったかと思ったが、交換したところで同じことかとも思う。沢村だって金丸ほどではないにしろロードワークのおかげで多少は日焼けしているし、アリスが色黒でもやっぱりおかしいものはおかしい。恨むならこの衣装を選んだ女子を恨んでくれ。
「つーか何で衣装これなんだよ。男用の衣装もあるだろ」
 至極ごもっともな意見を金丸が主張したところ、女子は全く悪気のない顔で言い放った。
「そんなのおもしろくないじゃん」
「やっぱりおもしろがってんじゃねえか」
「これでも色々悩んだのよ。メイド服着せたら他のクラスのメイド喫茶の宣伝と思われそうだし、チャイナドレスは身体の線出るやつだから入らない可能性高いし、ナース服は保護者から変な目で見られそうだし。その点アリスと白雪姫は何と言っても夢の国だし、一目でコスプレってわかるし、宣伝にはうってつけじゃない。まあ両方とも二着あるから宣伝で着てても困らないってのもあるんだけど」
「どう考えても100%最後のが理由じゃねえか!」
「まあいいじゃない。特別にかつらも準備してあるから気合入れて呼び込みしてきてよ」
 はい、とかつらと看板を渡される。看板には「一年C組 コスプレ写真館」と大々的に書かれている。金丸と顔を見合わせ大きく息を吐き出すと、腹を括って開き直ることを決めた。

 文化祭二日目の一般公開は午前9時半からスタートする。衣装に着替えてかつらを被り、看板を持って外に繰り出した時にはもう9時を過ぎていた。歩きながら周りを見渡せばメイド服を着た二人組がいたり、お化け屋敷の勧誘だろう幽霊のような恰好をした者がいたりと、恐らく自分たちと同じ境遇であろう男子生徒が何人かいて、勝手に親近感を覚える。
 教室にいる時にはとんだ罰ゲームだと思ったが、外に出て同じように宣伝している者を見るとそこまでおかしくはないような気がしてくるから文化祭というのは恐ろしい。しかし、せっかくの祭だ。盛り上がらなければ損である。沢村と金丸は妙な使命感に襲われ、これからもっとも人通りが多くなる正面玄関へ向かうことに決めた。
「あ、沢村?」
 途中で屋台スペースを通り抜けている時に不意にかけられた声に振り返る。
「げっ。御幸にもっち先輩」
 この恰好では一番会いたくなかった人物である。
「ヒャハハ!お前すげーカッコしてんな!」
「あんたらが勝手に許可したんでしょーが!」
「だってそんなおもしろそうな話、乗らなきゃ損だろ?」
 思い浮かべたとおりのニヤニヤ笑う姿に腹が立つ。
「全然おもしろくねえ!」
「いや、普通におもしろいから。自信持てって」
「何の自信で?!つーか写メ撮んな!」
 いいじゃん、記念に。と何度かシャッター音が鳴る。一体何の記念だ。後日その写真で脅そうって魂胆ならそうはいかない。これから何百何千という人に見られるのだ。その人数が多少増えたところで対して変わりやしない。
 改めて御幸と倉持を見れば、そこには大きな鉄板が敷かれた屋台があって、手書き文字で「焼きそば 300円」と書かれていた。倉持の手にはコテが握られているが、その姿は異常なほど似合っている。
「先輩のクラスは焼きそば屋なんすか?」
「そ。お前同様俺らも準備殆ど手伝ってねえし、午後は本番だから午前の店番担当になったんだよ」
「一パック300円って安くないっすか」
「学祭価格だからな。儲けが出ないような値段設定にしなきゃなんねえの。原価で言えばもっと安いぜ。鉄板のレンタル料やらがかかってるからこんくらいだけど」
「祭で焼きそば食う気失くしやすね」
「んなこと言ったらかき氷なんて原価30円くらいだぜ」
「祭やべえ!」
 ウエディングドレスといい、知りたくなかったことをやたらとしってしまう日だ。
「お前午前中はずっと呼び込み役やってんのか?」
 倉持からの問いに頷く。
「女子からのお許しが出ない限りはこの恰好でどっかうろうろしてやす」
「なら11時頃ここに来い。焼きそば焼いといてやる」
「え!それは先輩のおごりってことで?!」
 無言は肯定と受け取る。
「あざっす!じゃあ2パックで!」
 そう言うと、「調子に乗ってんじゃねえ!」と怒鳴られた。

 9時半を周り一般客の受入れが始まると校内はどこも盛況となった。屋台などの食べ物を取り扱っているところは例外なく人が集まるが、クラス展示のみの教室にもそれなりに人がいる。保護者がまず子どものクラスを訪ねるためでもあるのだろうが、一気に大勢の人が来場したため人が少ない方へと流れた者がいるのも大きいだろう。
 想像を遥かに超える人数が押し寄せ、その大多数が立て看板や呼び込みに興味を示す。正面玄関に陣取った沢村も呼び込みに確かな手応えを感じていた。
 一言にコスプレと言うと興味はあってもなかなか手を出しにくいものであるが、文化祭という大っぴらな状況にあってはその敷居がかなり低くなるらしい。おまけに言えば、男子高生二人がどう考えても似合わない女子用のコスプレをしていることによって、自分には似合わないかもしれないと思っている者も少なくともこの二人よりは似合うだろうという安心感を覚えるようだ。悔しいが女子の作戦勝ちである。
「1のCコスプレ写真館やってやすー。そこのお嬢さんも、そこのお姉さんも、そこのお母様もみなさんプリンセスになるチャンスですよー。プリンセス以外にもナースにチャイナドレス、ウエディングドレスまで幅広く取り揃えておりまーす。男子用の衣装もありやすんで、そこのカップルさんも二人揃ってコスプレできちゃいやすよー」
「えーコスプレだって。ちょっとおもしろそうじゃない?」
「行ってみる?」
「おっ!お姉さん方お目が高いっすねー。衣装いっぱいあるんで、色々着て楽しんで来てくだせー」
 めいいっぱい手を振れば、笑顔で手を振り返された。金丸が隣で「お前すげーな」と呟いている。何がすごいのかよくわからない。
「へーおもしろそう。ねえ、それ私にも教えてくれる?」
「はいはー…い?!」声を掛けられ返事をしながら振り向けば、見知った顔がそこにあった。「って若菜?!」
「久しぶり、栄純。おもしろい恰好してるね。クラスの出し物?」
「おーそうそうコスプレ写真館で……ってお前何でここに?!」
 若菜に会うのは実に3か月ぶりだ。東京に発つのを見送ってくれたのが最後で、あとはたまにするメールのやりとりだけだ。
「栄純からのメールに文化祭で歌うって書いてあったから、それ観に来たの」
 確かに軽音部に入ったことも、文化祭のステージに立つことも伝えていたが、まさか本当に来るとは思わなかった。高校生にとって長野と東京はそんな簡単に行き来できるほど近くない。
「確か16時からだったよね。それまで一緒に回れたら…って思ってたんだけど、忙しそうだね」
「いや、2時には集合しなきゃいけねーけど、それまでならいいぜ。せっかく来てくれたんだし、一人で回ってもつまんねーだろ」
「え、でも…今もクラスのお仕事中なんでしょ?」
「この恰好で看板持って校内歩き回ってるだけで宣伝になるし大丈夫だろ。あ、それともこの恰好で隣歩かれるの嫌か」
「ううん!それは全然構わないんだけど!」
 じゃあ問題ねーじゃん、と言いかけた時、突然横から看板を奪われた。
「宣伝なら俺一人でもできるし、お前はその子と回ってやれよ。事情言えば女子からの許しも出るだろ」
「え?お前一緒に回らねーの?」
「いくらなんでもそこまで野暮じゃねーよ」
「野暮ってなんだよ」
 言っている意味がわからず訊けば、金丸は面倒だと言わんばかりの態度で追い払うように手を動かした。
「あーもう、いいから早く行けって!ただでさえ2時までしか時間ねえのにこんなとこで無駄にしてんなよ」
「いやまあ、お前の申し出はすげーありがたいんだけどさ」
「なんだよ」
「お前その格好のまま一人で校内歩き回んの?」
 そう言うと、金丸は暫し黙って、「嫌なことに気付かせんなよ……」とか細い声を出した。

 結局三人で戻ると教室内はかなり賑わっていた。行列ができるほどではないが客足が途絶えている様子もなく、想定よりもかなり好調のようだ。前の人が着替えている間に他の人は時間をかけて着たい衣装を選べるため、時間を持て余さないのも好評となっている。
「あ、金丸と沢村じゃん。おかえりー。結構客増えてきたし、そろそろ呼びに行こうと思ってたの…・っていうかその子誰?」
「俺の幼なじみ」
「あんた出身長野でしょ?ってことは遥々長野から……?」
 若菜はこくりと頷いた。心なしか顔が赤くなっているような気がする。
「あーはいはい。そういうことね」
「何がどういうことなんだよ」
「うっさい!この鈍感バカ!」
 何故ここで怒られなければならないのか。
「もう呼び込みとかいいから、二人で学祭回ってきなよ。あ、どうせならうちにある衣装貸してあげるよ?着たいのあったら着てっていいし、沢村に着せたいのあればそれも着せて連れて行っていいし」
 さらっと俺を巻き込むなと言いたい。罰ゲームでもないのに誰が好き好んで辱めを受けるのか。と思っていると若菜は遠慮がちに「あの、」と口を開いた。
「もし可能ならの話ですけど、この学校の女子の制服をお借りできたら嬉しいな、なんて」
 若菜の言葉に女子たちは「そんなのいいに決まってるじゃん!っていうかもうぜひ着て行って!」と盛り上がる。女子の口からは、「なにこの子かわいい」だの「健気すぎる」だのと褒める言葉ばかりが出され、かと思えば「沢村にはもったいない」と突然貶してくる。
「俺は着ねーぞ!女子の制服なんて!」
 そう言うと、盛り上がっていたのが嘘のように全員から白い目を向けられた。
「誰もあんたに貸す話なんてしてないでしょ。ほんとに、どんだけ鈍感なの。いいからあんたはさっさと自分の制服に着替えて来い!」
 男子用の更衣室に放り込まれ、制服も一緒に投げ込まれた。女子の会話は全くもって意味がわからない。

 制服に着替えると、そこに居たクラスメイト全員に見送られた。何人かに頑張れよと声をかけられたが何を頑張るというのか。
「何でうちの制服なんか着たがったんだ?」
「んー、だって中学までは私たち同じ学校の制服着てたじゃん。でも高校は全然違うとこになっちゃったからさ、もう一緒の制服着ることないんだなーって。そう思ったらなんか寂しくなっちゃって、一日だけでいいから同じ高校の制服着てみたかったの」
「ふーん」
 その気持ちがよくわからずに相槌を打てば、「ま、栄純にはわかんないだろうけど!」と笑う。
「で、どこ連れてってくれるの?」
 一番お勧めの店を紹介してやる。 
「とりあえず腹ごしらえに焼きそば屋さんな!」

「さーわーむーらー!」
「ちょっ!もっち先輩痛えっす!」
 目的地に着くなり屋台から飛び出してきた倉持にチョークスリーパーをかけられる。
「てめえ女連れとはいい度胸してやがる。彼女いる素振りなんて全くなかったくせに。ああ?いつできた?今日か?祭気分に浮かれてんじゃねーぞ」
「ちげーって!あいつは幼なじみの若菜!あんた俺の携帯勝手に見て知ってんでしょうが!」
 いくら部室に置きっ放しにしてたからって人の携帯を勝手に見るのはどうかと思う。しかも返信までしてるのだから性質が悪い。
「あ?若菜?嘘吐け!うちの制服着てんじゃねーか!」
「それには深い…かどうかはわかんねーけど理由がありやして」
「問答無用!」
「いってえええ!ギブギブギブギブ!」
 いつもより本気モードだ。いつもは一応手加減してくれていたらしい。
「あの、倉持先輩、ですよね?」
 若菜の声に腕の力が緩む。
「それから、こちらにいらっしゃるのが御幸先輩、で合ってます?」
 御幸がそれに頷くと、若菜は笑顔でお辞儀した。
「初めまして。栄純の幼なじみで蒼月若菜といいます。今はちょっと理由あって制服お借りしてるんですけど。栄純からお二人と一緒に文化祭のステージに立つって聞いて長野から来たんです」
「じゃあ本物の?」
「だからそう言ってるじゃねーっすか」
「紛らわしいんだよ!」
「理不尽!」
 再び倉持にプロレス技をかけられる沢村を見て、若菜は笑う。その隣に立った御幸が二人には聞こえないくらいの声で訊いた。
「蒼月さんは沢村の歌聞いたことあると思うけど、どう思ってた?特別だって思ってた?」
「上手いとは思ってました。私だけじゃなくて同級生のみんなも、それから周りの大人たちも、みんなそうだと思います。栄純は歌うのが好きで割とどこでも歌ってましたから」
「あいつ歌を誰かに教わったりはしたことないって言ってたけど、やっぱり本当の話?」
「はい。中学が廃校になるくらい小さい町だから本格的に歌をやってるような人なんていなかったし、栄純のお父さんが昔ギターやってたくらいで音楽に関わってた人も殆どいなかったんです。だから一緒に音楽やろうなんていう人もいなくて栄純はずっと一人で歌ってました。たぶん、あの頃はそれで満足してたんだと思うんですけど、今の栄純見てたらこっちに来て良かったんだなって思います。貴方たちと一緒にバンドやってるの本当に楽しいみたいで、メールしてもお二人の話ばっかりなんです。なんだかどんどん遠くに行っちゃうみたいで寂しくもあるんですけど」
「ごめんね」
 突然の謝罪に若菜は「え?」と疑問符を浮かべて御幸を見た。御幸の目は沢村に向いている。
「俺と倉持はきっと君たちが思ってるよりもずっとあいつの歌が特別だと思ってる。文化祭とか、そんな学校行事で終わらせる気はないんだ。この先、今よりずっと遠くにあいつを連れて行ってしまうと思うから」
 だからごめんね、と御幸は微笑んだ。
「まあ、姿を見る機会は今より増えるかもしれないけど」
「それって、」
「今日のステージ観てたらわかるよ」
 それ以上の質問を拒むような物言いに若菜は口から出かけた言葉を呑み込んだ。代わりに笑顔をつくる。
「じゃあ、今のうちにサインもらっとかないと!」
 少しだけ強がりを含ませてしまった。泣き笑いのような顔になっていなければいい。



 舞台袖から客席を見渡せば、超満員となっている。座席はほぼ全て埋まり、立ち見の者も多い。全校生徒を収容できる座席数となっているため、観客数は優に千を超えることは明らかだ。その光景を見て、沢村は思わず息を呑んだ。
「なにお前緊張してんの?」
「し、してねーし!」
「言っとくけど、今いる人数がそのまま残るわけじゃないからな。演劇部の公演が終わればそれ目当てだった奴らが出ていく。かなりの人数が減るだろうけど、気持ち切らすなよ」
 御幸の言うとおり、演劇部目当てにやって来た者は多い。開演は15時からだというのに午前中から席を確保する者が多数いたほどだ。最初は半日も講堂を独占するなんて卑怯だと思っていたが、そうしなければならなかったのだと初めてわかった。演劇部目当てで席を抑えて時間をつぶしている者ばかりの中で他の出し物をするなんて誰もが嫌がるだろう。それほどに人気のある演劇部から時間をわけてもらったのだと思うと、無意識に身体に力が入る。
 演劇部は確かにすごい。舞台袖から見ていてもそれはわかるし、更に言えば練習に参加させてもらっていた3週間で既に実感していたことだ。
 だけど、と沢村は思う。全く違うものだから比べても仕方がないけれど、軽音部だって負けてはいない。
 倉持先輩のギターは少しだけ乱暴で圧倒するほどのスピード感があるけれど、他の演奏を、歌を置いて行ったりはしない。独奏の時には他を寄せ付けないような演奏なのに、歌が始まればすぐに横に寄り添ってくれて、支えてくれる。純さんのベースはあまり自らを主張しないのに存在感があってそれぞれの音をひとつにまとめてくれる。クリス先輩のドラムは正確で決してリズムを崩すことはない、みんなの道標のような存在だ。降谷のキーボードは本人にそのつもりはないのかもしれないが全体の音を滑らかにしてくれている。そして御幸は。
 御幸をじっと見る。なんだよ、と御幸は視線だけを沢村に寄越した。
「どれだけ多くの人が席をたっても、歌が始まれば俺がその足を止めてやる」
 御幸は一度目を見開いて、笑った。
「上等」
 御幸の曲は俺を特別にしてくれる。どこまでも響き渡る声になる。

 演劇部の公演が終わり、役者全員が揃って舞台上で一礼すると、講堂内は拍手と歓声に包まれた。舞台袖に下がってきた亮介は沢村の顔を見るなり、「つまらない」と呟いた。
「もっと緊張してるかと思ったのに」
「これくらい屁でもありやせんね!」
「ふーん。まあでも、緊張でガチガチになってるよりはいいかな。せっかく時間分けてあげてるわけだしね。みっともない真似してうちの余韻ぶっ壊したらただじゃ済まさないよ」
 明らかに本気の声音に、沢村は「がんばります」とだけ返した。

 講堂は高校のものにしては非常に立派なつくりをしている。舞台の奥行はすべてを合わせれば20m近くあり、幾つかの幕で仕切られている。
 演劇部が使用したのは中幕より前方の部分だけであったため、ドラムやキーボード、音響装置等は中幕より後ろの台座の上にセットしている。演劇部の大道具を退ける必要はあるが、事前にセットしているものを前方に出すだけであるため準備にはさほど時間がかからない。
 大道具を退けるのも片付けは別に後でも構わないからと、中幕より後ろに追いやることで時間の短縮を図ってくれたため思いの外準備が早く済んでしまう。
 御幸は亮介を見た。舞台の時間を譲ってくれただけでも有り難いが、公演終了からの時間があまり空かないというのは非常に助かる。時間が短ければ短いほど席を離れる者が少なくなるからだ。ただでさえ演劇部が観客を集めてくれている。想定していたよりもずっと多くの観客の前で演奏することができる。
「ありがとうございます」
 頭を下げると、「何のこと」と返される。このことについて恩を売る気はないらしい。
「春市」
 亮介が呼ぶと、春市が駆け寄ってきた。
「カメラのメモリ残量はどれくらい?」
 演劇部は毎回自分たちの公演を録画している。今回も二階席の最前列中央から一部始終を撮ってある。
「まだまだ大丈夫だけど」
「そ。じゃこの後もカメラ回しといて。適当にアップにして、小さくなりすぎないようにね」
「え?わかったけど、なんで?」
「もしかしたら今後高値で売れるかもしれないからね」
 その言葉に御幸は苦笑する。前言撤回だ。恩を売るどころか全て損得勘定で動いている。

 幕の下がったままの舞台で伊佐敷とクリスが音出ししている。その音にぶるりと震えた。どくん、どくんと心臓の音が煩い。
 降谷を見れば、いつもどおりの涼しい顔でキーボードを前にしている。ピアノのコンクールで何度も賞を取っていると聞いたのを思い出した。人前の演奏は慣れているってことだろう。
「いてっ!」
 背中を倉持に蹴られる。これから大一番を迎える後輩に何たる仕打ち、と怒りを込めて振り返れば、揶揄を含まない真剣な顔がそこにあった。
「緊張してんのか知らねえけど、途中でわけわかんなくなったら後ろ向け。前は観客だらけだが、後ろは俺たちだけだ。いつもの練習と変わらねえ」
 その言葉に頷くと、「んじゃ行くか」と背中を軽く押されて数歩前に出る。
 舞台中央、最前列。そこが俺の定位置だ。
 一度全ての音が止み、二度大きく呼吸したとき、前奏となる倉持のギターが鳴り出す。それと同時に幕が上がる。
 最初の曲はカバー曲だ。殆どの人が知っているであろうアップテンポの曲で観客の盛り上がりを見る。
 カバー曲を決めるにあたって重視したのは長く人気の継続しているアーティストのヒット曲ということだ。文化祭であるため観客の年齢層は幅広く、最近人気の出てきたアーティストでは保護者たちの耳には聞きなれない可能性が高い。できる限り多くの人が知っている曲にするため、デビューから20周年を迎えたアーティストの曲を選んだ。
 緞帳が上がる時間に合わせるため、本来の曲よりもイントロを長く編曲している。
 暗かった舞台に光が差し込んでくる。倉持のギターに御幸のギターが重なり、キーボード、ドラム、ベースも加わっていく。そこに練習時にはなかった観客の声が加わる。
 緞帳が目の高さまで上がると、全体が見渡せるようになる。どくん、と心臓が大きく鳴った。演劇部の時よりは空席があるとはいえ、それでも座席の殆どは埋まっている。
 舞台側から講堂を見渡すのは初めてだ。こんなにも広かったのか、と少しばかり面喰らう。すぐ近くで演奏されているはずの音が遠くに聞こえる。
 そのとき、両側から軽い衝撃を受けた。右側には御幸が、左側には倉持が、二人ともギターを弾きながら横に並んだ。
 倉持に言われた言葉を思い出す。そうだ。一人で立っているわけではない。後ろはいつもどおりみんながいる。そう思えば一気に安堵感が駆け抜ける。
 左手でマイクを握って、思いっきりシャウトする。それだけで身体中の血が沸騰するような快感が押し寄せた。
 御幸と倉持に心配無用だと笑顔を向ける。二人はそれを見て、口元を緩めた。
 歌が始まると、歌詞は自然と口から出てきた。周りの音がいつもよりクリアに聞こえる。部室よりずっと広く、音が篭もっていないからだろう。
 観客が音に合わせて手拍子をしてくれているのが目に入る。掴みは悪くない。いや、むしろかなり良い。
 音に合わせて身体が勝手に動く。固定されているのがもどかしく感じて、マイクスタンドからマイクを外す。リズムに合わせて飛び跳ねれば、何人かの観客がそれに合わせて手を振ってくれる。
 一曲目が終わると、観客からは拍手と歓声が上がった。間を置かずに二曲目に入る。カバー曲とオリジナル曲のどちらにするか本番で決めると言っていたが、どちらにするかなんてわかりきっている。これだけ盛り上がってるなら、オリジナル曲をやらなきゃ損だろ。御幸はそう言うに決まっている。
 倉持の速弾きが始まる。マイクを片手に倉持に近寄り、倉持の真似をする。いわゆるエアギターだ。挑発するようなそれに倉持は小声で「この野郎」と呟いた。沢村と向き合い、挑発に乗るようにギターを鳴らす。即興でアレンジを加え、自ら難易度を上げる。速弾きが終わった瞬間、歓声が上がった。沢村はいたずらが成功した子供のように笑う。それにつられるように倉持も笑った。
 ギターにキーボード、ドラム、ベースの音が重なり、リズムを取るように手拍子する。手拍子の音が重なって聞こえ始め、見れば観客が合わせるように手拍子している。自身の一挙一動に見ている人が動く。こんな盛り上げ方があるのだと初めて知った。
 ライブなんて観客としてすら経験がない。盛り上げ方も煽り方も何も知らずにステージに上がっている。何が正解なのかはわからない。それでも、みんなの楽しそうな顔にこれが間違いでないことだけはわかる。
 無性に楽しさが込み上げてきて、歌いながらも笑顔になってしまう。観客の笑顔が見えればいっそう笑みが零れてくる。
 ライブがこんなに楽しいものだとは思わなかった。御幸の曲も、みんなの演奏もとにかく凄いから多くの人に聞いて欲しいとは思ったが、自分の歌を聞いて欲しいとは思わない。歌えるなら何処だって構わないし、観客が一人もいなくても構わなかった。自分の歌は人に聞かすことを目的としていない。ただ自分が気持ちよく歌いたいがためのものでしかなかった。その考えが今変わりつつある。自分のため、という根本的なところは変わらない。けれど、観客を巻き込めば更に歌が広がっていく。

「えーっと、初めまして?でいいんすかね?」
 二曲目と三曲目の間に紹介を含めたMCを入れることにしたのは数日前だ。それまでは三曲連続で歌い切って終わりの予定だったのだが、リハーサルをやってみた結果、何の紹介もなく終わるのもおかしいだろうということで急遽入れることとなった。
 お前MC担当な。
 御幸にそう言われて、「御幸がやればいいじゃん」と返せば「こういうのはボーカルがやるもんなんだよ」と返ってきた。あの時はそれなら仕方がないかと思ったが、今思えば別に誰が喋ったって構わないんじゃないかと思う。
「どうも、俺たち軽音楽部です!」
 パチパチと拍手が送られる。
「なんか紹介しろーって言われたんで、一人ずつ紹介しやすね。では、左から」
 そう言って観客の目が自分とは逆に移ったのを見てハッとする。
「あ!左は俺から見て左!なんでみんなから見たら右!」
 観客からくすくすと笑いが零れる。
「ギターのもっち先輩っすね」
「てめぇちゃんと紹介しろ!」
「すません!えー、もっち先輩改め倉持先輩っす。二年生ですねー。みなさんさっき観てたと思いますけど、倉持先輩は超絶ギター上手いんすよ。速弾きのとことか手の動き速すぎて全然見えねえの!俺もさっき弾く真似してみたけど、どうでした?」
 インタビューするかのようにマイクを倉持に向ける。
「お前後で新技決定な」
「げっ!それだけは御勘弁を!そうそう、倉持先輩はよくプロレス技かけてくるんすよ。可愛い後輩に対してこの仕打ち!みなさんどう思われます?!」
 観客席から「かわいそ~!」という声とともに「なかいい~!」とか「うらやましい~!」という声も飛んでくる。
「羨ましい?!そう仰ってますけど、どうっすか、もっち先輩」
「みんなお前に技かけたいんだとよ」
「そっち?!いや、丁重にお断りさせていただきやす。もっち先輩一人で十分なんで。でもそんなもっち先輩も意外と優しいところがあってですね」
「いいから次行け次!どんだけ喋る気だ!」
「え~まだまだ喋ることは尽きませんが怒られたので次行きやすね。次はドラムのクリス先輩です!クリス先輩は俺のトレーニング師匠でありまして、毎回的確なトレーニングメニューを組んでくださるという大変ありがたいお方っす。先輩から頂戴した巻物は今が三つ目で、我が沢村家の家宝にしようと思っておる次第です」
 クリスから「やめとけ」と小声で返された上に追い払うように手を動かされ、後ろ髪を引かれつつ次に移る。
「次はベースのスピッツ先輩こと伊佐敷先輩です」
「誰がスピッツだ!」
「先輩は見かけに寄らず少女漫画好きという意外な一面がありまして、クラスの女子に借りた漫画を先輩にも貸したんすけど、見事にはまったっすよね。最近人気急上昇らしいっすけどみなさん知ってますか、『ハートのA』って漫画」
 知ってるー!という声があちこちから響く。
「おおっ!やっぱり知ってる人多いっすねー。三幸先輩と倉森先輩のどっち推しかで別れやすよね~。俺は名前だけじゃなく見た目も御幸先輩と倉持先輩に似てると思ってるんすけど、みなさんはどっち推しっすかー?」
 観客席にマイクを向ければ、どっちの名前も同じくらい返って来る。
「やっぱり分かれやすねー。あ、そういえば1年C組ではコスプレ写真館というものをやっておりまして、この漫画のコスプレ衣装もあったと思いますんで、興味ある方は行ってみてくださいねー。以上宣伝でした!これ以上しゃべるとまたお怒りがきそうなんでこの話はここで終わり!あ、そうそうクリス先輩と伊佐敷先輩は三年で元軽音部っす。春で引退してるんですけど、お願いして文化祭だけ出てもらいました。お二人に大きな拍手をお願いしやす!」
 わーっと拍手がわく。クリスは微笑んで、伊佐敷はやや照れくさそうに手を振った。
「次はキーボードの降谷!俺と同じ一年で、こいつも軽音楽部じゃなくて今回限りの助っ人で出てもらってます!ほら降谷なんかしゃべれ」
 マイクを向けられて戸惑う降谷に、ん、と更にマイクを近付ける。
「僕は基本楽器にしか興味なかったけど、君の声は好きだよ」
「はっ?!お前何言って…!」
 観客から歓声がわく。自分の言ったことに何の疑問も持っていない降谷は「本当のことだけど」と更に追い打ちをかけてくる。
「あー、もういいって!次!次いきやす!はい、次は二年の御幸先輩です」
 紹介した途端に、「みゆきくーん!」と女子の黄色い声援が飛ぶ。御幸はそれに応えるよう笑顔で手を振った。
「みなさんお目が高いっすねー。御幸先輩は何でも屋さんで、今はギター弾いてるけど、キーボードもいけるし、何より曲作れるすごい人なんすよ。さっき歌った二番目の曲はなんとこの御幸先輩が作詞作曲したやつで、あれ以外にも何曲か作ってるし、次歌うのもそのうちの一つなんで楽しみにしててください。御幸先輩はそこそこ性格悪くて、俺が軽音部入ったのもこの人に騙されたせいなんすけど、でも今は軽音部に入ってよかったなーって思ってやす!御幸先輩が作ったやつ歌うのすげー気持ちいいし!」
 そう言って笑うと、御幸が拳を突き出してきた。それに拳をぶつける。なんだか気恥ずかしくなって「へへっ」と笑った。
「以上!メンバー紹介でした!」
 そう締め括ると、「自分のことは~?」と訊かれてハッとする。
「そうそう、一番大事なの忘れてやした!俺はボーカルで一年C組沢村栄純です!5月15日生まれ牡牛座でO型、長野生まれ長野育ちで東京に来たのは今年の春。今は下宿生活させてもらってます。好きな科目は体育で体育以外はちょっとばかし苦手っすね。嫌いな食べ物は納豆。それから…えー、他に聞きたいこと何かありやす?」
「長えよ!それくらいにしとけ!」
 倉持から野次が飛ぶ。
「えーではお叱りが来たので紹介は以上です。以後お見知りおきを~!」
 喋りすぎと言われれば確かにそうかもしれない。気分が高揚しているせいなのか、口がよく動いてしまうのだ。しかし今日のメインは喋ることではない。ふーっと大きく息を吐き出して頭を切り替える。
「最後にもう一曲やります。さっきも言ったけど、御幸先輩が作ってくれた曲です。二番目に歌った曲とはかなり雰囲気が違うけど、こっちもすげー良い曲だと思う。全力で歌わせていただきますんで、最後まで聞いて行ってつかぁさい」
 ぺこりと頭を下げると疎らに拍手が鳴る。それが止むのを待って、降谷に合図を送った。
 ラストの曲は文化祭合わせで新しく作られた曲だ。最初は他の曲と同様にギターやドラムなども加えたイントロだったのだが、せっかくピアノのスペシャリストが入るんだから、と編曲されイントロとAメロはキーボードだけのシンプルなものに変更されている。
 目を閉じてキーボードの音色に耳を傾ける。歌が始まると、講堂内には降谷のキーボードの音と自分の声だけが響いた。二階席の一番後ろまで届くように腹に力を入れれば、更に声が伸びたと実感する。目に映る観客の何人かが目を瞠ったのがわかった。
 Aメロが終わると、ギター、ベース、ドラムが加わる。あくまでキーボードと歌のサポートに徹するように激しさはない筈のそれらの音が加わった途端に、まるで音に吸い込まれるかのような錯覚を覚える。観客がいることも、講堂で歌っているということも、これが文化祭だということも全てが頭の中から抜け落ちて行く。残るのは今歌っているということだけだ。
 歌以外が頭から消え去ると自身の後ろで奏でられる音がより鮮明に聞こえるようになった。その音に声を乗せれば、まるで追い風のように声に力を与えてくれて、更に遠くまで響かせてくれる。

 一曲丸ごと歌い終わって我に返ったとき、真っ先に思ったのは「またやってしまった」だった。歌っている最中に頭から全てが飛ぶと大抵歌詞も一緒に飛んでしまうからだ。御幸と倉持に沢村語と揶揄された言葉になっていない適当な発音の羅列で歌ってしまったのではないか。練習の時には途中で飛ぶことなく歌えていたのに、よりにもよって本番でやってしまうなんて先輩たちからお叱りが来るに違いない。恐る恐る後ろの様子を覗えば、皆揃いも揃って呆然とこっちを見ている。
 その反応の意図がわからず、客席に目を向ける。しん、と静まった会場に不安が押し寄せる。まさか歌詞以上に何か大事をやらかしていたのだろうか。
 沈黙に耐えかねて口を開こうとしたとき、パチパチと疎らに拍手が起きた。それにつられるように次から次へと拍手が広がり、すぐに会場全体を包む大きな拍手に変わる。
 とん、と背中に軽い衝撃を受ける。いつの間にか御幸と倉持が隣に立っていて、二人の顔に笑みが浮かんでいることに安堵する。どうやら歌はきちんと歌えていたらしい。
 倉持が頭を乱雑に撫ぜる。それが倉持なりに称賛を表現しているのだと今はわかる。
 御幸は観客席を見渡して、よく見とけよ、と言った。
「これがお前の初ライブの反応だ。前半の盛り上がりは祭気分に助けられたところもあっただろうが、今目の前にある光景はお前がその声で作り出したものだからな」
 その言葉に改めて観客席を見る。一度全体を見渡して、一人ひとりに目を遣れば、何人か、数えられるほどの人数ではあったが、涙を溢している者がいる。
 自分一人の力ではない。そんなことはわかりきっている。御幸の曲があって、それを完璧に演奏する人たちがいて初めて成立するものだ。だが、それでもその中に自分の歌が含まれているのは紛れもない事実で、涙を溢すほどに心を揺さぶったのかと思うとぞくぞくした。
 何百もの人が自分の一挙一動に沸き立ち、踊る。歌を聞いて涙さえ溢す。それに歓喜や快感、興奮といったものがない交ぜになって押し寄せてくる。
 きっとこの先、そんなことがあるかはわからないが、もっとずっと多くの人の前で歌うことがあったとして、それでも一生この光景を忘れることはないだろうと、そんな確信にも似た思いを抱いた。



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