小さい頃から歌うことが好きだった。
 初めて人前で歌ったのは確か幼稚園のお遊戯会の時だった。たくさんの大人たちが見学する中、柄にもなく緊張したのを覚えている。けれど、曲が始まってしまえばそれまでの緊張が嘘のように消え去った。
 どんな風に歌ったのか、間違えずに歌えていたのか、歌っている最中のことは全く覚えていない。ただ、歌い終わった後に貰った拍手が嬉しかったことだけはよく覚えている。
 それ以降は大勢の人の前で歌う機会は殆どなかったが、それで構わなかった。歌うことが好きなだけで、誰かに聞いて欲しいとは思っていなかったのだ。
 学校からの帰り道、頭の中に流れる曲を口ずさむ。すれ違うおばちゃんたちに「栄ちゃんの歌は元気が出ていいわねえ」なんて褒められる。
 人口の少ない田舎町では道行く人はその殆どが知っている人で、会えば当たり前のように話しかけてくる。日常的な光景で特別なことなど何もない。だが、それだけで十分だった。
 歌は、一人で歌って、それで完結するものだったのだ。
 少なくとも、あの日までは。



 「軽音楽部?」
 高校生活初日の登校早々に上級生に捕まった沢村栄純は、そのまま連れて来られた部屋で頭に疑問符を浮かべた。
 各クラスの教室のある校舎や入学式の行われる講堂からは少し離れた校舎の二階。その最奥に位置する、以前は教室として使われていたのであろう部屋には、今までテレビでしか見たことのない楽器や機材が幾つも鎮座している。
 見慣れない物に溢れた部屋を見渡しながら、都会の学校はやっぱり違うな、と何処か他人事のように思う。こうして上京して来なければ一生お目にかかることはなかっただろう。
 機材から目を離し、目の前の上級生二人を見る。
 制服を着ているせいで雰囲気が違って見えるが、二週間ほど前に路上で歌っていた二人に間違いない。

 あの日の体験は沢村にとって特別なものだった。時間にすれば10分程の非常に短い時間であったはずなのに、そうとは思えないほどに心の中に大きく居座っている。
 駅から出て下宿先に向かう途中のことだった。何処からか耳に届いたギターの音に誘われるように向かった先にその二人はいた。
 演奏されていたのは少し前に流行ったもので、流行に疎い沢村ですら聞き覚えのある曲だった。
 その曲を知っていると断定できないのは、偏にアレンジが加えられていたからだ。元の曲を壊さずに、けれどかなり手を加えられたのであろうその曲は、何故か元の曲よりも耳に馴染んだ。
 暗くなる前に下宿先に着かねばならないというのに、思わず足を止めて聴き込んでしまう。田舎町では目にすることのなかった路上ライブが珍しかったというのもある。けれど、それだけなら曲が終わった途端に立ち去っていただろう。
 昔から父が家で弾くギターを聞き続けてきたが、目の前の人物はそれとはまるで違う音を出していた。同じギターであるはずなのに、全く違う楽器のようにすら思えた。
 少し話した後に演奏されたのは全く知らない曲だった。曲の始まりとともに始まった速弾きに圧倒され、その後芽生えたのは高揚感だ。
 その後のことはよくわからない。音楽の中に吸い込まれたように、周囲の環境が頭の中から消え去った。
 歌詞も知らないその曲を思いっきり歌っていることに気付いたのは、最後まで歌い切った後のことだった。
 不思議な感覚だった。語彙力も何もあったものではないが、言ってしまえば、めちゃくちゃ気持ちよかった。
 あの二人組は一体何者なんだろうかとは思っていたが、まさか同じ高校の先輩で、入学式も終わらぬうちに連行されるとは予想だにしていなかった。

「俺は二年の御幸一也。で、あっちが」
「倉持だ」
「他の部員はいずれ紹介することにして、お前、沢村だっけ?」
「ッス」
 名前を知られているのは、倉持と名乗った先輩に捕まった途端に「てめぇ名前はなんだ?!」と凄まれ、反射的に「沢村っス!」と名乗ってしまったからだ。
 正直に言う。超怖かった。入学早々ヤンキーっぽい上級生に絡まれ、名乗れなんて言われたら怖いに決まっている。当の本人はいや名前が知りたかったわけじゃねえとかなんとかぶつぶつ言ってたけど。じゃあ何で聞いたんだよ。
「下の名前は?」
 倉持とは対照的な人当たりのよさそうな笑みで御幸に問われ、まあ減るもんでもないしと思いながら答える。
「栄純っす」
「えいじゅん?珍しい名前だな。どんな漢字書くんだ?ちょっとこの紙にフルネーム書いてみて」
 渡された手の平サイズの白い紙とボールペン。何の疑いもなく自分の名前を書く。
「沢村、栄、純…っと」
 書いた紙を渡すと、御幸は目を細めて笑った。
「サンキュ。……んじゃこれから軽音楽部の一員としてよろしくな。"沢村栄純"」
「は?」
 言っている意味がわからず、間の抜けた声を出してしまう。
「軽音楽部に入るなんて一言も言ってやせんけど?!」
「言ってなくても態度で示したじゃん。ほら、入部届に"軽音楽部 沢村栄純"って」
 そう言って広げたのはさっき名前を書いた紙で、二つ折りにされていたらしいその紙の上部には「入部届」という印字と、軽音楽部という誰かの手書き文字。
「はあ?!ずりーぞ!そんなの無効だ、ムコー!!っつーか返せ!」
「はっはっは。そんな簡単に騙されてたらお前そのうち詐欺に遭うぞー」
「まさに今!その詐欺に遭ってやすけどね?!」
 御幸は笑いながら入部届を四つ折りにすると、胸元のポケットにしまう。
「なにしれっと隠してやがる!返せこのヤロー!」
「俺センパイね?」
「先輩ならそんな卑怯な手で後輩虐めてんじゃねえ!それに、俺はもう入る部活決めてるんで!」
「へえ。何部?」
「野球部!」
 何か文句あるか!とばかりに言い切ると、御幸は一度目を丸くして、胡散臭いとしか思えなくなった笑顔を向けた。
「じゃあ別にいいじゃねえか」
「何もよくねえ!俺は野球部でエースとして、」
「だってうち、野球部無いし」
「…………へ?」
「無い部には入れねぇし、新設にしても他の運動部で埋まってて練習スペース確保できねぇよ。結果、入る部がないんなら軽音楽部でよくね?お前歌得意だし」
「いやいや、ありえねーでしょうが。こんなでかい学校で、野球部ないとか」
 これはさすがに想像していなかった。確かに中学の時は野球部が無くて人集めから始めたけど、それは廃校になるほどの生徒不足だったからであって、こんな一学年に何百人もいるような学校で野球部がないなんて思わないだろう。
「…………まじすか」
「超本気」
「嘘だろ。信じらんねぇ。地元の高校ですら野球部あったのに、東京マジわけわかんねぇ!野球部入る気満々だった俺のこの情熱は一体何処へ?!」
「だから、ここでぶつければいいじゃん。その情熱」
 胡散臭い笑顔に、腑に落ちない気持ちは多分にあるが、野球部に入れないのなら他に入りたい部活もない。実際歌うことは好きだし、この二人の演奏には興味がある。
「で、入んのか?軽音部」
 それまで黙っていた倉持に問われた一言に、「よろしくお願いしやす!」と頭を下げた。

 入学式が始まってしまう、と沢村が駆け出て行った後の部室で、倉持は御幸を睨んだ。
「お前マジで性格悪いな」
「欲しいものを手に入れるためなら手段を選ばない主義なもんで。倉持に途中で止められたらどうしようかと思ったけど」
 止めなかったお前も同罪だと暗に含ませる御幸に、倉持は舌打ちした。
「けど、すぐばれるぜ?」
「だろうな」
 青道高校は都内でも有名な硬式野球の名門校である。野球部は存在するし、今まで廃部になったこともない。
 その事実を沢村が知るのは、この数分後であった。




「御幸一也ァァァ!」
「うるせぇ!」
 ホームルームが終わると同時にダッシュで向かった部室に着くや否や大声で叫んだ沢村に、蹴りを入れる。怒る気持ちはわからなくもないのだが、あまりのやかましさに条件反射で脚が出てしまった。
「はっ!倉持先輩!御幸はどこっすか?!」
「知るか。そのうち来るだろ」
 入学式の後、二限分のホームルームが行われる新入生とは違い、一限分にも満たないホームルームの後部室に向かう倉持に、御幸は寄るところがあるから先行っといて、とだけ声を掛けて何処かに消えた。御幸の行動に興味はないが、どうせまた禄でもないことを考えているのだろう。
「っていうか!野球部あること倉持先輩も知ってやしたよね?!何で教えてくれないんすか?!」
 それは御幸の考えと全く同じだったからなのだが、バカ正直に教えてやるわけもない。
「お前野球できんの?」
「誰に聞いてんすか。この沢村栄純、中学時代は野球部のエースとしてですね」
「あーはいはい」
「ぐぬっ!」
「歌は?」
「はい?」
「歌。誰かに師事してたとか、それこそバンド組んでたとか、何かあんだろ」
「いや、特に何も」
「はぁ?!」
 予想外の応えに思わず眉間に皺がより、声もでかくなる。
「しいて言えば下校途中とかによく歌ってやしたね」
 俄かには信じ難いが、嘘を吐くメリットも無い。そもそも嘘を吐いた瞬間顔に出そうだ。
 ということは、あの声は天然のもので、何も手が加えられていないということだ。経験を積めば一体どうなるのか、楽しみであると同時に末恐ろしささえ覚える。
 当の本人はバンド活動にはあまり興味を持っていなかったようだ。もしあの日出逢っていなければ、もし上京して来なければ、こいつはこの声をそのまま地元で埋もれさせていたのだろう。
 信じらんねぇ。なんて勿体無い野郎だ。
 だが、他の奴に先に見つからなかったということに関しては今まで興味を持っていなくて良かったと思わずにはいられない。もし他のバンドに入っていようものなら、惜しいことをしたなんて軽い気持ちでは済まない。

「お、初日はサボらず来たか。偉い偉い」
「御幸一也ァァァ!」
 御幸が部室に入って来ると同時に駆け寄った沢村は勢いそのままに御幸の胸倉を掴むと前後に揺さぶった。
「登場するなりフルネームで熱烈歓迎とは照れるなー」
「ふざけんな!野球部あるじゃねぇか!入部届返せ!」
「無理。もう出しちゃったもん」
「何だって?!」
「だから、もう顧問に出しちゃったから返せないの」
「てめぇー!何してくれてんだー!いや、でも退部届を出せば」
「それも無理。うちの学校一度入った部を辞めたら違う部には3か月間入れねぇから」
 何だその高校野球の転校したときみたいなルールは。普通に考えたら一発で嘘だとわかりそうなもんなのに、沢村は言葉のままに信じてしまっている。まじでバカなのか、こいつ。
「はっはっは。だからそのうち詐欺に遭うって言っただろ」
「うるせー!お前のことはもう二度と信用しないからな!」
 吠えながら泣いてやがる。感情表現が豊かというか、素直というか。いや、言ってる傍から騙されてるあたりただのバカなのか。
「そんな傷心の沢村君にプレゼント」
 御幸はA4サイズの紙を何枚か取り出す。
「何だこれ……楽譜?」
「そ。こっちはこの前路上で歌ってたやつ。んで、」
「路上でって、それ俺が歌っちゃったやつ?!」
「ん?そうだけど」
 ついさっきまで泣いてたとは思えないほど瞳を輝かせている。わかりやすい表情に御幸がにやりと笑う。
「なに。お前、もしかして気に入っちゃった?」
「おう!あれからあの曲が頭から離れなくて、ずっと気になってたんだよなー。CD借りようと思っても誰の曲かわかんねぇし、歌詞もわかんねぇしで探しようがなくてさ。もう一回聴きたいって思ってたんだ」
「そっか、そっか。そんなにこの曲が好きか」
「すげー好き!」
 何で自ら進んで罠に飛び込んで行くのか。あの楽しそうな顔を怪しいと思わない時点で御幸に騙され続けるに決まっている。
 こいつマジで詐欺に引っ掛かりそうだな。
「これ誰の何て曲?」
「タイトルはちゃんとつけてねぇけど、俺の曲」
「はい?」
「だから、俺が作った曲」
「は?」
「いやー。そんな褒めて貰えるなんて作者冥利に尽きるなー。そっかー沢村は俺の曲がそんなに好きかー」
「ちょっとタイム!タイム!」
 そう叫ぶと、腕でTの字をつくる。おい、それ野球のジェスチャーじゃねぇだろ。ほんとに野球やってたのかよ。
「曲って作れるもんなのか?!」
「沢村君、世の中の曲は須らく誰かが作っているものなのだよ」
「うざい!」
「だから俺先輩ね。ま、冗談抜きにして、お前には譜面と言わず曲ごとやるよ。今後この曲はお前のもの。あとこっちも」
 沢村の手に握られている譜面のうち後ろにあった数枚を抜き取り、前に出す。
「こっちはお前の声を想定して書いてるから、正真正銘お前の曲な。できたてほやほやの新曲だぜ?」
 御幸が寄るところがあると言っていたのはこのことか、と得心がいく。全てをこの短時間のうちに書いたとは思えないため、初めて沢村に会った日から書いていた曲を手直ししてきたのだろう。
「御幸先輩……」
 初めて先輩をつけて呼んだところを見ると、今ので少しは見直したらしい。性格に難ありとはいえ、音楽センスだけは本物だしな。
「あんためっちゃすげぇのに、何であんな卑怯なことするんすか?」
 真顔で問われた言葉に、御幸は固まり、俺は噴出した。
「ヒャハ!いいぞ沢村、もっと言ってやれ」
 御幸を言い負かせるのは、姑息な手を使わない、作戦も何もないバカ正直な奴だけだ。

 沢村に渡したものとは別の譜面を渡される。沢村のはボーカル用のメロディ譜だが、こっちはギター用のコード譜だ。恐らく御幸はバンド譜もピアノ譜も作っているのだろう。そういうところは抜け目がない奴だ。
 ざっと目を通しただけでも今までの曲とは随分と趣が異なる。沢村に歌わせることを想定して書かれた曲。否応なく興味が湧く。
「おい、沢村。お前この新しい方歌ってみろ」
 沢村は一度譜面を凝視したかと思えば、一言「無理っす」とだけ答えた。
「ああ?!てめぇ先輩の言うことが聞けねぇってか」
「いや、っていうか俺楽譜読めやせんし」
「…………まじか」
 本格的に歌をやっていたわけではないのなら、そういうこともあり得るかもしれない。実際、有名なボーカルで楽譜が読めないことを公言している者もいる。
 読めるに越したことはないが、読めなくても歌は歌えるということだ。
「仕方ねぇ」
 ギターを取り出し、軽くチューニングする。
「ほら。ギター弾いてやっから歌え。御幸はキーボードでメロディライン弾けよ」
 言われるまでもない、と当然のようにピアノ譜を取り出し、キーボードを設置する。
「いくぞ」
 言葉とともにギターを鳴らす。あまり変化の多くないコード進行。御幸の弾くキーボードの音が重なる。
 メロディラインを奏でるキーボード。御幸にしては少しゆっくりめの曲調で、ギターにしろキーボードにしろ演奏自体はかなり楽な方だ。どれだけの音域が出せるのかわからなかったからなのか、音の高低さもあまり大きくはない。
「………って、いつになったら歌い始めんだ!もうとっくに歌始まってんだろうが!」
 ボーカル音を弾いているはずのキーボードにいつまで経っても声が重ならない。
「え?もう始まってんすか?」
 予想外の応えに脱力する。怒る気すら失せてしまった。
「だから俺楽譜読めないって言ってるじゃないっすか。見てても何処まで進んだかわかんねぇし、いつが始まりかもわかんねぇっすよ」
 そんな堂々と言うことかよ。
 さすがに驚いた様子の御幸が問う。
「お前今までどうやって歌ってきたの」
「どうやって、って言われやしても。普通に、頭に浮かんだままっすかね」 
「あの時路上で歌ったのは?」 
「最初聞いてたんで、耳に残ってたんすかね。あんま覚えてないっす」
 納得がいかない、という顔をする。物事を理屈で考える御幸にとって感覚で生きる沢村は理解の範疇を超えるのだろう。
「こいつ、バンド経験もなけりゃ、誰かに教わったこともないらしいぜ」
 先程聞いたばかりのことを伝えてやると、御幸は一言、参った、と呟いた。
「奇跡みたいな奴だな」
 それに関しては全くの同感だ。

 ギターとキーボードのみを一度通して弾くと、終わった途端に沢村から拍手が贈られた。しかもスタンディングオベーションである。曲を確認するために弾いただけで、そんな立派な演奏をした覚えはない。
「これさっき初めて楽譜見たやつっすよね?初見でそんな弾けるもんなんすか?!」
「あー、まあ、ある程度はな」
 もちろん、どんな曲でも初見で弾けるわけではない。路上で演奏した曲なんかは結構な練習を積んだのだ。だが、この曲は然程難しいものではなく、むしろ今まで弾いてきた御幸の曲の中で最も簡単な部類に入るだろう。
 今までの曲には多かれ少なかれ必ずギターの見せ場があった。それがこの曲からは一切排除され、最初から最後まで脇役に徹している。まるでこの曲の主役はあくまでボーカルなのだと曲自体が訴えているかのようだ。
 御幸は「沢村の声を想定して書いた」と言っていたが、その結果がこれだというのなら、御幸にとって沢村の声はこれ以上なく特別なものなのだろう。
 ギターもキーボードも、その他全てが沢村の声を最大限に活かすための道具に過ぎないのだ。

「どうだ、沢村。いけそうか?」
「いつでもいけやす!」
 一度思いっきり失敗しているくせに何処からその自信が出てくるのかはよくわからないが、あの路上ライブを想えば歌に関してのみこいつの感覚は信用できる。
 通算三度目となる前奏を弾く。沢村は目を閉じてリズムをとった。先程のメロディーラインのみの演奏とは異なり、伴奏もつけていたが、歌の入りは完璧だった。
 遠慮なく出された声は路上とは違い部屋の中でよく響いた。路上では何処までも響き渡りそうな透き通った声だった。それがこの室内では反響し密度を増す。肌が粟立ち、思わず小さく身震いした。
 何度か音を外したりしたところはあったが、譜面も見ず一度聴いただけの曲を歌っているのだから当然だろう
 ただ一つ非常に残念なことに、沢村は目を閉じたまま歌っていた。当然のことながら歌詞はめちゃくちゃだ。
 さてはこいつ、歌詞覚える気ねぇな。
 




 沢村に歌わせることを前提に書いた曲は幾つかあった。そのうち実際に譜面に起こしてバンド譜までこさえたのは一曲だけだ。
 幾つかある中では、最もシンプルな曲だった。ボーカルの音を目立たせるために他の音を排除していくと必然的にそうなった。
 沢村にどれくらい音域の幅があるのかわからなかったが、一度聞いた歌声にはかなり余裕がありそうだった。その曲をもとに音域を想像する。どれも少し高めの曲になった。重低音より高い方があの声は活きると思ったからだ。
 全て想像だった。一曲の半分しか聞いていない声を思い起こし、どんな風になるかを思い浮かべながら作った。そんな風に曲を作ったのは初めてだったが、不思議と手は止まらなかった。
 そしていざ本人に歌わせれば、その声は俺の想像を遥かに超えた。
 歌詞は完全に無視で、言葉にすらなっていなかった。だが、それでもたった一小節分だけで、頭に思い浮かべていたのは本当に想像に過ぎなかったのだと思い知った。
 ボーカルを目立たせるためなんて考える必要はなかった。どれだけの音の中にあっても、この声は埋もれやしないだろう。
 前回の曲より高めの音域だったにも関わらず、きつそうな素振りは一切ない。むしろより声の伸びがよくなっている。一体、どこまで出せるというのか。
 歌っているそばから次にやりたいことが次から次へと出てくる。もっと音域に幅のある曲を歌わせたい。もっと入り乱れたバンドサウンドの中で歌わせたい。知れば知るほど好奇心が刺激され、興味が尽きない。
 歌い終わった沢村への感想は一言だけだ。
「お前、マジ最高」
 これはもう、本格的に手放してやれそうにない。

「当面の目標として、沢村はその2曲を来週の金曜までに完璧に歌えるようになること。って言ってもギターと合わせないと意味ねぇから、放課後は毎日ここに来ること。以上。質問は?」
「何で期限付き?来週の金曜って何かあるんすか?」
「それは当日のお楽しみってことで」
 怪訝な顔をする沢村に、「そんなことより」と倉持が割って入る。
「お前歌詞ちゃんと覚えて来いよ。沢村語禁止な」
「なんすか沢村語って」
「今日も前回も歌ってただろ。何だ、あれ。普通に歌ってたけど、意味あんのか?」
「意味はないっす。鼻歌みたいなもんすかね」
「お前鼻歌の意味知ってる?」
 あんな大声で思いっきり歌うののどこが鼻歌だ。

 翌日からも沢村はサボることなく毎日部室にやって来た。騙された形で、半ば無理矢理入らされた割にはきちんと参加している。
 驚くべきことにと言うべきか、沢村はこれまで音階を気にして歌ったことがないのだという。音域を確認するため一音ずつ鳴らしたピアノと同じ音の声を出すように言えば、全く違う音階の声を出した。
「次、一オクターブ高い"ド"」
「ド~」
「てめぇドって言いながら出してるの"ソ"じゃねぇか!全然違ぇ!」
 何気に絶対音感を持っている倉持には頭にくるらしい。
「え、じゃあ、ド~」
「そりゃ"ミ"だ!上げすぎだっての!」
 何故かわからないが、一音ずつだと完全に的外れな音を出すくせに、メロディになった途端に音が合う。全くもって理解不能だ。
 音楽に造詣が深いわけでもなければ、耳がいいわけでもない。絶対音感なんてもってのほかだ。
 歌うときには何も考えてないのだと沢村は言う。歌い始めたら頭から全てが飛んでしまうのだと。それは自分とはまるで正反対だった。
 沢村には理屈とか理論とか、そういった類のことは通用しない。
「あ!わかった!これだ!ド~」
「何がわかっただ!半音高いっつーの!」
「え、それ惜しくないっすか」
 漫才かよ。

 入学式の日から一週間が経ち、約束の金曜まであと3日となってもまだ、沢村は歌詞を覚えていなかった。全く覚えていないというわけではなく、それなりにメロディに乗せて歌うことはできるのだが、何故か歌詞を入れた途端に歌い方がたどたどしくなるのだ。
 リズムは狂うし、何よりあの伸びやかな声が死んでしまう。それは致命的だった。
「何でお前歌詞入れた途端に歌えなくなんの?頼むから沢村語以外で歌えないとかいうなよ」
「沢村語って言うな!や、普通に覚えてるやつは歌えるけど」
「けど?」
「これ歌詞も御幸先輩が作ったんすか」
「そうだけど、なに」
 俺が書いた歌詞は気に喰わないとでも言いたいのかと若干語尾が厳しくなる。作詞自体には然程拘りが強くないため、変えたいのだというのなら変えてやるし、自分で書くというのならそれでも構わない。それで歌が良くなるならの話だが。
 そんな風に思っていると、沢村は歌詞カードを一頻り眺めて言った。
「これ、難しい漢字多すぎて覚えらんなくて、そのうえ読むのに必死になって歌に集中できなくてですね」
 ああ、と思わず声が零れる。
「「……お前、バカだもんな」」
 一言一句違わず倉持と声が被ってしまった。
 バカって言う方がバカなんすよ!と騒ぐ沢村を倉持が「うるせぇ、バカ!」と一蹴する。
「ほら、さっさと出せ」
「え?」
「歌詞カード。振り仮名ふってやっから」
 倉持は意外と面倒見がいい。兄貴肌というか、ただ単に甘いというべきか。
 平仮名だらけになった歌詞カードを見ながら歌ってみれば、それまでとは比べようもないほど格段によくなった。一週間のうちに感じていたもどかしさや苛立ちが一気に解消される。こんなくだらないことに悩まされていたのかと思うと笑いさえ出た。
 今まで他人にこんなに振り回されたことはない。どちらかと言えば他人を自分の思うままに動かす方だった。だが、今のこの状態に心地よささえ覚えるのだから俺も重症だ。

 翌日、登校するなり俺の席までやって来た倉持は鋭い視線を向けながら、「おい」といつもより低い声を発した。さすが元ヤン。様になっている。
「お前、あいつのこと甘やかしすぎだ」
 甘やかしてるのはどっちだよと言ってやりたくなる。だが、何のことを指しているのかは心当たりがあった。
 沢村に何度も同じ曲を歌わせていると、歌い方に癖があることに気付いた。
 見かけによらず几帳面なきらいのある倉持にはそれがどうしても気になったらしく、こと細かに修正の指示を出していた。しかし感覚のみに頼って歌っている沢村には的確に把握することができないのか、思いの外修正が難しいようで、何度も同じ間違いを繰り返す。終いには何が正解なのかわからなくなって、歌に詰まり始めた。
 沢村が歌いやすい方に曲を変える。そう決めたのは歌を殺すくらいなら曲を変えた方がいいと思ったからで、沢村の歌うとおりに曲を変えても然程大きな変化はないと踏んだからだ。どうせ俺も倉持もそれくらいの修正はすぐに対応できる。無理に歌を直すよりずっと現実的だった。
 だが、倉持にはそれが癇に障ったらしい。
「別にいいだろあれくらい。それとも、なに。沢村ばっかり贔屓してずるいってか」
 そう揶揄すると、声を荒げることもなく「ふざけてんじゃねぇ」とより低い声を出した。これはかなり本気で頭にきてるな。
「お前、あいつが歌う度に曲変えていく気かよ。そんなこと繰り返してたらあいつ同じ歌しか歌えなくなるぞ」
 なるほどこれが言いたかったのかと妙に得心がいく。倉持なりに沢村を心配した結果なのだろう。だが。
「俺だって何の考えもなくただ甘やかしてるわけじゃねぇよ」
「じゃあ何だよ」
「あのまま無理に直そうとしても悪くなるばっかりだったからな。あいつには気持ちよく歌ってもらわないと意味がない。下手に我慢させてお利口な歌うたわせたってしょうがねぇだろ」
 とりわけ今は型に嵌めるわけにはいかないのだ。それを倉持に言ったらこんな風に文句言われるくらいじゃ済まないだろうけど。
「それと、同じ歌しか歌えなくなるってことに関しては心配ご無用。そんなこと言ってられねぇくらい俺が新しい歌いくらでも作ってやるよ」
 既に歌わせたいものがいくつもあるというのに、たった二曲で終わらせるわけねぇだろ。

 約束の金曜日。放課後いつもどおり三人揃った部室に、更に二人が入室した
「おーっす。言われたとおり来てやったぜ、御幸。先輩様呼び出してんだからそれなりのもん見せてくれんだろうな?」
「それはまあ、乞うご期待ということで」
 部室に入るなり絡んできた先輩は目敏く沢村を見つけた。
「あ?てめぇ誰だ?」
「はっ!一年C組沢村栄純であります!先輩方はどなた様で?」
「俺は三年の伊佐敷純。で、こっちが滝川クリス優。二人とも軽音部員だ一応な」
 軽音部の先輩部員である純さんとクリス先輩に今日部室に来るよう頼んだのは入学式の次の日のことだった。
 純さんはベーシストで、クリス先輩はドラマーだ。二人とも腕は一級品だが、音楽で飯を食っていくつもりはない、と三年に上がる前に引退宣言をしている。実際、純さんたちの一つ上の先輩が抜けてからボーカルは不在で、そう簡単に成功するほど音楽は甘くないということはわかる。先輩たちの決断が間違っているとは思わないし、無理強いするつもりもない。
「沢村、お前何の楽器だ」
「俺楽器はできないっす。できるのは歌だけ!」
「歌?ってことはお前ボーカルかよ」
 純さんは沢村から目を外すと俺と倉持を交互に見た。
「お前らが納得する声だったってわけか?おもしれえ。一気に興味が湧いた。聞いてやっから、なんか歌え!」
 そう言うと思ってました、と俺は心の中で笑った。
「沢村。いつもどおりでいい。歌えるな?」
 先輩のいる状況に緊張しているのか若干猫目になった沢村に声を掛ける。
「誰に仰っているのやら!いつもどおりどころか、いつもの倍くらいのやる気ですし!」
「いや、いつもと同じでいい。お前やる気出しすぎると失敗しそうだし」
 口ではそう言いながらも、歌が始まってしまえば周りの環境なんて全て頭から飛んでしまうことはよく知っている。そしてそのいつもどおりがとんでもない奴だってことも。

 倉持に合図を送り、ギター演奏が始まる。先に演奏したのは沢村用に作った方の曲だ。
 あまり目立たない単調なギターに先輩が少し意外そうな顔をする。だが、驚くのはこれからだ。
 沢村の声がギターとキーボードに乗る。歌い出しのほんの一瞬。それだけで掴みはバッチリだ。
 純さんが顔を引き締める。無意識なのだろうが、微かに手が動いている。沢村の声にベーシストとしてのプライドが触発されているのだろう。
 クリス先輩は姿勢を正したままだったが、めずらしく口元に笑みが浮かんでいる。
 
 確かな手応えを感じながら演奏を終えた。歌い終わって正気に戻ったらしい沢村が感想を求める。
「……悪かねぇな」 
 ぶっきらぼうな物言いだが、これは純さんの最大限の褒め言葉として受け取っていいだろう。
「こいつ他に歌える曲あんのか?」
「ギター速弾きから始まるやつなら歌えますよ」
 正に想定通りに問われた言葉に口元が緩む。
「予備のベースあんだろ?」
「弾いてくれるんすか?」
 チッと舌打ちされる。さすがにわざとらしかったか。
「最初からそのつもりで呼んだんだろうが。まあこっちも中途半端な奴なら弾く気なかったけどな。さすがにアレは予想してなかった。くそ、これならベース持って来るんだったな。つーかクリスお前も準備しろよ」
 純さんの言葉にクリス先輩が腰を上げる。ベースとドラムが入った音は沢村は未経験だ。しかもこの二人の音。思わず胸が弾む。
「これ今どういう状況っすか」
 状況がまったく掴めていない沢村が首を傾げる。
「お前のために先輩二人が演奏してくれるって言ってんの」
 音の確認のため、先輩たちが軽く音を鳴らす。ベースとドラムの身体の芯に響く音。体験したことのない音に戸惑う沢村に声を掛けたのは倉持だった。
「俺と御幸はいつもと同じ音で弾いてる。それを忘れんな。それさえ覚えてれば大丈夫だ。あとは余裕があれば先輩の音聞け。あの二人の音はすげぇぞ」
 ごくり、と沢村の喉が鳴る。緊張と興奮が混ざった顔だ。悪くない。
 準備を終えた先輩に譜面を渡す。
「幾つか変更した箇所あるんですけど、確認要ります?」
「こんくらいなら要らねえよ。だろ、クリス」
「ああ、必要ない」
「ですよね。……じゃ、いっちょやりますか」
 
 ギターの速弾きにベースとドラムの音が重なる。二人の演奏を聴くのは久しぶりだが、少しも腕が落ちていない。引退だと言っていても、部室に顔を出していなくても、楽器にさわることは止めていないのだろう。
 一番前に立ちながら、演奏者を見る沢村の目はキラキラと輝いている。戸惑いなど何処かへ消えてしまったようで、その顔には興奮しか残っていない。
 ギターの速弾きが終わり、こっちを向いたまま歌い始めた沢村の声は、驚くべきことに今までで最もよく伸びた。まるで音が増えるごとにその音を巻き込んでいくかのようだ。
 やはりバンドだろうとその声は埋もれない。むしろより鮮明になっている気さえする。
 サビに入れば沢村の声は更に勢いを増した。練習ではここまで曲の中に入り込んではいなかった。おそらく、俺と倉持だけでは沢村の声に引っ張られていただろう。純さんとクリス先輩の音が安定しているおかげでなんとかペースを保っていられた。
 沢村はバンドの中でこそ活きる。そう確信した瞬間だった。
 
 歌い終わった沢村は暫し放心状態となった。自分の歌を取り巻く音の全てが余程気持ちよかったのだろう。
「さーわむら」
「…………」
 心ここにあらずといった様子の沢村の目の前に一枚の紙を出す。
「これ、なーんだ」
 虚ろだった目がゆっくりとその紙を捕える。文字が目に入った瞬間大きく見開いた。
「なっ?!それ!入部届?!」
「正解」
「あんた顧問に出したって言ってやしたよね?!」
「あれはウソ」
「はい?!」
「そんな騙して入部させたって意味ないじゃん」
「どの口が言いやがりますか!」
 無理矢理では意味がないというのは本心だ。この先のことを長い目で見るなら、沢村が自分で選んだということが重要になる。
「それで?野球部に入りたかった沢村君は何部に入るか決めたのかな」
 沢村は俺の手から入部届を奪い取ると、そのまま目の前に叩きつけた。
「一年C組沢村栄純!ボーカル志望っす!」
 あれほど気持ちよく歌った後で選べる選択肢など沢村には一つしかないのだ。想像どおりの展開に一人ほくそ笑む。
 だから逃がさないって言っただろ。