「あんたを受け入れてくれる学校があって本当によかった。大学浪人ならまだしも高校浪人なんてうちの周りじゃ聞いたことないし、ましてやあんたが社会人になるなんて無謀もいいとこだし、お母さん本当に心配してたのよ」

 進学先が決定してからというもの、幾度となく繰り返されてきた言葉に内心で溜息をひとつ落とす。ここで口を挟んだら今度は「だいたいあんたが日ごろから真面目に勉強していないから」と長いお説教タイムが始まってしまうため、我慢あるのみと無心に帰るべく目を閉じた。

 三月下旬の長野は寒い。暦の上ではもう春だというのに、通り抜ける風はまだツンとした痛みを伴う冷たさを残している。
 この時期、天気予報と一緒に放送される桜予報では桜前線はまだ九州南部にいるらしい。長野の山間に位置するこの町では桜が咲くまでにはあと数週間はかかるだろう。
 15歳、春。本来ならば中学三年間を共に過ごした仲間たちとともに、地元の高校に入学する予定だった。
 過疎化に加え少子高齢化の進むこの町では子どもの数は減少の一途を辿り、中学は卒業と同時に廃校になることが決まった。高校も選べるほどの数はない。家から通える範囲の高校といえば三好高校の一択で、そこですら山をひとつ越えなければならなかったが、他に選択肢がないのだからやむを得ない。
 しかし、そこで偏差値という名のとてつもなく大きな壁にぶち当たることとなる。
 部活を引退した夏からやっと勉強を始めたものの、受験シーズンまでには全くもって間に合わなかった。小学生の算数レベルで止まった頭には半年という期間は短すぎたのだ。自慢じゃないが、試験問題で何を問われているのかすら理解できなかった。そりゃ受かるはずがない。「せめてマークシート方式だったなら!」とぼやいてみたら周りにいた全員に「いや、一緒だから」と否定された。何も声を揃えなくても。
 しかし世の中、捨てる高校があれば拾う高校があるのだ。とはいえ、家から通える範囲にはない。たった一つだけあった高校に落ちたのだから当然だ。やむなく生まれ育った町を出て、おれは東京へと行くことになった。なんでも、昔親父が上京した際に世話になった下宿先が面倒みてくれるらしい。世の中捨てたものではない。

「栄ちゃん、東京行っても元気でね!」
「ああ、盆とか正月には帰って来るから、そん時はまた遊ぼうぜ!」
 中学でともに過ごした同級生たちに見送られながら、電車に乗り込む。
「栄純、あんた東京ではちゃんと勉強しなよ!」
 幼馴染の若菜の言葉に周りの奴らが笑った。くそ、バカにしやがって。
「うるせぇな、わかってるよ」
「なーんて、ガリガリ勉強してる栄純なんて想像できないけど。でも、栄純の歌が聞けなくなるのはちょと寂しいな」
「だよね、俺もいつも栄ちゃんの歌聞いてたから、これから暫く聞けないと思うとすげぇ変な感じする」
 俺も、俺もと繰り返される声に覆い被さるように発車を知らせる笛の音が鳴り響いた。
「じゃあ、行ってくるな」
 行ってらっしゃい、という声に笑顔で手を振る。姿が見えなくなるまで一頻り手を振って、がらんとした車内のドアにほど近い席に腰を下ろした。
 
「……行っちゃったね」
「うん。栄ちゃんっていつも俺たちの中心にいたから、明日からいないってことが信じられないな」
「でもさ、栄ちゃん歌すげぇ上手いし、東京行ったらスカウトとかされちゃったりしてな」
「それありうる!そしたらサインもらわなきゃな!」




 苛立ちに任せて自販機横に設置された空き缶用ゴミ箱を蹴飛ばすと、思いの外大きな音を立てた。周囲の人々が驚いたように目を向けたかと思えば、すぐに迷惑そうな顔つきに変わる。だがそれに気を配れるほどの余裕はない。一蹴りではまったくもって苛立ちが収まらない。せめてもう一発、と思ったが背後からかけられた声に動きを止めた。
「物に当たるなよ」
「うるせぇな。つーか、お前は腹たたねぇのかよ」
 目線だけを背後に立つ男、御幸一也に向けるといつもどおりの飄々とした表情を崩さないままに「何で?」と首を傾げた。
「色々言われたけど、全部本当のことだろ。腹立てるようなことじゃねぇよ」
「俺らの演奏とか歌のことは別にいい。言われ慣れてる。けど、その後が気にくわねぇんだよ!」

『君たちの曲は幾つか聞かせて貰ったよ。御幸君のつくる曲はいいね。倉持君のギターは粗削りだが、しかしセンスはなかなかいいものを持ってる。だが、肝心の歌がなあ。決して下手なわけではないが、何と言うか、普通なんだよね。何も残らないっていうかさ。他が良いだけに非常に勿体ない。そこでまあ、これは提案なんだけど、僕の知っている子をボーカルとして君たちのバンドに入れる気はないかい?君たちと同年代の女の子なんだがね、まあ、とびきり歌が上手いというわけではないが、バンドの中に女の子が一人入ると華やかになるし、曲の幅も広がるだろう。悪い話ではないと思うが、どうかな』

「……って、何が悪い話じゃねぇんだよ!悪いに決まってんだろ!」
 胡散臭いおっさんのしたり顔が脳裏に浮かぶ。それだけで胃の底がむかむかと熱くなる。
「つーか、あの女はねぇだろ!」
 おっさんが紹介したいと連れて来た女は確かに俺たちと同年代の女子で、会った途端にやたらと愛想を振りまいてきた。どうやったら自分が可愛く見えるのかを研究してきたような上目遣い。見るからにバンド向きではない。完全にアイドル路線じゃねぇか。俺たちの曲を聞いてそんな女を宛がうってどんな神経してんだよ。本当に音楽のことわかってんのか。
「どうせあの女、おっさんに身体売ってんだろ」
 悪態を吐いたところで、御幸が「どうどう」と諌める。俺は馬じゃねぇっての。
「倉持の怒りもわからなくはないけどな。でも俺たちに歌が足りてないのは確かだし。音楽で食っていこうと思うなら多少の妥協は必要かもな」
「まさかお前あの女が入るのに賛成だってのか?!」
「そうは言ってないだろ。っていうか、あの子もバンドに入りたいわけじゃないと思うぜ?売れるための手段のひとつと考えてはいるかもしれなけどな。俺が言いたいのは、それなりに歌えるなら、他から宛がわれた奴を受け入れてやっていく柔軟性も必要なんじゃねぇかってこと」
 御幸の言葉に拳を強く握り締めた。御幸の言っていることはわかる。だが、そう簡単に受け入れられるとは到底思えなかった。

 御幸とバンドを組んだのは今から約一年前になる。高校入学と同時に足を運んだ軽音楽部に奴はいた。第一印象はお世辞にも良かったとは言えないが、恐らくそれはお互い様だろう。
「御幸一也です。一番興味があるのは曲作りですけど、ギターとキーボードはある程度弾けます。あ、あとこの部には必要ないでしょうけどヴァイオリンもそれなりに」
 高校一年生にしてそんなことをさらっと言ってのける新入部員を上級生はさぞかし生意気な野郎だと思ったことだろう。同級生である俺ですら思った。それに比べりゃ「ギターの速弾きなら先輩方にも負けねぇっす」と言った俺は随分と可愛いもんだ。
 しかし御幸は口だけではなかった。楽器に関しては本人が言ったとおりそれなりに弾ける程度で、特別上手いというわけでもなかったが、御幸の作る曲は図抜けていた。初めて聞いた時には鳥肌が立った程だ。本人には絶対言わねぇけど。
 この性格の悪い男からどうしたらあんな曲ができるのか俺にはさっぱりわからないが、とにかく曲は、曲だけはすごいのだ。人間性はどうかと思うが、音楽の才能だけは認めているからこそ、簡単に他の人間を受け入れることはできないし、他から宛がわれた奴を入れることによって俺たちの音楽を崩されるのは到底許せそうにない。
 とはいえ、肝心要のボーカルがいないのは事実だ。俺も御幸も歌えないわけではないが、特別なものはない。音痴ではないが、上手くもない。正に言われたとおり普通でしかない。
 バンドなんてものはギターがどれだけ上手かろうと、曲がどれだけ良かろうと、最終的にはボーカルの良し悪しで全てが決まる。バンドの顔はボーカルなのだ。

「あーどっかにいいボーカル落ちてねぇかな」
 投げやりにもそんなことを呟くと、御幸は「ははっ」と笑った。
「んじゃ落ちてるボーカル探しにでも行くとしますかね」 



 学校が春休みに入ってからというもの、俺たちはほぼ毎日ギター片手に路上ライブを行っている。流行りの曲を何曲か演奏し、最後に二曲ほどオリジナル曲をやる。
 観客はゼロではないが多くもない。俺たちのところで足を止めるのはその大半が女子中高生で、その目的は音楽ではなく御幸の面にあるのは一目瞭然だ。どうやらこの男は世間一般で言うところのイケメンに当たるらしかった。
 歌が終わった途端に駆け寄り、毒にも薬にもならねぇような感想を述べる女たちに愛想笑いを浮かべる御幸の目は一切笑っていない。いつものことだが、こんな外面だけの男によくキャーキャーと騒げるもんだと思う。
 呆れを伴った溜息を小さく吐いたとき、御幸に群がる女たちの脇に、珍しくも男の観客がいることに気付いた。目の前に押し寄せてきた女たちに驚いたように後退り、それを避けるように俺の前に来る。そいつは俺と目が合うと、にかっと笑った。
「お兄さん、めっちゃギター上手いっすね」
「俺のギターを褒めるとはなかなか見どころのある奴だな」
「ほんと速弾きのとこなんて思わず鳥肌立っちまったもん。俺の親父、昔本格的にギターやってたとか言って家でよく弾いてたけど、お兄さんの方が断然上手いっす」
 あまりにも真っ直ぐな物言いに少したじろぎながらも、褒められて悪い気はしない。
「お前もギターとかやってんのか?」
「いやー俺音楽は好きだけど楽器は苦手なんすよね。親父のギター勝手に弾こうとして壊してから触らして貰えなくなっちまったし。リコーダーもまともに吹けたことなかったしなー」
「リコーダーとギター一緒にしてんじゃねぇよ」
 変な奴だな、と改めてそいつを見れば、年は俺たちより少し下に見える。トレーナーにジーンズでアクセサリーの類は全く身につけていない簡素な恰好に似合わぬ一週間ほど旅行にでも行くのかという大荷物。
「なんだお前そんな荷物持って。まさか家出少年ってわけじゃねぇよな」
「ちげーっすよ!こっちの高校に通うことになったんで上京してきただけ!」
「ってことはお前俺等のいっこ下か。もっと下かと思った」
「なんだと!」
「んな怒るなって。俺様のギターを特等席で聴かせてやっからよ」
 そう言って御幸に合図も送らず勝手にギターを鳴らし始める。5秒も経たないうちに御幸の音が重なる。
 始めたのはオリジナル曲のひとつで、数ある曲の中でも高度なギターテクニックを要する曲だ。作曲者の性格の悪さが滲み出ているような、初っ端から指を酷使するコード進行。
 さっきまで怒ってた男の瞳がきらきらと輝き出す。わかりやすい奴だなと思わず笑いそうになる。
 俺の速弾きに鳥肌が立ったとか言ってたが、前の演奏が俺の限界だと思われちゃたまんねぇな。あんなのこっちに比べりゃ速弾きとも言えねぇよ。
 勢いを増す音に歩いていた奴らが少しずつ足を止める。自分の奏でる音に吸い寄せられるように他人が集まるってのはやはり気分がいい。今はまだ通行人がまばらに足を止めるくらいでしかないが、いつか何千何万の人間を躍らせてみてぇ。
 速弾きが終わると、歌が始まる。俺たちはどちらがどのパートを歌うか特に決めてはいない。互いにボーカルがいない間繋ぎで歌っているにすぎないと考えているからだ。しかし速弾きやギターのソロパートの後は御幸が歌うというのが暗黙の了解であったため、今回もいつも通り御幸が歌い、サビだけ二人で歌う。
 立ち止まった観客はそのまま聞いてくれているが、新たに足を止めてくれる人は殆どいない。自分で言うのもどうかと思うが、やはり勿体無い。ボーカルさえいれば、もっと上に行けるのに。
 間奏が終わり、再び歌が始まったとき、聴き慣れない歌声が響いた。その声に思わず目を見開き、御幸を見れば演奏はそのままに歌うのを止めている。声の主は御幸ではない。当たり前だ。こんな声一度だって聞いたことがない。
 声の方に目をやれば、さっきまで瞳を輝かせていた男が気持ちよさそうに歌っている。
 なんだこいつ。話声とはまるで違う。ガキっぽい見た目とは到底釣り合わない透き通った声音。大声とを出しているというわけでもないのに妙に響く。
 歌詞は当然めちゃくちゃだった。初めて聴く曲の歌詞を知っている筈もなければ、一度だけ聞いた一番の歌詞を覚えている筈もない。英語なのか別の国の言葉なのか、それとも言語ですらないのかよくわからなかったが、響き渡る伸びやかな声になんだかそれが正解のようにすら思えてくる。
 ギターを握る手に思わず力が入る。こんな、人間の喉から出てくる音にギターが引きずられそうになるなんて初めての体験だ。生来の負けん気が途中で演奏を止めることを良しとしない。競うように音を奏でる。
 漸く最後まで弾ききったとき、自分が息切れしていることに気付いた。一曲で、しかも何度も弾いている曲なのに、こんなに体力を消費したのは初めてだった。
 一瞬の静けさの後、拍手が巻き起こる。見れば、自分たちの前に人だかりができている。
 歌っていた男はそこでやっと自分が歌っていたことに気付いたらしい。
 呆気に取られている俺とは違い、御幸の行動は早かった。ギターを持ったまま男の前に行くとその手首を掴む。男は勝手に演奏に参加したことを怒られると思ったのか「すんません!」と勢いよく頭を下げた。
「いや、あの、俺歌うの好きでしてね!お兄さん達の演奏がすげぇ上手かったのに釣られてですね、思わず歌っちゃったといいますか!いやいやこんなの俺も初めてっすよ。初めて聴く曲だってのに引き込まれちゃったとでもいいましょうかね?!いやーお兄さん達ほんとすげーっすよ!というわけで、すんませんっした!」
 捲し立てるようにそう言って踵を返した男の腕を御幸は離さない。
「……逃がすかよ」
 いつもの飄々としたものとは違う御幸の本気の声に、俺も漸く我に返る。御幸の考えていることは俺と同じだ。今までずっと待ち望んでいたものを目の前にぶら下げられて見逃してやれるわけがない。こんな奇蹟もう二度と起こらないかもしれない。逃がしてなるものか。
「お前、名前は?」
 訊けば、ギギギギと効果音を立てそうな動きで首をこちらに向ける。
「あのですね、先程は大変失礼なことをしたと反省しております故、見逃してはいただけませんでしょうか。せっかく拾ってくれた神に見捨てられたら今度こそ拾ってくれる神がいないといいますか、ぶっちゃけ高校行けなくなったらすんげー困るんで!」
「何言ってんのかよくわかんねぇけど、こんなことで高校行けなくなったりしねぇから安心しろ」
「まじっすか!」
「んで、名前は?」
 男が口を開きかけた時、着信音が鳴り響いた。男がわたわたと携帯を取り出し、困ったように御幸に捕まれた腕を見る。仕方ないと言わんばかりに御幸が腕を離すと、男は通話ボタンを押した。
「もしもし!……はい!あ、お世話になりやす!え?あ、いやいや迷子になってるわけではなくて!ちょっと寄り道してたと言いますか、今からすぐ行きますんで!」
 はい、すんません!と電話だというのに勢いよく頭を下げた男は通話を終えた瞬間荷物を担ぎ直し、「すんません、お兄さん方!俺急いでるんで!今日はほんとすんませんっしたー!」と言い終わる前に走り去る。
「あっ!おい!てめぇ逃げてんじゃねぇ!」
 追いかけようとすればその行く手を御幸ファンの女子高生たちに阻まれた。
「ちょっとごめん、今は勘弁して」
 珍しくも慌てた様子の御幸だが、こちらの事情を女たちが知る由もない。関係ないとばかりに絡まれる御幸は俺に視線を寄越す。
 言われるまでもない、とギターを下ろした。
 俺の足の速さ舐めんなよ。ぜってぇ捕まえてやる。





 満開の桜のトンネルを抜けて学校に着くと、掲示されたクラス割の前に人だかりができていた。皆が全員の名前を目で追う中、自分の名前だけ確認して足早にそこを去る。
 2-Bの教室に着くと、腐れ縁になりつつある男が窓から外を眺めていた。その背後から声を掛ける。
「倉持く~ん、また同じクラスだなんて嬉しいわ」
 予想通りの顔をこちらに向けると、倉持は一言「きめぇ」と吐き出した。
「で、ずっと窓の外眺めてたみたいだが、想い人は見つかったか」
「マジお前うぜぇ」
 想像どおりの反応だったが、やはりダメか、と内心で一つ溜息を落とす。
 ここのところ倉持は機嫌が悪い。その理由は嫌というほどによくわかっている。

 あの日、路上ライブ中に突如として現れた、ずっと探していた、いや、探していた以上の声の持ち主。名前も聞かないままに逃げられ、結局捕まえることができなかった。
 倉持の足ならすぐに捕まえられるだろう、とたかを括っていたのがいけなかった。なかなか戻って来ない上に電話しても出ないし、ギターがあるから動くわけにもいかないしで待ちぼうけていたところに倉持が戻って来たのは一時間ほど経ってからだった。
 満身創痍の状態で戻って来た倉持は、戻って来るなり体育座りで頭を脚の間に埋めた。いつもならそんな珍しい状態を写メって後でからかうくらいはするだろうが、如何せんその時はそれどころではなかった。
「あいつは?捕まえたのか?連絡先くらいは聞いたんだろ?」
「……だめだった」
「は?お前の足で追いつかないとかどんだけ足速いんだよあいつ」
「足の速さじゃねえ……」
「じゃあ何だよ」
 その後の倉持の話を要約すればこうだ。
 追いかけ始めた時には既に人ごみに紛れつつあったその影をなんとか見つけ、持ち前の俊足で追いかけたまでは良かったが、追いつくと思った瞬間に目の前を横切っていた老婆に接触しそうになり、ぶつかりはしなかったものの驚いて転倒した相手を支え起こしたところ、またも間が開き、更に追いかけて捕まえようとしたところ、ボールを追いかけて飛び出してきた子どもが車にひかれそうになったため助けていたら見失った、と。
 漫画かよ。
 感想はそれに尽きる。
 転倒させてしまった老婆はさて置き、子どもを助けたのは表彰ものの話ではあったが、あの時あの瞬間に関して言えば俺にとっても倉持にとっても「今それどころじゃねぇんだよ!」である。
 驚いたのと恐怖とでぼろぼろ泣いている子どもに対して「こんな時に飛び出してんじゃねぇ!」と怒鳴り散らしたというのだから、せっかく助けた子どもの英雄にはなり損ねたことだろう。こんな時なんて子どもの知ったことではない。その時の鬼の形相が子どものトラウマになったのは想像に容易い。まあ、それで今後飛び出し注意するならいいか。
 しかしこっちの問題は何も解決していない。一度見失った人間を再度見つけるなんて至難の業だ。手がかりは上京してきた高校一年生。これだけだ。名前もわからなければ、どこの高校かもわからない。今年高校生になる男子なんてこの東京にどれだけいると思ってんだ。
 あの後も毎日同じ時間に俺達はあの場所に立った。もう一度来てくれるのではないかと期待して。だが結果は惨敗だ。結局春休みが終わるまでただの一度もあいつは現れなかった。
 やはりあの時群がる女たちを放って追いかけるべきだったと今更ながらに後悔する。あれでファンが何人か減ったとしても、その代わりにあいつを掴まえられていたならその方が何倍もいい。
 いや、それよりも一度は掴んだあの手を離さずにいればよかった。電話だから、と気を利かせたのが間違いだった。そのせいでまんまと逃げられた。
 ははっと自嘲気味に笑いが出る。
 あの出逢いだけで俺は曲が何曲も書けそうだっての。

 あの時、あの歌声が響いた瞬間の気持ちを、俺はどう言葉にしていいかわからない。感動なんて安っぽい言葉じゃ到底収まらない。全神経が歓喜に震えるような感覚。大袈裟と笑い飛ばされようとも、それが真実だ。
 中学を卒業したばかりだという、まだ成長の過程にある幼さが目立つ顔立ちからは想像もつかない歌声だった。一瞬でその場の空気が澄み渡るかのような錯覚さえ覚えた。よく通り、よく伸びる声。
 きっとあれはあいつの全てではない。あの声はあれで完成してはいない。あんなにも人を虜にする声だというのに、まだまだ成長過程にあるということが末恐ろしくさえ思える。
 
 あいつに俺の作った曲を歌わせたい。
 軽音部ではえげつないとすら言われている曲は、実のところ俺達が演奏し歌える程度に編曲したものだ。原曲はとてもじゃないが俺にも倉持にも歌えない。
 だが、あいつなら歌えるのではないか。本来の曲のままに歌ってくれるのではないか。
 そんな押しつけにも似た期待が湧き上がる。
 あいつに会うまでは、それなりに歌える奴ならメンバーに入れてもいいとすら思っていたというのに、一度あの声を聴いてしまったらもうダメだった。あいつ以外のボーカルなんて受け入れられそうにない。
 あの日から頭の中に浮かぶメロディーに嘆息せずにはいられない。どれもこれも、とんだラブソングだ。しかも片想いの詞が似合いそうな。
 今まで女の子にだってこんな夢中になってことないってのに、どうしてくれんだ。
 いっそのこと高校一つずつ回るかとすら考えるが、名前すら知らないという現実に直面する。せめて名前だけでもわかれば虱潰し作戦でもなんとかなる可能性はあっただろうに。
 はあ、と口からついて出た溜息は見事なほど倉持と重なった。考えることは同じである。

 頬杖をつきながら窓から桜吹雪を見下ろしていると、続々と新入生が登校してくる。真新しい制服と緊張した面持ちに初々しいねぇなんておっさん染みたことを考える。
 俺達と同じように新入生を見ている上級生は多く、その殆どが可愛い子はいないかと探している。去年自分が新入生だった時には窓から覗く多くの目に辟易した気がするが、立場が違えば考えも変わるものである。
 とはいえ、今目の前に現れて欲しいのは可愛い女の子ではない。今年の新入生はハズレでもいいからあいつをここに入学させてくんねぇかな。周りの男どもに殴られそうだけど。
 そんなことを考えていると、桜並木の中を歩く一人に目が留まる。桜の影で顔はよく見えないが、見覚えのあるような。
 その人物が桜並木を抜けた瞬間、俺は「倉持!」と叫んだ。周りが何事かとこちらに目を向ける。倉持はと言えば、俺が叫ぶとほぼ同時に駆け出していた。
 さすが、と俺は笑う。
 
 倉持の足ならあそこまであと30秒もかからないだろう。
 一度は逃がしたが、二度目はない。
 もう絶対逃がしてやんねぇよ。
 
 無理矢理引き摺って来られるだろう姿を想像しながら、俺は軽音部へと向かうべく立ち上がった。
 さあ、楽しい高校生活の始まりだ。