「御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと誓約する」
 片膝をつき、頭を垂れ、何度も繰り返した言葉を吐く。しかし、目の前には誰もいない。宙に浮いた言葉は行く当てもなく消えていった。
 この世に孵ってから15年、未だ誓約する相手は見つかっていない。


 01 蓬山 


 その世界には12の国があった。12の国に囲まれた世界の中心には、天高く聳える五つの山々が連なっている。そのうちの一つを蓬山といった。
 五つの山はどれも天を衝くほどの高さがあり、雲よりも遥か高い山の頂上を目にしたものは未だいないと言われている。
 蓬山の中腹には然程大きくはない宮殿がある。五山の中で人が住むのはこの宮殿のみだとされているが、それを確認した者はいない。 
 宮殿に囲まれた中庭には奇形な形をした一本の樹がある。幹は太く、枝も広く広がっているが、その背は人の背丈を少し上回るくらいの低い樹であった。
 エレンはこの樹から生まれた。この世界では人は里木と呼ばれる木にできた卵から孵る。里木は世界の至るところに存在し、子どもを欲する夫婦は「元気な子どもを授かりますように」と願いを込めて里木の枝に紐を結ぶ。その願いが天に届けば紐を結んだ枝の先に卵ができ、十月十日を経た後に赤子が孵るのだ。
 心からの願いを込めて紐を結んだ夫婦には殆どの場合卵ができるが、それでも上手く授からない場合も確かに存在する。こればかりは天命に委ねる他ない。その代わり、心の底から子を授かりたいと願わなければ、卵が孵ることはなかった。このため、親から望まれずに孵る子はいない。
 しかし、エレンには自分が生まれることを望んで紐を結んでくれた親はいない。この世界にたった一本しかないエレンを生んだ樹は、見た目は里木ととても似通っているが、人の生る樹ではない。麒麟を生む樹だった。

 麒麟とは、国と同じ数だけ存在する特別な生き物だ。各国に一匹ずつ存在し、麒麟が存在している間はその国に別の麒麟が生まれることはない。
 麒麟が死ぬと、蓬山にある樹に次の麒麟の卵ができる。死後すぐに卵ができたこともあれば、数年の間卵が一切できなかったこともある。これもまた、天命任せであった。
 エレンの卵は前の麒麟が亡くなってからも暫くは樹にならなかった。国民も、蓬山に住む者も次の卵が生るのを今か今かと待ち侘びた。それでも一向に生る気配のないまま、一年が経ち、二年が経ち、人々は少しずつ不安を抱くようになった。
 このまま麒麟が生まれなければ、国はどうなってしまうのだろう。
 麒麟には、天から授けられた一つの大きな役目があった。即ち、王を選定すること。麒麟の存在意義はこれ一つにあると言っても過言ではない。
 
 12ある国のすべてが、麒麟によって選ばれた王によって統治されている。例外は一つもない。
 王に育ちや血統は一切関係ない。ただ麒麟に選ばれた、それだけが王の王たる証となる。これまでには、政などには一切関わりを持ったことのない町娘や、10を少し過ぎたばかりの子どもがある日突然王として君臨することとなったという例すらあった。
 政に一切関知していなくても、人民の暮らしにまるで興味がなくても、麒麟が選んだのであればその者は玉座に座る。政に通じ、人民を率いる統率力のある者が王になるのがより好ましいことではあったが、たとえ何もしない王であろうとも、不在となるよりはずっといい。
 王の不在、それは即ち国の荒廃に直結する。
 王がいない国には異常気象が起こる。作物は育たず、土地は痩せ細り、食糧を巡った争いが発生する。その上、どこから発生するのか、人の形をしているがその本質は人と全く異なる巨人が現れ、人を喰らうのだという。
 巨人に対抗する力を、人は持たない。だが、王が玉座に就けば巨人の存在は消え、異常気象に苛まれることもなくなる。このため国民にとって王の資質は二の次だ。現に、王という存在と政を切り離している国も存在した。
 
 エレンの卵ができ、そして孵るまでには実に5年の歳月を要した。その間に荒廃した土地が広がり、人々は巨人の脅威にさらされることとなった。人は巨人から身を守るために壁を築き、壁の中でのみ生活するようになった。直接巨人に命を脅かされる危険は減ったが、荒廃した土地に作物は上手く育たず、人々は疲弊しきっていた。
 麒麟が孵っても、王を選ぶまでにはある程度成長する必要がある。最低でも10年はかかるだろうと言われていた。それでも、麒麟の、エレンの卵が樹に生った時、人々は歓喜の声を上げた。紐を結んでくれる親はいなくても、エレンは、国が、人々が、心の底から待ち望んだ存在だった。

「エレン」
 後ろからかけられた声に、エレンは振り返る。
「ミカサ」
 そこには一人の少女が立っている。見た目こそエレンと同じ年頃の少女の姿をしているが、ミカサと呼ばれた女は人でも、ましてや麒麟でもない。麒麟の傍に寄り添い、一切の危害が麒麟に及ばぬよう身を挺して守る女怪である。麒麟が王を選ぶために生まれるのなら、女怪は麒麟を守るために生まれる。
 ミカサはただ一人、エレンのために生まれた。
「少し冷えてきた。宮殿に戻ろう」
 そう言いながら、柔らかい上質な生地の布をエレンの肩にかける。
「いいよ、もうそんな冷える時期でもないし」
 肩にかけられた布を取ろうとすると、ミカサに止められる。
「そんなこと言って、エレンはすぐ体調崩す」
 女怪は総じて自分の麒麟を何より大事に思っている生き物ではあるが、その中でもミカサは他の女怪に比べて異常なほど過保護であった。

「夏至が近いな」
 傾いてきた陽を眺めながら、エレンが言う。ミカサはエレンの手を握り、宮殿の方へと歩き出した。
「焦らなくていい。エレンが急ぐ必要はない」
 ミカサの言葉に、エレンは「うん」と頷いたが、迫りくる焦燥感をどうしてよいかわからなかった。



02 王と麒麟

 
 夏至を過ぎると、蓬山の麓にある門が解放される。この門が開くのは年に一度、夏至を過ぎた頃から夏が終わるまでの間のみである。
 門が開くと人々が宮殿を目指して蓬山を登ってくる。人の数は毎年異なるが、ここ数年は減る一方だった。更に言えば、門を抜けた者がすべて宮殿に辿り着くわけでもない。蓬山の道は険しく、道中には恐ろしい魔物も出る。途中で引き返す者もいれば、途中で命を落とす者も少なくない。
 それでも人が宮殿へと向かうのは、麒麟による選定を受けるためである。自身が王となる資質を有しているかどうかを麒麟に判断させるため、蓬山を登る。これを昇山という。
 エレンが10歳となった頃から、毎年何人もの大人が昇山してきた。命からがらにやっとの思いで宮殿に辿り着いた者もいれば、余裕の面持ちで辿り着いた者もいた。しかしそのうちの誰一人としてエレンが特別に何かを感じた者はいない。

 エレンには8歳の頃まで共に蓬山で暮らした麒麟がいた。名をクリスタという。金色の髪が美しい、小柄な雌の麒麟だ。
 エレンは他の麒麟に会ったことがないため、麒麟がどういった存在なのかということは殆どクリスタから教わった。
 麒麟は成獣になると外見の成長が止まる。成獣となる年齢は決まっておらず、10歳ほどの外見のままの麒麟もいれば、20歳ほどの外見の麒麟もいる。クリスタの外見は15歳くらいだったが、エレンの物心がついた頃からクリスタの外見は変わっていなかった。外見こそ今では同じ歳くらいに見えるが、エレンより何歳も年上であり、エレンはクリスタが蓬山を下りるまでずっと姉のように慕っていた。
 エレンが8歳の頃、クリスタは昇山した物の中から王を選び、そして蓬山を下りた。エレンはその一部始終を見ていたが、クリスタがどうやって王を選んだのかはわからなかった。クリスタが選んだ王はユミルという名前の女であったが、王となった者を見ても、特別な何かを感じることはなかった。

「クリスタは、どうしてあの人を王に選んだんだ?」
 エレンが訊くと、クリスタは嬉しそうに笑って言った。
「彼女が王になるべき人だからよ。王になる人には王気があって、麒麟にはそれがわかるの」
「おれには、あの人と他の人との違いがわからないけど」
「だってそれは、彼女は私の王であって、エレンの王ではないもの。エレンもあなたのたった一人の王が現れたら、すぐにわかるわ」
 クリスタはそう言ったが、エレンにはまだよくわからない。ちなみに、クリスタに選ばれたユミルという女のことがエレンは少しだけ嫌いだった。それが姉のように慕っていたクリスタを連れて行かれたことへの嫉妬心から来ていることは、おそらくユミルにもばれていただろう。
 クリスタが蓬山を下りて、何故かミカサは嬉しそうだったが。

 クリスタの言う王気を、エレンは未だ理解できないでいる。エレンを目指して昇山してきた者は何人もいたが、誰を王にしてよいかわからなかった。この人ではダメだと思うわけではないが、この人でなければならないとも思わない。唯一絶対ではないから、すべての人にごめんなさいと告げてきた。
 昇山する者は、少なからず自分は王に相応しいと思って登ってくる。更に、王になるべき資質を持つ者は天の恩恵を受けることにより、途中で命を落とすことなく宮殿に辿り着くと言われているため、エレンのもとに辿り着いた者は総じて大きな期待を胸に秘めていた。それがあっけなく崩されるのだから、ショックは大きい。
 多くの者は目に見えて項垂れるため、申し訳ないな、と思うのだが、だからといって王にするわけにもいかない。
 期待を裏切られた人の顔ばかりを見なければならないから、エレンはこの時期が苦手だった。ミカサは「エレンが傷つく必要はない。王気がないのに勘違いして昇山してくる方が悪い」と止めを刺すようなことを軽く言ってのけるのだけど。
 同じ者に二度目の昇山は許されていないため、昇山してくる者の数はかなり減った。今年は一体、何人が昇山し、そのうち何名が辿り着くのだろう。
 今年こそ、誰かを選べたらいいなと思う。エレンが孵ってから早15年。卵が生る前の5年も合わせれば20年もの間、国は王が不在の状態が続いている。



03 昇山

 
 夏至の翌日、蓬山の麓の門が解放された。解放される前日に門の前まで辿り着いていた者たちは一斉に昇山し始める。
 今回昇山するのは、10人程度の一団が二つの計20人程だ。年々昇山する者の数は減っている。二度目の昇山が許されていないというのも理由のひとつではあったが、それだけならここまで減ることはなかっただろう。最大の要因は、壁の外に現れる巨人にある。
 国に巨人が出現するようになり、人々は強大な壁を築いた。その壁の中にいれば、平穏な暮らしができるとは言わないまでも、巨人に襲われるという心配はなくなる。だが、昇山するためには危険を冒し壁の外に出なければならない。昇山するより前に巨人に食われて死ぬ。そんな危険を冒してまで、王に選ばれるという保証もないまま壁の外に出ようという気概のある者は殆どいない。
 昔は一人で昇山する者もいたらしい。だが、今の状況下で一人壁の外に出ても、蓬山の麓まで無事に辿り着ける確率はゼロに等しい。必然的に、隊を組んで昇山することになった。
 今回昇山する者のうち、一つは貴族を中心とした一団だった。金に物を言わせて集めた何百人もの大きな集団だったが、麓の門に辿り着くまでにその殆どが巨人の餌食になったようだ。今や10人程度しか残っておらず、残った者も憔悴しきった顔をしている。あの様子では蓬山を登る気力があるのか甚だ疑問である。
 その様子を見て、リヴァイはチッと舌打ちした。
「己の欲に塗れて無茶するからそんなことになる。豚野郎は大人しく豚箱の中で肥えとけ」
「巨人との戦い方を知らない奴らだからねえ。こうなることは予想できてたけど、やっぱり見ていて気持ちのいいものじゃないね」
 今回昇山する者のうち、もう一つの一団も門をくぐったのは10名程度だったが、こちらはここまでの道のりで一人も欠けていない。険しいと聞く蓬山の道のりに耐えることができ、更に巨人にも対抗できる力を持つ者を集めた精鋭の集団だ。だが、それでも巨人と相対して一人も欠けることがなかったのは僥倖だった。
 いくら精鋭集団とは言っても、半数程度生き残ればよい。それほど巨人の力は圧倒的だ。
 一団の中には早くも天の恩恵を受けているのではないかと盛り上がる者も出てきている。即ち、王に選ばれるのではないかということだ。もちろんその期待を一身に受けているのは団長であるエルヴィンだった。

「団長が王になるかどうかはさて置き、麒麟に会えるってのはかなり楽しみなんだよね」
 巨人と対抗する実力もさることながら、変人としても有名なハンジはリヴァイの隣に並ぶと目を輝かせた。
「巨人の生態にもそこそこ興味はあるんだけど、やっぱり麒麟って別格じゃない?何て言ったってこの世に12匹しかいないわけだしさ。あー、ちょっとだけでいいから色々実験させてくれないかなー!」
 あれほど嬉々として巨人に対して数多の実験を行い、周囲の迷惑も省みず巨人に関する自分の考えを熱弁しまくっているくせにお前にとってはそこそこの興味なのかとか、それなら別格の麒麟相手だとどうなるのかとか、色々実験するってそれはもうちょっとだけの範疇超えてるだろとか、言いたいことはそれこそいろいろあったが、リヴァイは「行くぞ」とだけ言った。夢中になっているハンジには何を言っても無駄だ。 

 蓬山に行くには、海を渡らなければならない。巨人の蔓延る国の中には安全に利用できる港はないため、一度隣国に行き、そこから船で渡ることとなる。
 壁の外に出てから港までは馬で駆けて来たが、大きい船を借りるような資金の余裕はなく、馬は二頭だけ連れて行き、他の馬は港へ預けておくこととなった。
 蓬山には妖魔と呼ばれる異形の獣が出るらしいが、巨人は出ない。どういうわけか、巨人が現れるのは王の不在が続く荒廃した国の中だけだ。平地は殆どない山の中ということもあり、襲ってくるのが獣だけならば馬はなくても立体起動装置のみで十分対応できるだろうというのがエルヴィンの考えだった。連れて来た二頭の馬はあくまで荷物を運ぶためのものである。
 そうしてエルヴィン一行は蓬山を登り始めた。歩いて登るには気が遠くなるような高さの山ではあったが、それに対して愚痴をこぼすような者はいない。巨人と戦うために毎日修練を積んできた者たちだ。山登りなど朝飯前である。

 登り始めて間もなく、耳を劈く悲鳴のような鳴き声が響いた。音のした方を見ると、馬鹿でかい鳥獣が近づいてきていた。見た目は鷹のようであったが、しかし蜥蜴のような尾をぶら下げている。
 エルヴィンが何かを指示するより先に、リヴァイが地を蹴る。その姿を見て、他の者は武器にかけた手を下ろした。
「おい…その尻尾は飛ぶのに邪魔だろうがよ」
 伸ばしたワイヤーを鳥獣の首に引っ掛け飛び上がると、一振りで尾を切り落とした。先程より更に大きな悲鳴のような鳴き声が響く。
「うるせえ」
 近くで出された声に苛つき、鳥獣の首を狙って剣を振り落す。普段巨人ばかりを相手にしているせいか、首を削ぐつもりが深く切り過ぎて首を落としてしまった。絶命した鳥獣は真っ逆さまに落下する。
「げっ」
 ちょうど真下にいたハンジ達は落ちてくる鳥獣を見て咄嗟に避けた。ドォンと重量のあるものが落ちた音が響き、続いて軽やかにリヴァイが着地する。
「兵長、もうちょっと落下地点も気にしてくださいよ。私たちは避けれますけど、馬がつぶれたら困ります」
 ぺトラの言葉に、リヴァイは一瞥して言った。
「ああ、悪いな」
 自身の何倍もの大きさの鳥獣を倒しておきながら、呼吸は一切乱れておらず、額にも汗ひとつ浮かんでいない。巨人のいる土地を抜けた時点で、エルヴィンの一団には昇山に対する不安も心配もなくなっていた。

 剣についた血を拭うと、リヴァイはエルヴィンの横に並んだ。「おい…」とだけ声をかけると、視線だけで後方を指し示す。言いたいことを察したエルヴィンは、ああ、と頷いた。
 蓬山の門に辿り着くまでに戦力の大半を失った一団が、エルヴィンの一団に混ざるようにしてついて来ている。おそらく先程のリヴァイの動きを見て、共に行動した方が安全と踏んだのだろう。
 いいのか、と言外に告げてくるリヴァイに、エルヴィンは「別に構わないだろう」と返した。
「特段こちらが迷惑を被るわけではないしな。勝手について来ているだけだから、ついて来れなくても放っておけばいい」
「でも、ないとは思いますけど、万が一の可能性として、ついて来たあいつが麒麟に選ばれたら嫌じゃないですか?」
 ぺトラが口を挟むと、エルヴィンは表情を変えずに言った。
「王が玉座につくのなら、それがどんな人間でも歓迎すべきだろう」

 エルヴィンは、自分が王に選ばれたいと思っているわけではない。王に相応しい資質を兼ね揃えているなどとは微塵も思っていない。それどころか、自分は王には向いていないとすら感じている。もし多少なりとも王の資質があると考えていたなら、昇山が許された5年前の時点で昇山していただろう。
 では何故今回に限って昇山する決意をしたかと言えば、王が不在だからという他ない。
 国はもう限界を迎えている。壁があるため巨人の進行は阻めているが、食糧不足は如何ともしがたい。壁の中で人同士の争いが起こる。壁に囲まれた狭い世界の中だというのに、貴族は自身の身を肥やすために弱者からなけなしの食糧を奪い取る。昨年は凶作に喘ぎ餓死者も多く出た。今年も昨年と同様の、いや、更に酷い凶作の年となりそうだった。このままでは王が選ばれる前に国がつぶれてしまう。
 その上、巨人の横行が激しくなり、昇山を目指す者が激減した。これでは、王となるべき者が国にいても、麒麟が王を選ぶことができなくなってしまう。昇山する者がいなければ、麒麟が王を選ぶ機会もなくなり、王が不在の期間が延々と続く。それを阻むためにエルヴィンはやむを得ず昇山することを決意した。
 とはいえ、自分が王に選ばれるとは思っていない。エルヴィンが昇山するのは、王に選ばれるためではない。王を選ぶために、蓬山を下りて国に来てくれと麒麟に頼むためだった。
 昇山について来てくれた者たちの中にはエルヴィンが王になるのではないかと期待してくれている者もいて、自分にそのつもりがないというのは申し訳ないような気にもなるが。だが、おそらくミケやハンジ、そしてリヴァイはエルヴィンの考えをすべてわかっているだろうと思う。

 蓬山の麓から宮殿までの道のりには、数日を要した。夜は順番に火番を決め、火を焚き身体を休めた。巨人は陽が沈むと動きが鈍くなるが、妖魔にそういった性質はないらしい。ただ、火を焚いていれば警戒するらしく無暗に近寄って来ることはない。
 今日の火番はリヴァイとハンジだ。毎晩二人ずつ火番となり、数時間ごとに見張り番を交代して仮眠を取ることになっている。
 陽が登るより少し前に仮眠から目を覚ましたハンジは薄手の毛布を身体に巻いたまま火を挟んでリヴァイの向かいに腰を下ろした。
「変わりはないみたいだね」
「何かあれば起きてるだろ」
「まあね。お互い、ぐっすり眠りこけていられるような安全な世界で育っちゃいないからね」
 水を一口、口に含むと薄ら白んできた空を見上げる。ふう、と息を吐いて、遥か天を仰いだままハンジは言う。
「私たちはさ、物心ついた時にはもう国が傾いてたじゃない?前王が崩御したのは20年前だけど、その前から国は崩壊し始めてた。作物が実らなくなって、人間同士の争いが起こって、妖魔が現れて、そして巨人が現れた。思い返してみても、戦いばかりの毎日だったよ。別に好き好んで戦いに身を投じたわけじゃない。生きるためには戦うしかなかった。戦いが好きなわけじゃない。仲間もたくさん失った。平和な世の中になればいいと思う気持ちは嘘じゃない。でも、でもさ、」
 リヴァイは口を挟まない。相槌さえもうたない。下手な慰めが欲しいわけではないので、それでよかった。
「戦う必要がなくなったら、どうしたらいいんだろうって考えちゃうんだよね。私にとっては生きることは戦うことと同義だ。戦う必要のなくなった世界で、どうやって生きていったらいいのかわからないんだ」 
 炭になった焚き木がパキリと音を立てる。静寂な空間にその音はよく響いた。
 ハンジは立ち上がり、ぐっと伸びをする。
「なーんてね。朝から変な話してすまないね」
 さて、そろそろみんなを起こして来るかー、と一歩足を踏み出したとき、静かな声が響いた。
「気が早えだろ」
 確かめるまでもなく、声の主はリヴァイだ。
「まだ王が選ばれたわけでもねえし、いつ選ばれるかもわからねえ。先のこと考えたって仕方ねえだろ」
 リヴァイの言うことはもっともだ。昇山しているからその気になってしまっているが、エルヴィンが王に選ばれると決まったわけではない。王ではないと軽く撥ね退けられて、またこれまでどおりの生活に戻る可能性だって大いにある。
「はは。目的地が近くなって気が逸っちゃったかな」
 宮殿はもう近い。順調に行けば、今日にも辿り着くだろう。



04 女怪

 エレンはこのところ、言いようのない気持ちに襲われている。どんな言葉を使えばそれが的確に表現できるのかわからない。不安、焦燥、緊張、言葉を色々と思い浮かべてみても、どれもしっくり来ない。ただ、どうしようもなく落ち着かない。
 それは夏至を過ぎた頃からより顕著になっていた。
 じっと座っていることも出来ず、気付けば岩場から蓬山の麓を眺めている。特に何が見えるわけでもない。まるで敵の奇襲に備えるかのように、気を張っている。
「エレン」
 放っておけば一日中そこで座り込んでいるエレンを迎えに来るのはミカサの日課となっている。
「戻ろう、エレン」
「ああ」
 肯定の返事を寄越したにもかかわらず、動く気配がない。ミカサは一つ溜息を吐いてエレンの隣に腰掛けた。
「毎日何を見ているの」
「わからない」
「わからないのにずっと見てるの」
 仏頂面をしたエレンは「オレが知りてえよ」とぼそりと呟いた。その言葉にミカサがぎゅっと唇を噛む。
「なあ、ミカサ。もしかしたら今年の昇山する者の中に、王になる人がいるのかもしれない」
「……なぜ、そう思うの」
「だってこんな落ち着かない気持ちは初めてなんだ。クリスタの言ってた王気ってやつはよくわからないけど、それを持った奴が近づいているから落ち着かねえんじゃないかって」
「エレンは、王になる人がいて欲しいの」
「……わからない」
 何もかもわからないことばかりだ。麒麟として王を選ばなければならないことは理解している。だが、王を選ぶということがどういうことなのか、エレンはまだよくわからずにいる。
 クリスタは何をせずとも麒麟ならそれがわかると言った。理屈ではない、ただこの人だと感じるのだという。
 だが、未だそれを経験していないエレンは本当にわかるのかと疑ってしまう。これまでに昇山してきた者を何百人と見てきたけれど、特別な何かを感じるような人はいなかった。もしかしたら自分は欠陥品で、麒麟ならばわかるはずの王気を見逃しているのではないかとすら思う。
 王になる人が現れて欲しいと思う。自分が欠陥品ではないと証明するために。
 だがその一方で、王になる人に現れて欲しくないと思う。間違った人を王に選んでしまうことが恐ろしい。
「エレンが焦る必要はない。麒麟が王を選ぶのに何年もかかるのは当然のことだ。王気を感じる人がいないなら、王になるべき人がいないということ。王になる人が現れればエレンにはわかる。絶対、わかる」
「なんだよ。そんなの、何の根拠もないじゃないか」
「エレンがエレンだから。根拠はそれで十分だ」
「……なんだよ、それ。めちゃくちゃじゃないか」
 ミカサが微笑む。いつだって無表情のように見えて、エレンに対してだけは表情が豊かだ。
「エレンは王を早く選ばないといけないと焦ってるだけ。今の落ち着かない気持ちも、王気を感じているからじゃない。早く選んだ方がいいと思ってるから気が急いているだけ」
「そう、かな」
「そう」
 断言されると、本当にそうなのかもしれないと思ってしまう。
 ミカサはエレンの一番の理解者だった。過保護すぎるきらいはあるし、ことエレンに関することに対してのみ融通が利かないことも多いけれども。
 しかも、ミカサが言っていることはもっともだと思う節もある。この時代に王になるべき者がいないという可能性は確かにある。それならば、その者が現れるのを待つより他ない。どうせ麒麟は一度成獣になれば歳も取らないし、死ぬこともない。麒麟が死ぬのは、王が誤った道に進んだ時だけだ。
 
 エレンがミカサとともに宮殿に戻って暫くすると、喧噪が聞こえた。宮殿内がざわつくのは限られた時だけだ。エレンもミカサも瞬時に悟った。昇山者が辿り着いたのだと。
 エレンの鼓動が早鐘を打つ。今すぐに駆け出して行きたい衝動に駆られる。それを押し止めたのはミカサだ。今にも走りだしそうなエレンの腕を掴まえて引き戻す。
「ミカサ、放せ」
「だめ」
「なんで」
「行くなら着替えてからじゃないとだめ」
 エレンは自身の格好を見た。今着ているのは長襦袢一枚だ。確かに、人前に出るのにあまり褒められた格好ではない。
「そんなはしたない格好で出たら笑われてしまう。エレンが意味もなく馬鹿にされるのは嫌だ」
「わかったよ」
 エレンは仕方なく正装に着替えるため奥の部屋へと引っ込んだ。ミカサはエレンを見送った後、扉の外を睨みつける。本当は、エレンが他人にどう見られようが構わない。エレンの価値は自分がわかっていればそれでいいと思っている。エレンを引き止めたのは、エレンに冷静さを取り戻させるためだ。
 エレンが逸って突き進んでしまう前に吟味してやる。王だか何だか知らないが、エレンを奪うやつは許さない。国も人も関係ない。ミカサにとってはエレンがすべてだ。



05 初見

 正装に着替えて戻ってくると、ミカサは何も言わずエレンの一歩後ろにつく。エレンはゆっくりと深呼吸して扉を開けた。
 外に出てみると、昇山者と思しき人々が屯している。喧噪がやけに大きかったため人数も多いのかと思ったが、精々20人程度しかいない。これまでで最も少ない人数だろう。
「そなたが麒麟か!」
 最も喧しい一角からエレンを目掛けて一人の男が突き進んでくる。恰幅の良い中年の男で、趣味の悪い装飾品が目につく。
 期待の篭もった目をエレンに向けてくる。この目をこれまで何度見てきただろう。そして何度落胆させてきたことだろう。
 まただ。
 エレンは目を伏せる。今までと何も変わらない。相手を目の前にしても何一つ感じることがない。
 エレンの瞳に不可の烙印を感じ取ったのか、男は必死の形相でエレンに掴みかかろうとする。しかし、エレンの腕を掴むより先に喉元に剣の切先を突き付けられ息をのむ。
「下がれ」
 周囲が凍りつくような声を発したのはミカサだ。
「貴様は王ではない。これが麒麟の結論だ。これ以上貴様と話すこともない。わかったらさっさと蓬山を下れ」
 威圧に気圧されたように、その場に尻もちをついた。こんな箸にも棒にもかからないような人間が昇山して来るなんて馬鹿げているにも程がある。その程度でエレンに選ばれると勘違いしているのだと思うと無性に腹が立つ。この程度で心が折れるくらいなら、ここに辿り着く前に折れてくれればよかったのに。内心で毒づきながらも、これ以上歯向かう気力もなさそうだと判断し、ミカサは刃を下ろした。

「どうもこの度の麒麟には物騒な女怪がついているらしいな」
 横から割って入った声に、ミカサとエレンは揃って顔を向ける。その声の主を目にした瞬間、エレンは息を呑んだ。
 王だ、と思ったわけではない。ただ単純に怖いと思った。こんなことは初めてだった。目の前にいるのはエレンよりも一回り小さい男だが、何故か見下ろされているような気分にさせた。
 エレンはかなり無鉄砲なところがある。妖魔を折伏しようとする際にも、自身の力をあまり考えずより強い敵に何度も挑み、その度にミカサをやきもきさせている。
 だが、相手の強さを知って闘志を燃やすことはあっても、こんなにも恐怖だけを覚えたのは初めてだった。
 無意識のうちに一歩下がったエレンを見て、ミカサが庇うように間に立つ。
「ほう。物騒なだけではなく、過保護でもある。更に麒麟は臆病者であるらしい」
「麒麟への侮辱行為だ。麒麟を何と心得る。最低限の礼儀さえも持ち合わせていないのか」
「ハッ。そんなガキに払う礼儀など持ち合わせてるわけねえだろうが」
「それ以上エレンの前で汚い言葉を吐くなら今すぐ切り捨てる」
「その前にお前を削いでやる」
 武器を握り直した瞬間、ミカサは後ろから引っ張られた。見れば、エレンの瞳が止めろと訴えている。ミカサは不満を隠そうともしなかったが、それでも武器は下ろした。
 見れば、好戦的な目を向けていた男も周りから動きを阻まれている。
「リヴァイ、そこまでだ。麒麟が血や争いを好まぬ生き物だということぐらいは知っているだろう」
「俺の知ったことか」
 そう言いながらも武器には手をかけず踵を返す。リヴァイを止めた男は人好きのする笑みをエレンに向けた。
「不躾な態度で申し訳ありません。あれは態度こそ悪いですが、国では最も腕の立つ兵士です。泰平の世では無用の長物になりましょうが、王のおらぬ荒廃した我が国では民に英雄と崇められている存在でもあります」
 物腰柔らかく話してはいるが、王を選ばないエレンを遠回しに責めている。それを理解したミカサは静かな殺気を込めた目を男に向ける。だが、それを意に介することもなく男は続けた。
「申し遅れました。私は兵団の団長を務めております、エルヴィン・スミスと申します」
 エレンはエルヴィンと名乗った男を真っ直ぐに見つめた。王であるとも、王でないとも言わない。一歩分だけ歩み寄る。
「少しの間だけ、行動を共にさせてもらえないでしょうか」
 エレンの申し出に、エルヴィンは「もちろん構いません」と笑顔で返した。



06 使令

 エレンはエルヴィン達の天幕に招き入れられた。本当は宮殿内に招き入れようと思っていたのだが、王であるならまだしも、単なる昇山者を招き入れるのは規律違反であるらしい。
 日頃エレンの世話をしてくれている女官たちは「麒麟がどうしてもと言うならば…」と妥協案を探ってくれたが、その表情からは酷く困惑していることが明らかだった。周りに迷惑をかけることは本意ではない。仕方がないか、と諦めかけたとき、エルヴィンが申し出てくれたのだ。
「貴方さえよければ、私どもの宿所にいらっしゃいませんか。非常に狭く、雨風を凌ぐためだけの天幕で居心地の良さなど少しも感じられないところではありますが」
 その申し出にエレンは二つ返事でもって返した。願ってもないことだ。エレンは彼らのことをもっと知りたかった。

 慣れているのだろう手早く組み立てられた天幕の中で、エレンはエルヴィンと向かい合っている。ハンジ・ゾエ、ミケ・ザガリアス、ペトラ・ラル、エルド・ジン、モブリットの5人も輪を囲むように座っている。そしてもう一人、エレンの後ろにはミカサが控えていた。
 ミカサはエレンが人間と行動を共にすることを好ましくは思っていないらしい。一度宮殿に戻った際に、何故人間と一緒にいるなどと言い出したのか、と問い詰められた。エレンはそれに対する明確な答えを持たない。ただ漠然とそうした方がいいと感じたのだ。
 エルヴィンの隊は10人編成であったが、この天幕の中にいるのはエルヴィンを合わせて6人だ。他の4人はと言えば、天幕の入り口側に控えているのが2人、裏側に控えているのが1人、残り1人は何処に行っているのか知らないが、その辺を彷徨っているのだろうということだ。ちなみに、その残る1人というのが先程ミカサとの間に険悪な空気を漂わせていたリヴァイだった。
 エレンはリヴァイがその場にいないことに少なからず安心した。何故かはわからないが、リヴァイと一緒にいると恐怖を感じて仕方ない。

「ここに辿り着くまでは妖魔に出くわすこともままあったのですが、この辺りは妖魔が出ることはないのですか」
 エルヴィンがエレンに問う。言葉こそ丁寧なものの、麒麟に対して媚び諂うことがない態度は好感が持てた。
「はい。この宮殿が妖魔に襲われたという話は聞いたことがありませんし、少なくともこの20年では一度も妖魔が入ってきたことはありません。おそらく樹が関係しているのかと」
「樹、ですか」
「ここには世界でたった一本しかない麒麟の生る樹があります。人の世界にも、人の生る里木というものがあると聞いていますが、その麒麟版といったところでしょうか」
「なるほど。確かに里木の近くには妖魔が寄って来ない。それと同じ効果があるということでしょう」
 里木は世界の至るところにあるが、妖魔は里木に近づかないというのは世に広く知られている話である。妖魔だけでなく、巨人も無暗には近づいて来ないというのは長い歴史の中で割と最近判明したことだ。
 エルヴィン達が壁外に出る際には里木の下で身体を休めることとなっている。里木の位置を知っておくことは生存率の上昇に直結する。里木がなければ、無事に帰還できる者の数は今より激減するに違いなかった。
「では、これまでに妖魔や巨人を見たことは」
「あまり多くはありませんが、使令とするために対峙したことはあります」
 使令とは麒麟と契約し僕と化した妖魔のことだ。麒麟は総じて血や争いを好まないため、身を守るために使令を使う。
 妖魔を使令とするには、ただ睨み合う。制限時間のない根競べ。気を緩めた瞬間、敗北が決まる。相手に力がなければそのまま逃げられて終わりだが、相手に力があった場合は襲いかかってくることもある。相手の力量を少しでも早く悟り、勝てない相手には出くわす前に逃げることが大切だ。エレンはよく自分より強いだろう相手に挑み、ミカサをやきもきさせているけれど。
 大抵の場合、強い妖魔と鉢合わせしそうな時にはミカサがその気配を察知し、避けるよう誘導している。だが一度、ミカサのいないところでエレンは妖魔に出くわした。対峙した瞬間に相手の力量を思い知る。一度鉢合わせしてしまうと、どうしてこんなにも強い力に気付かなかったのかと思うほど圧倒的な強さだった。それでも引くわけにはいかない。気を散じた瞬間、襲いかかってくるだろう。
 気を張ったまま、何時間が経過したのかエレンにはわからなかった。半日近くが経過したように感じていたが、実際にはそれほどの時間は経っていないのかもしれない。どちらにしろそう感じるほどの気力を消耗していた。
 何の言葉を交わすわけでもない、ただの睨み合いが続く。エレンの気力も限界に達したとき、ふと相手の気が緩んだのがわかった。それと同時に頭の中に音が響く。アニ・レオンハート。睨み合っていた相手の名前だ。長い根競べにエレンが勝った瞬間だった。
「使令って、要は妖魔を従えるってことでしょ?麒麟が妖魔を僕にするのは当たり前のことのように言われてるけど、それってよく考えてみるとすごいことだよね。つまり今人間を襲っている妖魔とか巨人とかを自分の思うままに使えるってことでしょ」
 口を開いたのはハンジだ。エルヴィンが話していた時から隣でずっとそわそわしていたが、ついに我慢できなくなったのだろう。瞳を輝かせて身を乗り出してくる。エレンは少し身体を引いた。
「すべてではないですけど」
「でもさ、妖魔が付き従うってことはそれなりの見返りがあるってことなんじゃない?ただ自分より強い者に従うってだけなら、そこら辺にいる妖魔だってある程度の主従関係みたいなものがあったっていいはずだ。でも妖魔にも巨人にもそれは見えない。上も下もなくただ各々が人を襲ってるだけ。自身に何も返って来ないのに、麒麟の指示に従うってのは野生の摂理からも外れる」
「見返りならあります」
 ハンジがよりいっそう身を乗り出す。
「使令は麒麟を食べる」
 エレンの言葉に、そこにいた人間は全て目を見開く。その脳裏には巨人に食べられる人間の姿が浮かんでいた。
「あくまでもこれは麒麟が死んだ後の話です。だから正しくは麒麟の死骸を食べると言った方がいいのかもしれません。使令は麒麟を食べることによってその力を得る。これが使令となることへの対価です」
 しんと静まった中で、エレンは何でもないことのように笑う。
「オレの死骸なんて美味しいものではないと思いますけど」
 
「安心しなよ。あんたの身体は美味い不味いに関係なく余すとこなく私が全部食べてあげるから」
 何もない場所から、突如として声が響く。艶を含んだ女の声だ。エルヴィンたちが声の主を探すよりも早く、ミカサが刀を振る。刃が寸止めされたそこに、今までいなかったはずの女がいた。刃はちょうど女の首に当てられている。あと一ミリでも動かせば切れるだろう。
「相変わらず猛獣だね。あんたの女怪は」
「エレンが呼んでもないのに出てくるな」
「その台詞そっくりそのままお返しするよ」
 その場にいた者たちはみな、二人の間に火花が散っているのが見えたような気がした。
「アニ、ミカサ、人前だぞ。喧嘩するなよ。すみません、今現れたこいつがオレの使令の一人でアニっていうんですけど、何故かミカサとは仲が悪くて」
 長い時間をかけてアニを使令とした後、エレンは気を失ってしまった。気付いたら宮殿内の自身の寝床に横になっていたのだが、目を覚ました瞬間からアニとミカサは既に仲が悪かった。気を失っていた間に何があったのか、エレンは知らない。
「いま、何もないところから突然現れたように見えたけど」
 おそるおそるといった様子で口を開いたペトラに、エレンは「ええ」と頷く。
「使令は普段陰伏していて姿を見せません。けれど主である麒麟の傍に控えている。呼べばすぐに姿を現せるように、麒麟に危険が及ぶより先にその存在を排除するために」
 ペトラの顔が強張る。それに気付いたエレンは、安心させるよう穏やかな声で続けた。
「大丈夫ですよ、ペトラさん。使令は麒麟の指示に従うもの。自らの意志で人を傷つけることはしない」
 そして麒麟は争いを好まない生き物。無闇に人を襲うようなことはない。口には出さないが、そう続くのだろう。
 ペトラは己を恥じた。戦う身でありながら恐れを抱き、それを顔に出してしまったこと、そして自国の麒麟を疑ったこと。
 ここにいる者は誰も麒麟を盲信してはいない。それどころか、なかなか王を選ばないために不満を抱いている。だが、少しだけ麒麟であるエレンに好感を抱き始める者もいた。
 


07 意志

 麒麟とは王を選ぶ生き物である。
 麒麟に選ばれ王になると神籍に入る。神籍に入ると歳を取らなくなり、不老不死となる。病もなければ老衰もない。長いところでは一人の王の時代が何百年と続いている国もあるという。
 では王が死ぬのはどういう場合があるかと言えば、首を落とされるなど物理的な攻撃を受け深手を追えば死ぬ。それ以外では、王を選んだ麒麟が死ねば王も死ぬ。
 一方、麒麟も不老不死の生き物である。王が死んでも麒麟は死なない。但し、王が道を誤り、民を蔑ろにし、無慈悲な行為を続ければ麒麟が病む。これを失道という。
 一度病んでしまった麒麟を元に戻すには王は道を正さねばならない。しかし一度失道した王が正しい姿に戻ることは殆どない。麒麟が死に、王が死ぬ。それが殆どだった。しかし麒麟を救う方法は他に一つだけある。麒麟が死ぬ前に王が命を絶つことだ。それで麒麟は助かる。そうして残された麒麟はまた新しい王を選ぶ。

「不思議なことだよね。麒麟が本当に王に相応しい人を選んでいるのなら、何故王は失道するのか。何十年、何百年と経って失道するならまだわかるよ。時代によって世の中も変わるし、歳も取らず終わりのない生ってのはどこかで気が狂れてもおかしくはないと思う。でも神籍に入ってからたった数年で失道する王だっている。その人は本当に王に相応しい人だったのかな」
 ハンジの言葉に、そこにいる皆がエレンを値踏みするような目を向けてくる。
「麒麟は言う。王気が感じられた。彼、或いは彼女しかありえなかった。では王気とは何か。これはどれだけ考えたところで人にはわからない。だから問う。エレン。王気ってのはどういうものなのかな」
 エレンは口篭もる。果たしてどう応えるべきだろうか。暫く沈黙した後、おずおずと口を開いた。 
「幻滅させてしまうかもしれませんが、オレにはまだ王気というものがよくわかりません」
 ハンジは少しだけ意外そうな顔をした。エルヴィンの表情は少しも変わらない。残りの数人はあからさまではなかったが落胆の色が浮かんだように見えた。
 王を待ち望んでいる国の民に、王気がわからないなどと告げるのは正しい回答だったのかわからない。けれど、嘘を吐いて誤魔化すべきではないと思った。だから正直に告げた。
「それは王気を感じたことがないから、具体的にどういったものなのかわからないということなのかな」
「そうかもしれません。いえ、そうであって欲しいと思います。王気があるにもかかわらずそれが感じ取れないのであればオレに存在価値はない」
「長い歴史の中で麒麟が一人も王を選ばなかったことはない。だからきっと王気を感じられる者がいなかったのでしょう」
 それはすなわち、エルヴィンにも王気を感じられなかったということなのだが、エルヴィンは全く落胆した様子もなく淡々と告げた。
「心配することはない。エレン、貴方はきっと王を選ぶことができる」
 この人が王であればよかった。エレンはふとそう思ったが、誰に対しても失礼な気がして口に出すことはできなかった。

 エレンは一人夜道を歩く。ミカサには先に宮殿に戻っていろと告げたが、陰伏してついて来ているのだろうと思う。アニも、それから他の使令も陰伏して常に近くにいる状態であるため、正確に言えば一人ではない。だが、形だけでも一人になりたかった。
 気配を辿りながら迷いなく歩を進める。少しだけ竦んでしまいそうになる足を叱咤しながら進んだ先、一本の樹の前で足を止めた。
 そこにいた人物はエレンの存在に気付いたようで鋭い視線を向ける。
「何の用だクソガキ」
「……隣にお邪魔してもよろしいですか?」
 目の前にいるリヴァイに、エレンは今も恐れを抱いている。それでもこのまま何も話さないまま下山してしまえばきっと後悔する。そう思ってやってきた。
 不思議なことにリヴァイがどこにいるのか、エレンにはわかる。自分の恐れが向く方を辿ればその先にいる。それは頭で考えるよりも感覚的なところが強い。
 リヴァイが拒否の言葉を吐かなかったため、エレンはリヴァイの隣に腰を下ろした。
 暫く無言の状態が続く。エレンはリヴァイと話してみたいとは思ったが、何を話していいかはわからなかった。ここまで来ておいて何も話さないというのもまた機嫌を損ねてしまいそうで必死に頭を回転させるが、名案は浮かばない。そうこうしている間に口を開いたのはリヴァイだった。
「あいつ、エルヴィンは王ではなかったか」
「え……えっと、」
「エルヴィンには王気は感じなかったんだろ。あいつ自身も王になりたいわけではないようだが」
「王になるために昇山したのではない、ということですか」
「さあな。あいつのことだ、俺よりずっと多くのことを考えての行動だろう」
「リヴァイさんは、エルヴィンさんが王であればよかったと思いますか」
「俺は麒麟じゃねえ。王気などわからん。王に相応しいかどうかなど俺が考えても仕様のないことだ。テメェが選んだ奴が王になる。それだけだ」
「誰が王でも構わない、と」
「構わねえな」
 俺の知ったことではない。いっそ清々しいほどにそう言ってのける。
「さっき、エルヴィンさんに一緒に下山してくれないかと言われました。麒麟として国の現状を見て欲しいと。国の状態が酷く来年には昇山する者もいなくなるかもしれない、だからここで昇山者を待つばかりではなく、王を探しに来て欲しいと」
「そうか」
「ミカサ……オレの女怪には止められました。女官は」
「エレン」
 突然名前を呼ばれて、俯きかけていた顔を上げる。名を呼んだのは目の前にいる男だ。名を覚えていたのか、と少し意外に思う。
「さっきから何が言いたい。女怪がこう言った、女官はこうだ、それに何の意味がある。お前に意志はねえのか。お前は何がしたいんだ」
「オレ、は……」
 頭の中が大洪水を起こしたみたいにぐちゃぐちゃになる。麒麟の使命、王気、天の意志、ミカサの声、アニの瞳、女官の傅く姿。いくつもの記憶が波のように押し寄せる。
 そこに自分の国はなかった。
 麒麟でありながら、オレは国の現状を知らない。王がいない国は荒れる。そう聞いてはいるが、実際にどう荒れるのか、どれほどまでに荒廃しているのか、人の暮らし、民の顔。オレは何も知らない。
「オレは、国を見たい。自分の国を。自分の目で見て、ちゃんと知りたい。オレを一緒に連れて行ってください」
 自分で何かを決断したのは、これが初めてのことかもしれない。
 リヴァイは少しだけ目を見開いて、「悪くない」とだけ呟いた。



08 道中

「いやー、エレンが一緒に来てくれて嬉しいよ。リヴァイと一緒に戻って来た時には、まさかリヴァイが王様?!とか思って驚いたけど」
「うるせえよ」
「団長が一緒に来てくれって言った時には悩んでたみたいだし、その上女怪には反対されてたし、こりゃダメかなーって思ってたけど、帰ってきたら『一緒に連れて行ってください』だもんね。大丈夫?リヴァイに脅されて連れて来られたんじゃない?」
「あ、いえ…自分で」
「黙れクソメガネ」
「まあいいや!何はともあれよろしくね、エレン!」
「…………」
 ハンジの勢いに押されたまま「はあ……」と返す。ちらりとリヴァイの顔を覗うと、諦めの色が浮かんでいた。周りのみんなも苦笑いはあれ、特別驚いた様子もない。おそらくいつものことなんだろう。

 エレンはエルヴィンの隊に混ざり、蓬山を下っていた。
 緒に連れて行ってほしいと頼んだ時、エルヴィンやハンジ達は喜んでくれたが、ミカサは対照的に絶望的ともいえる表情を浮かべていた。何がそんなに気に入らないのかわからないが、一度宮殿に戻った時に凄い勢いで問い詰められた。
「何故あんな人間なんかと一緒に行くの?他の昇山者たちと何が違うというの?あの中に王がいるとでもいうの?」
「ちょ、ちょっと落ち着けよミカサ」
「私は落ち着いている。冷静な判断ができていないのはエレンの方。あの人間たちに絆されてるだけ」
「そうじゃない。オレは自分で決めたんだって何回言ったらわかるんだよ」
「自分で決めた気になってるだけ。エレンが国を見に行く必要はない。国がどんな状態だろうと王気がある人がいないなら結局何もできないんだから」
「それでも、知っておかなきゃいけないことがあるだろ。おれは麒麟だ。その責任がある」
「でも……」
「さっきから喧しいったらない。ミカサ、何を勘違いしているのか知らないけど、あんたはただの女怪でエレンの王じゃないんだ。エレンの決定に口を出す権利はないと思うけど」
 背後からエレンの頭を抱き締めるようにして姿を現したアニは、まるでミカサを挑発しているみたいだ。その証拠にミカサの顔が一瞬で険しくなる。
「アニ、お前が出てくると余計にややこしくなるんだけど」
「心外だね。もともと至極単純な話を勝手にややこしくしているのはミカサでしょ。私のせいにしないで欲しい」
 エレンの頬を撫でながら、アニは自分の顔を近付ける。こうやってミカサを挑発し、その反応を楽しむことは度々あった。
「今すぐあんたの肉を削ぎ落してあげる」
「ミカサやめろ」
「返り討ちにしてあげる」
「アニも挑発すんなって」
 その後繰り広げられた惨状にエレンは目を覆った。何故にこの二人はこんなにも仲が悪いのか。気付いてないのはおそらくエレンだけだ。
 一晩明け、朝やってきたミカサは「エレンが行くなら私も行く」と少しの譲歩を見せた。ぶすったれた顔をしていたが、顔も体も無傷だ。ちなみにアニも無傷だ。二人はある程度暴れた後は陰伏してしまうため、その後どんな形で解決しているのか、はたまたより酷い惨状を繰り広げているのかエレンにはわからない。

 ミカサは今も陰伏したままエレンについて来ている。不機嫌な表情を隠しもしないので、姿を消してくれているのはむしろありがたかった。
 姿を見せていたままなら、今度はまたリヴァイと争いになりそうだ。
「そういえばさ、エレンは何でリヴァイの居場所がわかったの?リヴァイって神出鬼没っていうか、気配消すのも上手いし、いつもなかなか見つからないんだよ。麒麟ならではの察知能力みたいなものでもあるの?」
「それは……」
 本人の前で言うのはさすがに気が引ける。だが、みなの注目を集めてしまっているようで誤魔化しもきかない。
「えっと、気分を害されるかもしれませんが、実はオレ、リヴァイさんのことがちょっと怖くて」
「怖い?」
 何人かの声が重なる。
「怖いというか、何て言ったらいいのか自分でもよくわからないんですけど。その感覚を追って行ったらリヴァイさんがいたというわけです」
 面と向かって怖いと言われても良い気はしないだろうと思いつつリヴァイに目を向けると、視線を外された。
「すみません、やっぱり気分のいいものではないですよね」
「いや、エレンが気にすることないよ。リヴァイなんて国の殆どの人間から恐れられてるようなもんだし、民意を体現する麒麟が怖がったっておかしいこと全然ないよっていうか普通の感覚なら怖いでしょこの悪人面」
「てめぇは黙ってろ」
「あ、でもリヴァイが王様になったら良いことが一つだけあるね」
 ハンジの言葉にリヴァイ以外の皆が注目する。
「みんな恐れてるし人類最強とか呼ばれてる男を襲うやつなんていないから、王の護衛に回す人員がいらなくなるよ」
 一切の悪気のないハンジの頭にリヴァイの拳骨が落ちたのはその一秒後であった。



09 昔話

 蓬山を下るには一日では済まない。旅路には慣れていないエレンのことを考慮し、エルヴィンは少しペースを落としたため、更に余分に数日必要となるだろう。
 夜は昇山の時と同様に二人ずつの火番を決めた。その日の火番はエルヴィンとミケだった。ミケが仮眠から目覚め、エルヴィンと交代してもエルヴィンは仮眠につこうとはせず、天幕の中で眠るエレンを起こし連れ出した。
「すみません、こんな夜中に」
「構いません。何かオレに話したいことがあるんだろうなとは思っていました」
「そんなに顔に出ていましたか」
「いえ、オレの勘のようなものです」
 エルヴィンは優しく微笑む。
「貴方に何かしろと要求するつもりも、判断を求めるつもりもありません。ただ、少しだけ話を聞いてもらいたい」
 エレンは無言で先を促した。ありがとうございます、と一言だけ礼を述べてからエルヴィンは話し始めた。

 エルヴィンは15歳で兵士になった。その頃、国は少しずつ傾きかけていたが、妖魔に襲われることもなく今に比べれば随分と平和な国だった。 
 その少し前までは人間同士の争いもあまりなく、兵士というのは無用の長物であった。人が犯罪を起こした際には憲兵がその取締り等を行うことはあったが、それでも必要数は少なかったし、仕事もないのに兵を雇うなど税の無駄遣いだと言われることも多かった。
 だが、今思えばどれだけ不平不満を投げ掛けられようともあの頃が一番世の中が平和で人の心も豊かであった。
 エルヴィンが兵士になった頃、国の中では人同士の争いが顕著になっていた。裕福な者が社会的弱者を虐げ、土地も金も労働力も吸い上げた挙句、教育すらも奪った。結果として世は持つ者と持たざる者に二分化された。
 持たざる者となった人民は武器を取り立ち上がったが、兵力すらも持つ者と持たざる者に別れていた国では弱者を力で押さえつけた。
 当時新兵であったエルヴィンの最初の任務は妖魔でも巨人でもなく、平穏な生活を望んで武器を取った人民の制圧であった。
 麒麟が選んだ王は絶対的に正しい者。王に仇なす者は世の摂理を脅かす悪人である。それが当時の教育であり、その教育を受けたエルヴィンも王に敵対する者は兵士である自分たちの敵だと当然のように思っていた。
 それが覆ったのは、発端である村を焼き払えという命令を受けた時だった。
 既に何人も殺していた。今更その数が何十、何百と増えようと何が変わるわけでもない。だが、殺したのは武器を取り、戦いに身を投じた者だけだ。武器があるわけでもない、戦う力のない女や子供、老人を殺す。どんな大義名分があってそんなことができるのか、初めてこの世の仕組みに疑問を抱いた。
 一度疑問を抱くと、それまで見えなかったものが次々と見えるようになった。
 戦いに身を投じた者の顔、その背景。重税に喘ぎ、明日の食事もない。子どもに食べさせる食糧のために武器を取る父親。それを殺した。相手に何の罪があったのだろう。王に仇なした。それが罪だというのなら、人民をそこまで追い詰めた貴族や王に罪はないのか。そんな王を選んだ麒麟に罪はないのか。
 結果として王は裁かれた。麒麟が病み、そのまま回復することなく王も麒麟も共に死んだ。
 それからは妖魔との戦いだった。人を殺していた自分から一転、人を妖魔から守る存在になった。
 更に国の荒廃は進み、巨人が現れる。人々は壁を作り、壁の中でのみ生活するようになった。人々の生活を脅かす妖魔や巨人と戦う自分たちに人々は感謝する。
 とんだ茶番だ。そう思った。今感謝の目を向けている子供たちの父親を殺したのは自分であるかもしれない。恨まれるならまだしも、感謝されるような人間ではない。
 エルヴィンがリヴァイの噂を聞きつけたのは、ちょうどその頃だった。曰く、手のつけられないような問題児ではあるが、その能力は非常に高く、優秀な兵士になる可能性がある。
 すぐにリヴァイに会いに行った。兵士は常に不足している状態だった。有力な兵となる見込みがあるなら喉から手が出るほど欲しい人材だった。
 初めて会ったとき、なんて冷めた目をしているのだろうと思った。それが第一印象だ。大変な荒くれ者だと聞いてはいたが、本当にそうなのだろうと感じた。この世に執着するものもなく、生きる目的もなく、ただ適当な相手を見繕って暴れている。だが、そんな状態を作り出したのは失道した王であり、自身の私利私欲のためだけに動いた貴族であり、そしてその状態に疑問も抱かず人を殺した自分たちだ。
 リヴァイを兵団に誘ったのは、一種の罪滅ぼしだった。何をも持たない存在に生きる目的を与えてやりたかった。対象は何だってよかった。自分が持ち得るものが兵団しかなかったから兵団を薦めた。戦力として必要だと思う気持ちはあったが、他に何かあるなら無理強いするつもりはなかった。
 最初は申し出を一蹴したリヴァイだったが、何度も話をするうちに折れ、入団を果たした。それからの活躍は当初の予想を遥かに超えるものだった。
 気付けばリヴァイは『人類最強』と恐れられるようになり、英雄だと持て囃されるようになった。兵団の中にはリヴァイを敬い、彼の下で働くことを望む声も多い。
 だが、妖魔や巨人に襲われ、命を落とした兵士も数多い。兵団に入ってリヴァイは部下や仲間といったものを手に入れたが、それと同時にその多くを失った。
 エルヴィンは思う。決して失うことを覚えさせたかったわけではない。何にも心を留めることのなかったリヴァイに執着できる何か、或いは生きる目的を手に入れさせたかっただけなのだ。
 そしてそれは現在に至るまで叶わずにいる。

「部下や仲間はそれなりに大切に思っているようではあるし、失う度に心を痛めていることも知っている。だが、それが生きる目的には繋がらない。死にたいと思っていはいないが、死んでも仕方がないとは思っている。あいつは生きるために足掻くことはしないだろう。足掻くほど執着するものがこの世界にはまだ無いんだ」
 エルヴィンは目を閉じる。数秒後ゆっくりと目蓋を上げると、エレンを見た。
「聴いてくださってありがとうございます」
「いえ……」
 エレンはエルヴィンの意図を測りかねている。最初こそエルヴィンの話だったが、結局のところリヴァイの話をしたかったのだろう。ではそれを今、夜中にエレンと二人になって聴かせるのは何故か。
「どうしてオレにこの話を?」
 いくら考えたってエレンにはわからない。だから直接聞いた。エルヴィンは微笑む。
「そうですね。私なりの懺悔でしょうか。自分の行いが正しかったとは到底思えない。だが、そんな私を裁く人もいない。ただの殺戮者と同じなのに」
「あなたは誰かに罰せられることを望んでいるのかもしれない。でも、オレもあなたを裁けません。きっと、他の誰にも。あなたが裁かれるのなら、未だに王を選んでいないオレも裁かれなければならない」
「麒麟を裁くことができる存在など、この世にはいません」
「そうかもしれない。でも、同じことをして麒麟は裁かれないのに人が裁かれる、そんな違いが許される謂れもない。人が裁かれるなら麒麟も裁かれるべきだ。今の世界がそんな風にはなっていないというのなら、それは世界の方が間違ってる」
 エルヴィンは目を見開く。
「すみません、オレ変なこと言ってますよ、ね」
「いえ」
 エルヴィンは初めて天に感謝した。
「我々の国の麒麟があなたでよかった。本当に心からそう思います」
「え、あ、ありがとうございます……」
 エレンの前に跪き最上級の敬礼をするエルヴィンに戸惑う。心からの敬意を向けられたのは初めてだった。

 夜更けに付き合わせて申し訳ありませんでした、と戻ろうとするエルヴィンを慌てて引き止める。
「あ、あの!」
「何でしょう」
「あなたの話はわかりました。でも、リヴァイさんの話をしたのは、別の意図があるんじゃないですか」
 エルヴィンは顎に手を当て、少し考える素振りを見せる。そしてエレンに問いを返した。
「あなたはリヴァイを怖いという。最初は争いや血を嫌う麒麟の性質からきているのかと思いました。あいつは最前線にいる兵士であり、最も争いの場に引き出され、最も多くの血を浴びている。けれど、ここにいる兵士にそう大した差はない。私自身もリヴァイと同様に多くの血を浴びている。いや、今までのすべてを考えれば私の方が多いくらいだ。でもあなたが恐れているのはリヴァイだけ。私に対する恐れはない。違いますか?」
「違いません」
 エルヴィンは満足そうに笑む。
「あなたがリヴァイに抱いているのは、本当に恐れでしょうか」
 そうでなければ、一体何だというのだろう。



10 信頼

 蓬山を無事に下りると、船に乗り一度隣国に渡った。何故隣国に渡るのかと問えば、国には妖魔や巨人が蔓延っていて、安全に使える港が存在しないのだという。エレンはその答えに何も知らない己を改めて恥じた。
「てめぇの無知を後悔している場合じゃねえだろ。そんな暇があるなら現実を見ろ。お前の国の民を見ろ。一つでも多く現実をその空っぽの頭の中に叩き込め」
 リヴァイの言葉に気を引き締める。後悔は後でもできる。蓬山を下りたのは国がどうなっているのかを知るためだ。
「エレン」
 何もないところから声がする。ミカサの声だ。陰伏したままエレンにだけ聞こえるように呼びかける。
「どうした、ミカサ」
「麒麟であるエレンに対して命令するなんて、あのチビ調子に乗り過ぎてる。エレンさえ頷けば私が相応の報いを」
「あのチビ…ってリヴァイさんのこと言ってんのか?いや、さっきのは命令じゃなくて、激励と助言みたいなもんだろ。それにオレはああいう風に言ってもらえて助かる」
「エレンは優しすぎる」
「優しいとかそういう話でもねえよ」
「ただの人間が麒麟を見下すような態度を取るなんて許せない。エレンが従うのは王だけだ。他にいてはならない」
 麒麟より尊い存在はこの世に王しかいない。麒麟が傅くのは王に対してだけだ。どういうわけか、他の者の前では頭を下げることができない。押さえつけられれば物理的に頭を下げることにはなるだろうが、ものすごく嫌な感じがするのだ。全身がそれを拒否しているような気持ち悪さ、吐き気に襲われる。このため麒麟が誤った王を選ぶことはありえない。選ぶ前に身体が拒否するからだ。
 これはきっとこの世の摂理に基づくものなのだろう。そうでなければ、麒麟が王を選ぶという仕組みこそが破綻しかねない。この世界の有り方を根底から覆すことになる。
「とにかくオレは命令されたと思ってないし、誰かに服従しているつもりもない。オレの指示なく誰かを傷つけることは許さない」
「エレン、わたしは」
「わかったら陰伏してろ。危険があれば呼ぶから」
「……わかった。でもエレンに危害が及ぶようならエレンが止めても聞けない」
「ああ」
 エレンは一つ溜息を落とす。ミカサが過保護なのは今に始まったことではないが、それにしても心配しすぎだと思う。他の女怪もこうなのだろうか。クリスタの女怪はもうちょっと違ったような気がするのだが。

 船が港に着き、厩に行く途中でハンジはエレンに語りかけた。
「この国も前まではかなり荒れ果ててたんだよ。王が居なくて、人同士の争いが起こって、妖魔や巨人が現れた。それこそ今の我が国と同じくらい荒廃していたんだ。今から十二年ほど前かな、麒麟が新しい王を選んで、新王が起った。それから少しずつ妖魔や巨人が減って、今はゼロだ。今でもまだ繁栄しているとは言い難いけど、だいぶ安定したと思う」
 十二年。それを聞いてハッとする。この国はクリスタとユミルの国だ。
 改めて辺りを眺める。ここは港で、国の端だ。中心部はもっと違う顔を見せるのだろう。けれど、端でもわかることはある。
 働く人々は裕福とは言い難い。けれど、懸命に働いていて、その表情は何にも脅かされていない。
 そっか。クリスタもユミルも頑張ってるんだな。
「この国を見てると、我が国の復興の手本に思えるよ。王が起ってもすぐに妖魔や巨人が消えるわけじゃない。減ってはいくけど、何年かの間は戦いが続く。それでもすぐ隣にそれを乗り越えた国があるというのは、やっぱり人々の希望になる。自分たちの国も、きっともうすぐ麒麟が王を選ぶ。あと何年か我慢すれば良くなるんだって」
 ハンジは笑う。
「リヴァイはあんなだから厳しい言い方ばかりだし、他のみんなも麒麟って尊い存在だから自分が簡単に話しかけちゃいけないと思ってあんまりエレンに話しかけられずにいるけど、みんなにとって、もちろん私にとっても、エレンは希望なんだ」
「おれ、は」
「おっと、勘違いしないでね。エレンに重圧かけようとか思ってるわけじゃないよ。つまり、エレンの存在こそが希望なんだから、君は焦らずじっくりと王を探せばいいんだ。その間は私たちが戦って人民を守るよ。伊達に今まで生き抜いて来ちゃいないからね。安心して任せておきなよ」
 ハンジがどんと自分の胸を叩く。前を見れば、ペトラが、エルドが、オルオが、グンタが、みんなが、まるでエレンを安心させるように微笑んでいる。
 後頭部をぐっと押されたかと思えば、隣にリヴァイが立っている。
「泣いてんじゃねえよ、クソガキ」
「……泣いてないです」
 吐いた言葉は思いっきり震えていて、全然格好つかなかった。



11 覚悟

 国境を越え、強大な壁へと近づくにつれエレンは妙な胸騒ぎを感じていた。言いようのない不安が身体を蝕み、身体の芯から冷えていくような感覚に襲われる。
 遠目に壁を確認できるようになった頃には胸騒ぎは苦痛に変わった。
「……きもちわるい」
 ちいさく呟いた声は馬の駆ける音に紛れエルヴィンたちに届くことはなかったが、陰伏しているミカサには届いたらしい。
「エレン、これ以上近づかない方がいい」
 自分の身体のことだけを考えれば、ミカサの言うとおりこれ以上進むべきではないことはわかっている。だが、ここで止まるわけにはいかなかった。
 進めば進むほど、身体の怠さが増していくのがわかる。何が原因かなど考えるまでもなかった。麒麟の本能が教えてくれる。
 この先にあるのは血の海だ。それも尋常ではないほどの。遠くにいても身体に異常を来すほどに、夥しい量の血が流れている。

 エレンが本能的にこの先に待ち構えているものを感じ取ったのと同時に、エルヴィンはこれまでの経験則から異常を感じ取っていた。
 壁に近づいてきているというのに、周りには巨人が殆どいない。
 壁の外に出た人間など巨人の恰好の餌食であるはずにも関わらず巨人が襲ってこない。そればかりか、遥か前方に見える巨人は自分たちと同じ方向を向いている。
 まだかなりの距離があるため、はっきりとはわからないが15メートル級ほどの大きさが5体ほど見える。3〜4メートル級も目視で確認できないだけで何体かはいるだろうことが想像できた。
 背中を嫌な汗が流れる。
 最悪の事態を想定することには慣れている。それでも、今頭の中に浮かんだ映像はこれまでに想像したどんな事態よりも凄惨なものだった。
「エレン」
 馬に乗ったまま、エルヴィンはエレンの隣に寄る。エレンの顔色を見て、想像したものが現実に起きていることを確信した。
「あなたも感じ取っているようですが、この先はあなたにとって毒でしかない。国の現状を見に来てほしいと頼んだのは私ですが、これ以上進むことが良いことだとはとても思えません。あなたを無事に国までお連れすることは問題なく可能だと思っていましたが、この先私たちはあなたを確実にお守りすると誓うことはできません。我が国の麒麟を危険な目に合わせるのは私たちも本意ではない。もしあなたがここで引き返すというのなら、私たちはそれに従います」
 本音を言えば、少しだけ迷いはあった。
 壁まであと少し、折角ここまで麒麟を連れて来たというのに、壁の内側まで招くことなく引き返させてはこれまでのすべてが水の泡となる。
 更に言えば、この先の惨状を目にすることでエレンの中の何かが変わるのではないか、とも思う。ショック療法なんて、なんとも荒療治ではあるが、それで麒麟が王を選んでくれるというなら手段を選んでいる場合ではない。
 だが、万が一ここで麒麟を失うことになればその損失は計り知れない。
 この先に待ち受けている惨状と、これから払うであろう犠牲を正確に把握することなど誰も出来はしない。ただでさえ血の穢れに弱い麒麟を連れて行き、エレンを損なうようなことになれば国はまた何十年と新しい麒麟を待つことになる。それを耐えるだけの力はもうこの国には残っていない。
 そんなエルヴィンの迷いなど撥ね退けるかのように、エレンはきっぱりと言い放った。
「―――いいえ、進みます」
 苦しいだろうに、その瞳には少しも迷いがない。
「ですが、この先にあるのは目を覆いたくなるような惨憺たる光景だけです」
「見たくないものから目を逸らしていれば、きっと楽に生きられる。でもそれが正しいとは思いません。おれは見なくてはならない。だから進みます」
 エレンの言葉を合図にするかのように、一行は馬の速度を上げた。

 壁に近づけば近づくほど、想像したことが現実に起きていることを目の当たりにする。
 それまで壁外に出る際に使っていたシガンシナ区の扉が破壊されている。昇山へと出かけた際には何事もなく無事であったシガンシナ区は全滅し、更にその先まで巨人の侵入を許していた。
 エルヴィンたちが不在にしていた一月にも満たない間に一体何が起こったのか、正確に把握することはできない。ただ、巨人の襲撃を受け、多くの命が失われたことだけは容易に理解できた。
 シガンシナ区には巨人は殆どいなかった。あるのは、数日前まで人間であっただろう亡骸ばかりだ。身体の一部が無くなっているだけならまだいい。だがその殆どは元の形状がわからないほど惨たらしく喰い散らかされていた。巨人はシガンシナ区に住んでいた人間の殆どを喰い尽くし、更なる人間を求めてウォールマリアを突破したと思われる。
 見るも無残に壊されたウォールマリアを抜け、無事であることを祈りながらトロスト区を目指す。

 シガンシナ区の凄惨な光景と流れた夥しい量の血のせいで、エレンは気を失いかけていた。それでもなんとか気を保とうと手綱を握る手を更に強く握り締める。
 何体もの巨人の姿を確認したが、巨人がエレンたちを目掛けて襲ってくることは殆どなかった。2回ほど巨人に遭遇したが、目にした巨人の数に比べれば微々たる数だ。それもリヴァイとミケによって瞬く間に倒されている。
 通常の場合なら巨人に遭遇しないことは幸運といえた。しかし今この状況においては更なる惨劇が懸念される。巨人がいないということは即ち、より多くの人間のいる場所に巨人が集まっていると考えられるからだ。
 リヴァイはチッと舌打ちした。次いでエルド、グンタ、オルオ、ペトラを呼びつける。
「ここから先、お前らはそいつを守ることだけに全力を注げ。巨人を倒すことも考えなくていい」
 そいつ、と目線だけで示したのはエレンのことだ。支持を受けた4人はエレンの周りを囲む。
「待ってください。おれは大丈夫です。おれよりも、」
「今お前の意見は聞いてない」
 リヴァイの冷やかな声が響く。
「お前が自分のことをどう思っていようがそれは関係ない。この国に住む人間にとってお前が必要だ。だから守る。そこにお前の意志は必要ない。お前はただ自分が守られるべき存在だということを理解しろ」
 エレンは口を噤んだ。リヴァイの言っていることが理解できないわけではない。だが、国を見に来ることを決めたのは自分で、そのせいで足手まといになっていることが悔しかった。
 

 トロスト区に辿り着いたとき、そこは惨禍の最中にあった。
 一部始終を見ていたわけではないため、目に見えることだけから判断するに、開閉門が破壊されて間もない頃合だったのだろう。侵入する巨人と内地へと逃げ惑う人々で混沌としていた。
 悲鳴、怒号、叫泣。痛憤、恐怖、絶望。
 この世の地獄がそこにあった。
 自分は本当に何もわかっていなかったのだと思い知る。土地が荒廃することも、妖魔や巨人が出ることも知識として知っていたにすぎない。それがどういうことなのか知らなかったし、知ろうともしていなかった。
 これが夢であってくれたならどれほどよかっただろうか。
 思わず視線を外すように下を向いてしまう。
「おい、エレン」
 リヴァイの声にエレンは辛うじて頭を上げた。
「目を逸らすな。どんなに残酷だろうがこれが現実だ。失望するのも結構だがこれがお前の国だ。それだけは忘れるなよ」
 それから、とリヴァイはエルドたちに目を向けた。
「ここから先は別行動だ。お前らはこいつを巨人のいない内地に連れて行け。いいか。優先事項を間違えるなよ」
 それだけ言うと、リヴァイはエルヴィンたちとともに馬の方向を変える。エレンは思わずリヴァイの行く方向へ手綱を寄せようとしたが、エルドたちに囲まれていたためそれは叶わなかった。
「リヴァイさんたちはどこへ」
「決まってるだろ。巨人を排除しに行ったんだよ」
 オルオの言葉にエレンは目を見開いた。
「あの人数で?!無茶です!」
「お前もリヴァイ兵長が巨人を倒すとこ見ただろ。あの人は強い。心配なんかいらねぇんだよ」
 確かに、リヴァイもミケも十分な強さを有しているのはこの目で見た。だが、それはあくまで相手が一体ずつだったからだ。ここにいる巨人の数はその比ではない。その上、次から次へと壊された壁から侵入して来ている。
 相手の数も多く、疲弊した状態ならどうなったっておかしくない。
「……アニ、」
 呼んだ声は小さなものだったが、アニは陰伏したまますぐに反応を返した。
「なに」
「リヴァイさんたちについて行ってくれ。陰伏したまま見ていてくれればいい。けど、もし危険が及ぶようならその前に敵を倒してくれ」
「私にあんた以外のやつを守れっていうの?」
「ああ」
「あいつらはただの人間だよ。特別気にかける価値があるとは思わないけど」
「アニ、頼む」
「…………それは、あんたの個人的な頼み?それとも麒麟としての頼み?」
 エレンは少し逡巡して答える。
「……両方だよ」
「そう。わかった。命に危険が及ぶようなら助ける。異常事態があればあんたに知らせる。そうじゃない限り黙って見てる。それでいいね?」
「ああ、頼んだ」
「貸しひとつでいいよ」
 次の瞬間、アニの気配が消えた。陰伏しているため目には見えないが、馬よりはずっと早い。おそらくすぐに追いつくだろう。
「ミカサ」
「私はエレンのもとを離れない」
 まだ何も言ってないだろ、とエレンは呆れる。
「人を壁の向こう側に逃がすのを手伝って欲しい。巨人に襲われないように、みんなが逃げ切るまで守ってくれ」
「私はエレンを守るためにいる。エレン以外を守るようなことはしない」
「じゃあ、おれを守れ。おれは最後尾につく。全員が避難するまでおれは避難できない。おれが避難するまでおれを守る、それならできるか」
「……エレンはずるい」
 命令されなくても、ミカサにエレンを守る以外の選択肢はない。

 ウォールローゼの開閉門は逃げ惑う人々でごった返していた。
 エルド達はエレンを優先的に通らせたかったようだが、無理強いはしなかった。もともと民を守る兵団の一員であるだけあって、民を押し退けてまで優先するのは憚られたらしい。
 エレンたち以外が避難を完了するまでに現れた巨人は一体のみだ。それもミカサに一発で仕留められた。
 巨人が現れた瞬間、エレンは肝を冷やした。ここに巨人が来るということは、リヴァイたち前線の人間を破ってきたのではないかと考えたからだ。
 しかしペトラの話では奇行種というものが存在し、目の前の人間を無視して進む巨人も少数ながらいるらしい。更に、この程度の巨人にリヴァイがやられるはずはないという。
 その証拠と言わんばかりに続く巨人は現れず、エレンはほっと肩をなで下ろした。
「さあ、エレンも早く」
 最後となったエレンも内地へと避難するようペトラが促す。
 エレンは4人を振り返って微笑んだ。
「すみません、おれは避難するわけにはいきません」
「は?!何言ってんだお前、兵長の指示聞いてただろ?!」
 すみません、とエレンはもう一度謝った。
「おれが人とは違うことは理解してます。それでみんながおれを守ってくれてるのも。でも、だから、おれにも守らなければならないものがある」
 それは人であり、国であり、そして唯一絶対の王だ。

 エレンが駆け出す。
「待って!」
 ペトラがエレンを留めようと手を伸ばしたが、掴んだのはエレンの身につけていた服だけだった。
「え……」
 思わず声を漏らす。目に映ったのは、初めて目にするものだった。
 獣には違いない。だが、獣と表現するにはあまりに美しかった。
 体躯は馬のような形をしている。だが、しなやかな体躯も、光を反射してきらきらと光る鬣も、ただただ美しく見とれてしまう。
 それは麒麟であるエレンの本来の姿だった。
 エレンは天を駆けた。
 ただ一人の自分の王のもとに。




 12 忠誠

 エレンは麒麟の姿のまま、屋根の上に降り立った。
 前方ではリヴァイやミケたちが巨人を相手に戦っているのが見える。壁の中に侵入した巨人は粗方倒したようだが、如何せん次から次へと入ってくる状態にあってはキリがない。
 エレンの存在に気付いたらしく、陰伏したままアニがエレンの近くに寄る。次いで追ってきたミカサも気配を滲ませた。
「アニ、あの壁の穴塞げるか?」
「できなくはないね」
「よし。じゃあミカサは残った巨人の殲滅、アニは穴を塞ぎ次第ミカサを手伝ってくれ」
 エレンの迷いのない瞳に二人はエレンの決断を確信した。それが揺らぎないことだということも。
「もう決めたんだね」
「ああ。いや、違うな。おれが決めたんじゃない。最初から決まってた。それを思い知っただけだ」

 ミカサとアニが動き出してからトロスト区にいる巨人の殲滅まで時間は殆どかからなかった。
 アニは硬質の皮膚を造り穴を塞いだ。10メートル以上の大穴だというのに、それを塞ぐのに殆ど時間はかからなかった。
 穴を塞いだ皮膚と自身の身体を引き剥がし、巨人のもとへと向かった時にはもう、数体残っていた巨人は全て殲滅されていた。
 ミカサは陰伏したままの状態で巨人に襲いかかった。姿の見えない者を相手にしたことはないようで、巨人は全て一切の抵抗もできずに倒された。
 それまで巨人と対峙していたリヴァイたちは何が起きたのかすぐには理解できなかった。ミカサやアニを一度も目にしていなければ新たな敵かと身構えていただろう。
 次いで現れた存在に、皆一様に呆然と立ち尽くした。
 実際に目にするのは初めてだったが、それが何かわからない者はいない。子どもの頃に手にした絵本にも、教科書にも載っている。絵でも像でも、その姿を一度も見たことがない者など一人もいない。
 だが、麒麟がこんなにも美しい生き物だとは終ぞ知らなかった。思わず息を呑む。

 エレンはリヴァイの前に降り立つと、脚を折り頭を垂れた。その意味を周りにいた者は瞬時に悟った。麒麟が頭を下げられる相手など一人しかいない。
 エレンは転変を解き、人の姿に戻った。
「……てめぇ、何て恰好だ」
 獣姿だったため、一切衣服を身に纏っていなかった。本来の姿が麒麟だからなのか、エレンにはあまり羞恥心もない。見かねたリヴァイが自分の着ていた上衣をエレンにかけてやる。
 その間もエレンはリヴァイに跪き頭を下げたままの状態を変えなかった。

 エレンはあまりに簡単に頭を下げられたことに少なからず驚いていた。これまで、誰が相手でも頭を下げることは出来なかった。無理に下げようとすれば、冷や汗が垂れ、悪寒のようなものが走っていたというのに。
 地に頭を伏せ、ゆっくりと口を開く。何度も一人で繰り返した言葉だ。
「御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと誓約する」
 何度も繰り返し、その度に消えていった言葉が、漸く行き先を見つけた。
 エルヴィンの言った言葉を思い出す。エレンが恐れだと感じていたものこそが王気だったのだ。王以外には決して従うことのできぬ麒麟が唯一自分より上位に置き、傅くことのできる存在。
 王はリヴァイにしかあり得ない。
 確信したのはリヴァイと離れた時だった。
 この人を死なせてはならないと頭の中に警鐘が鳴った。もしも失うようなことがあれば、自分はもう二度と麒麟としては生きていけないだろうと思うほど強いものだった。

「いてっ!」
 突然走った後頭部への衝撃に、エレンは思わず声を上げた。
 リヴァイの行動に、周りにいた者はみな固まった。
 麒麟の頭を足蹴にする人間がこの世にいるとは思わなかった。今目の前に起きていることが信じられない。
 リヴァイはエレンの頭を遠慮なく踏みつけ、グズ野郎、と言い放った。
「俺が王なら最初からそう言え。無駄に時間くったせいで酷い有様だ。無駄にした時間の分必死に働けよ」
 リヴァイは蓬山で誰が王でも構わないと言った。それは自分自身も例外ではなかったらしい。
 エレンにとって王は唯一絶対で何より大事な存在であるにも関わらず、当のリヴァイ本人が誰かが玉座についていればそれでいい程度にしか思っていないことが可笑しかった。
 エレンはリヴァイを見て微笑うと、もう一度頭を下げた。
「御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと誓約する。……あなたに、おれの心臓を捧げます」
 悪くねぇ、とリヴァイは呟いた。
「―――許す」
 新しい王が誕生した瞬間だった。




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