ぽかぽかと暖かい春の陽気の漂う船の上で、読書に耽るロビンの向かいにルフィは腰を下ろした。
 まるで誰かに見られることを意識しているかのような、脚線美を活かして長い脚を組んだ座り方をするロビンとは対照的に、ルフィは股を広げて深く椅子に腰を預け、そのままテーブルの上に突っ伏した。
「腹も減ったし、喉も渇いた」
 ロビンの目の前にはサンジが淹れてくれたブラックコーヒーが置かれているが、ルフィがそれに手を伸ばすことはない。人の食べ物に手を出さないなんてそんな常識がこの船長にある筈もなく、ただその苦味がルフィの舌に合わないだけだ。
 船長がこんなところに腰を下ろすということは、既に食べ物をたかりに行って厨房を追い出された後ということだろう。ついでに言えば先程までやっていた釣りにも飽きたということだ。何事にも器用な狙撃手が何匹か釣り上げているのは見えたけれども、小魚ばかりではこの船長の興味を繋ぎとめることは出来ない。それこそ大型の海王類でも釣り上げなければ。
 ロビンは開いていたページに押し花の栞を挟んで閉じた。船長の退屈に付き合うのはこの船の船員の務めだ。それは誰もが自ら進んで引き受ける仕事ではあるけれども。
「ロビンはいつも難しそうな本ばっかり読んでるなあ。疲れねえのか?」
「読書で疲れるという感覚は私にはないわね。船長さんは何か食べているときに疲れたりする?」
 いいや、とルフィは首を振る。
「きっと私にとって読書というのはそういうものなのよ。欠けてはならない生活の一部」
 そういうもんか、よくわかんねえなあ、と首を右に左に傾けた腹ペコの船長は、そういえばいっぱい食った後って眠くなるもんなあ、とよくわからない答えを導き出した。

「これは何の本だ?」
 本の内容まで気にするとは、我らが船長は相当退屈してしまっているらしい。
「輪廻転生。生まれ変わりね」
「へえ、ロビンでもそういう本を読むんだ」ナミがロビンの横に腰を下ろす。「もっと歴史とか、史実を追ったものばかりを読んでるのかと思ったけど」
 右手に持ったグラスには冷たいオレンジティーが注がれている。途中でハート型を描くストローを咥えて一口啜り、「うん、美味しい」と満足げに頷く。
「さすがベルメールさんの蜜柑だわ」
 その蜜柑を見事なオレンジティーに作り変えた料理人への賛辞はナミの口からは出てこない。テーブルにグラスを置くと、からんと氷が涼しげな音をたてた。
「文明やそれに纏わる遺跡には須らく宗教が絡んでいると言っても過言ではないわ。生まれ変わりを意識していると思われる遺跡もあるし、それを信じている人は昔からいた。そういう背景を知るのも必要なことだしそれなりに興味深いものよ」
「ふうん。まあ、遺跡にお宝があるならわたしは文句ないわ」
 そんな即物的なことを迷わず言って退けるナミの隣で、ルフィはロビンの本を片手でパラパラと捲る。文字ばかりのその本には興味をそそるような挿絵もなく、ルフィの気を引くものは見当たらない。一通りページを捲って本を閉じると、生まれ変わりかあ、とまるで欠伸をしているみたいな声で言った。
「もしも生まれ変わったら、船長さんは何になりたい?」
「んー、そうだなあ。楽しかったら何でもいいけど、でもやっぱり、おれはおれのままが一番いいな」
「船長さんらしいのね」
 ロビンは微笑う。ルフィがルフィのままなら、生まれ変わってもう一度自分となるのも悪くない。
 もう一度自分を。改めて心の中でその言葉を繰り返して、そんなことを自然と考えたことにロビンは少し驚いた。お世辞にもいい人生を歩んできたとは言えない。辛いことの方がどれだけ多かっただろう。人が羨むような生き方とは程遠いものだった。
 だが、この船に乗っている人間はきっと皆そうだろう。海賊であることに拘りがあろうとなかろうと、ルフィが船長を務める船になら自分の全てを受け入れて、その上で海賊として誇りを持って乗ってしまうのだ。

「生まれ変わりと言えばブルックだな。おーい、ブルックー!」
 生まれ変わりと言うよりは甦りだろう、とナミとロビンは思う。だが、生まれ変わっても自分のままがいいというルフィとブルックの何が違うのかよくわからない。わからないから、細かいことを言うのは止めた。
 呼ばれたブルックはヴァイオリン片手にやって来る。四六時中海の上なんかにいれば潮風にあたって楽器には悪いことこの上ないだろうに、ブルックの奏でる音はいつだって美しく優しい。それをブルックは、人に届く音ですからね、と言った。それを聞いた瞬間、どうしようもなく顔がくしゃくしゃになったのをナミは覚えている。

「何ですかルフィさん」
「天国ってどんなところだ?空島みたいなとこか?」
 あんな散々な目にあっておいて、猶も空島を天国と表現してしまえる船長の図太さ、もとい、懐の深さにはさすがに畏れ入る。まるで地獄のようなサバイバルだったというのに。あれじゃあ天国の有り難味などまるでない。
「天国ですか?ヨホホホ。どうでしょうねえ。幸せな場所であって欲しいと思いますけど、なにぶん行ったことがないもので」
「でも幸せな場所だったら生まれ変わろうと思わないんじゃねえか?」
 会話の繋がりがよくわからなかったらしく、ブルックはない瞳をロビンとナミに向けた。ロビンが本の表紙をブルックに向ける。輪廻転生。なるほど、と頷く。
「どんなに幸せな場所でも、やっぱり“生きてる”ことには敵わない。そりゃあ悲しいことだって辛いことだってあります。でも生きていなければ味わえない嬉しさというのはそれを遥かに凌駕する。ね、ルフィさん。私はそう思うんですよ」
 生も死も、両方を体現しているブルックだからこそ、その言葉は深い。
「そっか、だからみんな生まれ変わってくんのか」
「ヨホホホ。そうですね。生まれ変わり。あって欲しいものです」
 会えなくなった人にもう一度会えるわけではないけれど、精一杯生きたその魂を引き継いでまた新たな生が始まる。それはとても美しく喜ばしいことのように思えた。ただ、心の何処かが少しだけ寂しいと訴えるけれども。
 とは言え、自分もそうやって前の魂を受け継いでいるのかもしれない。それはとても不思議なことのような気がした。
「生まれ変わりがあるなら、ルフィさんの前の魂って何だったんでしょうねえ」
「おれ?」
 もしもそれが人間だったら、甦る前の自分が会っていたとしたら。ブルックは思う。私はこの魂にやはり惹かれていたのではないか、と。
 そんなブルックの考えを打ち切るように口を挟んだのはサンジだった。
「ルフィの前世?そりゃサルしかねえだろ。とびきり食いしん坊のな」
 サンジが現れた瞬間、ルフィの意識は全てが食べることに切り替わった。無理もない。ロビンの元に来たときから、この大食いの船長が腹が減った、喉が渇いた、と訴えていたのだ。
「サンジ!おれの腹はもう限界だ!何か作ってくれ!」
「あほか!てめえが保存食まで平らげやがったから今食うもんに困ってんだろうが!我慢という言葉をいいかげん覚えろ、このクソザル!」
 黒足と呼ばれるサンジの踵落としが脳天にヒットしようとも、ルフィはサンジを見上げて、めし!と叫ぶ。諦めの悪さでこの船長に敵うものはいない。
 そんなルフィの主張に引き寄せられたかのように釣り道具を置いたまま狙撃手と船医がやって来て大合唱を始めた。
「なーサンジ、おれもはらへった」
「食うもん食わなきゃ釣れるものも釣れねえよー」
「だからその食うものをとりあえず釣って来いってんだ。釣って来ればおれが美味い飯に変えてやるっての。ったく、食料調達に出た奴はまだ戻って来ねえのか?」
 サンジの言葉にロビンが海の方へと目を向ける。
「ちょうど帰ってきたみたい」
 その直後、独特の機械音と金属音がして、フランキーが船に上がってきた。
「だめだ。こっちは外れだな。魚がいねえわけじゃねえけど、十分な食料を確保できるほどでかい魚がいるわけじゃねえ。これなら次の島に急いだ方がまだ良さそうだ。あっちはどうだ?」
 自分が行っていた方角とは逆の方を顎で指しながらフランキーは問う。
「まだ帰ってきてないわ」
「ならあいつが帰って来次第次の島に舵切った方が得策だな。コーラも残り少ねえし、早めに調達しときてえ」
「……やっぱりそうなるのね。次の島までの距離もわからないのに。ああ、もう!これも全部あんたの胃袋のせいよ!ルフィ、わかってんの!」
 眉間に皺を寄せて怒鳴るナミに、ルフィはしししと笑った。
「そんなに怒んなよ。だいじょーぶだって!」
「何なのよその危機感の無さは!」
 何やかんやと文句をぶつけながらも、ナミは本気で怒っているわけではない。ことルフィの胃袋に対してはどんなに真面目に怒ったところで無意味だと判っている。だが、そればかりが理由ではなかった。
 あの日、シャボンディ諸島で一味全員バラバラにされて以来、いつも一緒にいた仲間と離れることの心細さを知った。同時に、どれだけ自分がこの仲間たちに心を寄せているのかも。何より、馬鹿面だと思っていた船長の屈託のない笑顔が見れないことがどれほど寂しいのかを。
 誰一人欠けることなく再び会えたことが何より嬉しくて、また同じように航海できることがどれほど幸せなことかを知った。船に、仲間に、こんなにも心を寄せているとはあの日まで知らなかった。
 そしてそれは、ルフィの後先考えない見事な食べっぷりでさえも有難く思えるほど、この船に乗った者全員が重症だった。
 誰一人としてルフィの大食いを止めないばかりか、サンジは次から次へと船長の注文に答えて料理を作ったし、その場にいる誰もがあれも食えこれも食えと進めてばかりいた。そんな日々が新しい島を出る度に何十日と続けられるわけだから、いくら大量に食料を積み込んだとはいえ、途中で買出しにも寄ったとは言え、広い海の上で食料が尽きるのは当然のことだった。
 この食糧難は自分たちにも原因がある。それはわかっている。わかっているからこそ、何とかしてこの危機を脱しなければならない。折角無事に冒険を再開できたというのに、船の上で全員揃って餓死なんて冗談にもならないではないか。
「ああ、もう!無いなら無いで早く帰ってきてー!」
 ナミが海に向かって叫ぶ。全員揃わなきゃ、先へ進むことも出来ない。この船で誰も何も欠けてはならないのだ。

 ナミの叫びが通じたのか、遥か水平線の向こうに小さな影が見えて、ルフィは立ち上がる。一人暢気に昼寝をしていたゾロも片目を開けて海へと目を向けた。
 乗る者の能力を活かしたスピードの速いそれのおかげで、みるみるうちに影は大きくなる。人物を確認するよりも先にルフィは両腕を振り叫んだ。
「おーい、エースー!」
 呼ばれた本人は更にスピードを上げてサニー号に乗り付けると、身軽にも飛んで上がってきた。
「おかえり、エース!」
「おー、ただいま。ほれ、食料だ」
「うおっ!じゃあ、あったのか!メシ屋!」
 いよいよ切羽詰った食糧難に、解決策として周りに食料調達できる島がないか探索に行くことを決めたのが一日前。弟の胃袋の面倒は兄が見なさい!とナミに追い立てられ出かけることになったエースだったが、その言葉は満更でもなかった。エースを見ればルフィを存分に甘やかしてきたのが一目でわかる。手の掛かる弟の面倒を見るのが嬉しくて仕方がないのだ、この困った兄は。
 おれも行く!と駄々を捏ねるルフィに、あんたは留守番よ!とルフィにとって一番罰としてこたえるだろう言葉を突きつけ、エースを見送った。あったかもしれない冒険を逃して待っている間のルフィはそれはもう退屈そうだったが、しかしちゃんと食料調達の目処をつけてくるあたり、さすがエースといったところだろう。
「美味そうなメシ、いっぱいあったか?!」
 きらきらと瞳を輝かせる弟に、兄は笑って航海士へと目を向けた。
「こっからだと、ログポースの指す方角の斜め36度ってとこか。半日もありゃ行ける距離だな。でかい街ではなかったけど、食料は豊富そうだったぜ」
「半日?この船を舐めてもらっちゃ困るわね。そうでしょ、フランキー!」
「おうよ。コーラ調達出来るんなら消費しても構わねえってこった。半分の時間で行ってやらあ」
 行くでしょ?と船長に目を向けると、もちろんだ!と頷く。
「よし、じゃあ全員揃ったことだし、行くぞ野郎ども!」
 みんながそれぞれ持ち場につく。帆を張る。進路が少しずつ変わる。
「全速前進っ!」
 ルフィが叫ぶ。風を切り、船が進む。サニー号が、進む。

 置き去りにされた、先程まで話題の中心だった本が目に入った。輪廻転生。ナミは表紙の文字を見て笑みを浮かべた。
 もしも生まれ変わりなんてものが本当にあったとして、そうしたら私たちはきっと生まれ変わっても同じように集うのだろう。どれだけ遠くに飛ばされてもこうして集ったように、何度でも。
 だが今は次の生なんてどうでもいい。この海で、この仲間たちと、この生を、思う存分最後まで生き抜くまでは。



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たとえそれが悪足掻きと罵られようとも。




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