酷い裏切りだ、と思う。
 船長でありながら、「弟だ」というその一言だけで仲間よりも兄貴を優先して突っ走ってしまうなんて許されることじゃない。暴動を起こされたって文句は言えないだろう。
 けれど、もしかしたらこいつの仲間は、だってルフィだから仕方がない、なんて一言で済ましてしまうのかもしれない。無茶ばかりをしたことに対しては怒るかもしれないが、それよりもこの状況で仲間を優先したらそっちの方が怒るのかもしれない、と思う。お前が集めた仲間を信用しろよ、とかそんなことを言われながら、船長の威厳なんてものは何処かに忘れて、こっ酷く叱られてしまうのかもしれない。他ならぬルフィが集めた仲間だから、きっと普通とか、海賊としての常識とか、そんなものには縛られちゃいないのだろう。
 それでも、ルフィには麦わら帽子に誓った約束がある。いつか立派な海賊になって再会すると、海賊王になると、そう誓った約束があるくせに、こんなところでたった一人のために命を落としてしまってどうするのだ。
 確かにおれたちは悔いが残らねえように生きようと誓った。だからこそ、こんな航海の途中で、まだ再会も出来ていない道半ばで終わるようなことがあっては、それこそ悔いが残るはずだろう。
 きっと麦わら帽子の元の持ち主は、お前を待ち侘びている。立派な海賊になったお前と会えるのを、ずっと、この10年ずっと待ち続けている。
 それなのに、これは酷い裏切りじゃねえか。なあ、ルフィ。お前がそういう奴だと知って麦わら帽子をお前に託したのだとしても、その行為がどれほどおれの心を揺さぶったとしても、お前は自分のしたことを忘れてはいけない。ここで終わってしまっては本当の裏切りになってしまうことを、忘れてはいけないのだ。お前はまだ、進まねばならないのだ。

 ルフィ。お前ほど海賊らしくない海賊を、おれは知らない。でも、お前以上に海賊に相応しい海賊も、おれは知らない。



「いやなんだ。エースが、笑ってられる世界じゃねえと、おれはいやなんだ」
 泣き虫で、わがままで、強情な弟は、駄々を捏ねるみたいにそう言った。
「エースが苦しんでるのなんか、見たくねえんだ。きっと、世界にはまだまだおれの知らないおもしれえもんとか、綺麗なもんとか、いっぱいあるんだ。でも、でもな。エースが笑ってなかったら、おれはそんなもの楽しめねえんだ。全部、全部、つまんねえもんになっちまうんじゃねえかと思うんだ」
「ルフィ。なあ、どうしてだろう、ルフィ」
「エースが独りぼっちみたいに、そんな風に感じてるのはいやなんだ。おれはエースがいたから独りじゃなかったのに、エースが独りぼっちだって思ってたら、おれも独りぼっちになっちまう。だから、いやなんだ。エースが、幸せだなあって、もっともっと生きてえって、そんな風に思ってねえと、おれがいやなんだ。」
「ルフィ」
「エースが笑ってられる世界じゃなきゃ、だめなんだ。エースが構わねえって言ったって、いやなんだ。おれが堪えらんねえんだ。おれが。おれが、」
 膝をついた弟が、もう力の入らぬ拳をそれでもぎゅっと握り締めて、絞り出した震える声で、ただひたすらに嫌なのだと叫んだ。顔は涙でくしゃくしゃで、身体は傷だらけで、その上、身体に傷よりも大きな負担を幾つも抱えながら、それでも懸命に。
 いったい、どれほどの無茶をしてきたのか、簡単に推し量ることは出来ないけども、並大抵のものではなかったはずだ。何度も死ぬ思いをして、何かを犠牲にして走り続けて、喋ることすら辛いだろうに、どうして、こいつは。
「何でだろう。ルフィ。初めてだ。昔からいっぱい聞いてきたお前のわがままなのに、それがこんな風に聞こえるのは。おれはこんなにも誰かから自分の幸せなんてものを願われたことはねえ。自分だって願ったことがねえってのに、欲張りなお前はおれの幸せまで願っちまう。それが、こんなにも、こんなにも、嬉しいもんだなんて」
 手を伸ばせば、涙で濡れたルフィの頬に届く。手が自由に動くことが、簡単に触れられることが、涙が出るくらい幸せなことだなんて、今までちっとも知らなかった。
「ルフィ。なあ、ルフィ。おれはずっと、自分のことを世界にこびりついた汚れみたいなもんなんだと思ってたよ。だから世界はおれに冷たくて、汚いものばかりをおれに寄越すんだと、そう思ってた。おれはきっと、これからも汚いものばかり見ていくんだと、おれにはそれが相応しいんだと、そう思ってたんだ。けどよ。けど、なあ。ルフィ。何でだろう。世界が、おれにだって、こんなにも綺麗に見える。ずっと、ずっとさ、冷たくて汚かったんだ。なのにそれが今、どうしようもねえくらい、やさしいんだ。あったかくて、たまんねえんだ」
 涙ってのは、どんな時に零したらいいものなのか、おれにはよくわからなかった。悲しくても、悔しくても、何だか流しちゃいけねえような、そんな気がしていた。なのに、なんだ。嬉しかったら、涙ってのはこんなにも簡単に流れてしまう。止めようもないくらい、次から次へと溢れてきてどうしようもない。
「きっと、世界はおれにだってやさしくてあったかいもんだったんだ。おれがそれを見ようとしなかっただけで、ずっと、ずっとお前はこうやって手を伸ばしておれにそれを教えてくれてたんだよなあ」

 世界を憎んだまま、恨んだままでいられたら、おれはきっともっと楽に生きられただろう。嫌なことも都合の悪いことも全部世界のせいにして、自分の生まれのせいにして、そうやって殻に閉じこもっていられたら、辛いことも傷つくこともなくいられただろう。いざとなったらこんな命簡単に投げ出して、そうやってこんな汚い世界とはおさらばだと、全てを捨ててしまえば、それでよかった。
 でも、おれは知ってしまった。おれにだってやさしい世界を、人のあたたかさを、誰かを想い、想われることを。
 無茶ばかりする弟は、おれ一人のためにがむしゃらに突っ走って、やはり無茶ばかりをして、たくさん傷ついてなお、おれに世界の美しさを説く。世界の楽しみ方を知っていながら、そこからおれが欠けては楽しめないと、細い腕を伸ばす。きっとおれがその手を掴むまで、伸ばし続けるのだろう。
「ルフィ」
「エース、」
「おれは、……ルフィ、おれは、ちゃんと生きてえ。お前が、みんなが与えてくれたこの世界で、ちゃんと、もう一回」
「ああ。エース、そうだ。もう一回」
 生きていてもいいのか、なんてそんなことは言わない。その答えは、親父が、仲間が、ルフィが、既に教えてくれたのだ。おれが生きたいと思うかどうか、たったそれだけのことだ。傷を負って、血を流して、何度も倒れながら、そうやって教えてくれたのだ。
 きっとルフィはこれからもずっとそうやって、自分の身も省みず、おれの幸せを願って止まないのだろう。
 昔からずっとそうやって、希望を、やさしい世界を見せつけて、生きることを諦めさせてはくれないのだ。





568話より。



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