夕陽の沈みゆく海にヴァイオリンの音が響く。夕陽と海と音楽。なんて狡い組み合わせなの、と一度ナミに言われたことがあったが、演奏を止めろとは言われなかった。目を閉じて耳を傾けていた姿はむしろもっと奏でてと言っているようで、ブルックは遠慮なく船に音を響かせる。
 優雅に鳴り響くホ長調。緩やかな曲調はあまりよく弾くものではなかったが、決して嫌いなわけではない。明るく弾むような曲の方がやはり楽しい気分になれるけれど、たまにはこういう曲もいい。
「それ、あんまり聞かねえ曲だな」
「ルフィさん」
 音に誘われるようにしてやって来た船長は、ブルックの前でうつ伏せに寝転がって頬杖をつく。
「いつもの明るい曲、弾きましょうか」
「んにゃ。ブルックの弾きたいやつ弾いたらいいさ」
 ブルックにとって船長であるルフィの聴きたいものが一番弾きたいものなのだが、そう言われてしまっては曲を変えるのも可笑しな話だ。少し迷って結局同じ曲を最初から奏で始めた。ルフィは目を閉じて、音に合わせて右に左にと揺れる。

 宴好きの船長には少し退屈な曲かと思ったが、ルフィは最後まで聴いてくれた。最後の音が波に消え入ると、目を開けて笑う。
「きれいな音だ。でもちょっと寂しい曲だな」
「寂しい。ヨホホホ。そう聞こえました?」
「なんとなくな。違うのか?」
「さあ。作った人の意思がどうであったか、それはわかりません。ですが音楽は聞く人それぞれの感じ方で変わるものかと。同じ曲でも楽しい曲と思う方もいれば、切ない曲だと思う方もいらっしゃるかもしれない。ルフィさんは寂しい曲だと感じた。それは正しい。誰かは希望に満ちた曲と感じた。きっとそれも正しい。それを含めて、わたしは、そうですね。この曲は一日の終わりの曲だと思っています」
「夕焼けか?」
 沈みゆく燃えるような夕陽がルフィの頬を赤く照らす。ブルックは「ええ」と頷いて夕陽の映った水平線に目を向けた。目は、ないのだけれど。

「わたしは長いこと気付けなかったけれど、夜が来るというのは、それはつまり新しい朝を迎えるということなんですねえ」
 深く濃い霧の中で魂のまま彷徨い、骨だけの身体で過ごした48年という年月には朝などなかった。太陽を拝むこともなく、日の変わり目すらわからない。気の遠くなるような長い時間は、いつまで経っても明けない夜でしかなかった。
 しかしどんな夜にも朝は来るのだと知った。48年ぶりの朝日は眩しくてたまらなかった。
「ルフィさん」
「なんだ」
「わたしね、うれしいんです。あなたがわたしを仲間と呼んで下さることが、本当にうれしくてたまらない」
ありがとう、と告げると船長は余計なことは何も言わず、ただ笑った。
「でも、でもね。わたし、さびしいんです。こんなこと言うべきではないのかもしれませんけれど、でも、うれしいから、だからさびしい」

 ルフィはブルックを見つめたまま、口を開かない。ナミやサンジには人の話を聞けとよく怒られているけれど、ルフィは話を聴くということに長けた人だ、とブルックは思う。聴かなければいけない時にルフィは口を挟まない。下手な相槌も入れない。話の先を促したりもしない。それでいて自然と言葉の出る空気を作ってしまう。
 普段は陽気で、何処か子どもっぽいのに、誰より“船長”らしい人。そんな人をブルックはもう一人知っている。何十年も前に一緒だったあの人は、とても音楽が好きだった。
「ルフィさん、わたし独りが怖いです。こわい。可笑しな話でしょう。50年近くも独りで居たのに、わたしは少しも独りに慣れることが出来なかった。ずっと、ずっとね、88年この世に存在してもまだ、わたしは臆病なさびしがりやなんです」
 音を楽しむことが出来ないほどに、孤独はこの身を襲った。ピアノを弾いても、ヴァイオリンを弾いても、重なる音は何処からも聞こえることがない。いつまでも続く、独奏、独奏、独奏。歌もない。拍手もない。観客すらいない。面白おかしく過ごそうとふざけてみたところで笑い声も重なることはなく、独唱を繰り返すのみ。
 錆びついた船の上でたったひとり。骨となったこの身体の血肉は、きっと孤独に食い尽くされたのだと思った。

 ルフィは身体を起こしてブルックの正面に胡座をかいて座った。首にかけていた帽子を被って、黙ってブルックを見つめる。
「いや、お恥ずかしい。格好悪いことをたくさん言ってしまいました」
 その呟きにルフィは、格好悪いもんか、と返す。そうしてたった一言、口から零すように言った。
「ひとりはさびしいぞ」
 それを聞いた瞬間、何だかわからないけれど涙が溢れそうになった。自分を解ってくれた気がしたからではない。安っぽい同情の言葉でなかったことが嬉しかったわけでもない。
 ただ、置いて行かれるということを知っている人なんだな、と思った。孤独を、ではない。残されることを、だ。

「さびしい。そう。さびしいんです」
 本当はこの先の言葉は言うまいと思っていた。言ったところでどうすることも出来ない。きっと困らせるだけだ。でも、今この時だけは、なんとも身勝手な話ではあるけれども、それも許されるような気がした。
「わたしは一度死にました。仲間をみんな見送って、そしてすぐに私も死んだ。みんなの後を追うように。でも戻ってきた。ひとりで。骨だけの姿となって。もう共に過ごした仲間のいない海に」
 朝か夜かもわからない。わかったところでたった一人。共に歌う仲間も、語り合える友もいない。何処に行くことも出来ず、ただただ波に揺られるだけの日々。これほどに辛いことが起こり得るものなのかと、この身を呪いもした。
「それでも、あなた方が来てくれた。わたしは独りではなくなった。うれしい。こんなに幸せなことはない。心からそう思います。でもね、ルフィさん。わたしにはいつかきっとまたあの孤独に耐えなければならない日が来る。それがこわい。こわくて、さびしくて、たまらないんですよ」

 一度命を失ったあの時、すぐに身体に帰れていたらこんな苦しみはなかった。生身の身体のままだったらこんな長生きは出来なかっただろうから、どちらが良かったかと問われれば骨となったこの身体の方が良かったのかもしれない。だが、それでも再びあの孤独を味わうことになるくらいなら、と思わずには居られないのだ。
 骨だけの身体でどうやって生きているのか自分でもよくわからない。悪魔の実の力にはまだまだ謎も多く、そのすべてが解明される時が来るのかどうかすらも定かではない。
 だが、現に自分は今生きている。否、意思を持って動いている。
 ではこの状態はいつまで続くのだろう。流れる血もなければ、止まる心臓もない。骨となった己に、死は訪れるのだろうか。
 長生きを出来ること自体は喜びだ。少なくとも、この麦わら海賊団の一員として過ごすことの出来る日々は喜び以外の何物でもない。
 だが、この幸せな日々が永遠に続くわけではないと、自分は骨身に沁みるほどよくわかっている。死ぬことの出来ないこの身は残酷なほどに延々と続いていくのだろう。だからといってみんなはそうではないのだ。
 血があり、肉があり、心臓のある身体にはいつか終わりがやって来る。いつかの話で、今ではないけれど、その時には自分はまたみんなを見送って、あの孤独に引き摺り込まれるのだろう。
 それがこわくてたまらない。
 たとえ己のわがままだろうとも。
「わたし、もう、独りになんかなりたくないんです」

 ルフィはただじっとブルックを見つめて、ゆっくりと骨だけの手に触れた。そうして、言う。
「あったけえなあ」
 そんなはずがないのに。血も肉もないこの身は冷たいに決まっているのに。触れたルフィの手の方が何倍も、何十倍もあったかいのに。
「生きてるから、あったかいんだな」
 そう、言うのだ。

 ブルック、と名を呼んで自分の方に顔を向けさせると、ルフィは言った。
「おれはなあ、いつか死ぬよ」
「ルフィさん」
「何日後か、何年後か、何百年後かはわかんねえけど、でもいつか死ぬ」
 何百年、と少し笑って、はい、と頷く。いつまでも死なないなんて、そんな絶対に果たせない約束を彼はしない。自分も、そんな言葉が欲しくて言ったわけではなかった。
「お前が死なない身体なら、おれはきっとお前を置いていくことになる。お前以外のおれの仲間たちもみんな、お前を置いてっちまうかもしれねえ」
「はい」
「でも、ちゃんと待ってろ」
 待つ、という言葉に首を傾げると、船長は言った。
「急いで生まれ変わってまた迎えに行くから、だから待ってろ」
 そう言って、おれの仲間になれ、と言ったあの時と同じ顔で笑った。

 独りが怖いと泣いた、縮こまった胸にその言葉は大きすぎて、暫し呆然としてしまう。ルフィはと言えば何でもないような顔でまた、ブルックと呼んだ。
「ブルックにはおれの前に船長がいたんだよな?」
 突然の予想していなかった問いに少し戸惑う。
「え、ええ。はい。かれこれ50年以上も前になってしまいますけれど、ヨーキという名の船長が」
「どんな奴だった?」
「ヨーキ船長がですか?えーと、そうですね。名前の通りとても陽気で明るくて、そして音楽がとても大好きな方でした。仲間になる条件は音楽が好きなこと、というくらいの音楽好きで。でも、皮肉なことにね、ヨホホホ、とても歌が下手な方だったんですよ。ルフィさんの方が何倍もお上手です。あの船は音楽好きばかりが乗っていたから、船長の音程を外した歌声にはみんな笑い転げて。音痴だと言われ続けてましたけど、でもずっと、誰より音楽を愛していました」
 昔を思い出すのは辛い思い出も呼び起こすことだと思っていたのに、話し始めれば言葉はスルスルと口から出てきた。
「ブルックは前の船にいる時幸せだったんだな」
 ルフィは自分以外の船長を船員が褒めることに怒ることはなく、それどころか嬉しそうに笑ってみせた。
「……ええ。毎日とても楽しかった」
 別れはあったけれど、振り返ってみれば確かにあの日々は幸せだった。さびしい日々を過ごしたとは言え、思い出したくないと思ってしまうようなこともない。
「今とどっちが楽しい?」
「………それを、選ばないといけませんか?」
 そんなもの、選べるはずがない。
 そう思いながら訊くと、ルフィはあっけらかんとした口調で応えた。
「んにゃ。別にいい。ブルックは今おれの仲間だからな。今が楽しけりゃ昔がどうだっていいんだ。辛くて悲しいよりは楽しくて幸せな方がいいくらいでさ。ああ、でも生まれ変わってまた迎えに行くときにはその船長もブルック迎えに行ってるかもしれねえなあ。そしたら取り合いだ」
「ルフィさんと、ヨーキ船長が?」
「そうだ。おれは譲る気ねえからな。けど、きっと向こうも同じだろうから、そしたらみんなで一緒に冒険しちまったりしてな!」
 そう言って、ししし、と笑う。

 この人は、なんと明るい未来を夢見させてくれるのだろうかと思う。そして何故だか根拠など何もなくても、それが本当になってしまうような気がするのだ。
「それはそれは。死んでなどいられませんねえ。ってわたし、一度死んでますけど」
 いつかそんな未来がやって来た時には、きっと、骨だけとなったこの身体で、長生きはしてみるものだ、と言って笑うのだろう。



明ける夜がもたらすもの/title by ジャベリン



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