海ってやつはおそろしく広いもんだなあ、とサンジは一人呟いた。
 煙草を燻らしながら海を見る。遥か遠くに見えるは水平線。船は一隻も無い。小船一つ、ない。少なくとも自分から見える範囲には何処にも。

 海の広さを知ったのはまだ幼いガキの頃だった。見たくもない水平線を眺め続けて、船の影すら見えない毎日を過ごしたあの日々は、おれに海の広さを思い知らせた。このばかみたいに広い海に抗う術など、ちっぽけな己一人にあるはずもないということを叩き込んだのだ。
 あの後、海の上のレストランに身を寄せることになったのは、命の恩人がどうとかそんな大人びたガキの考えだけではなく、もしかしたら海に対する小さな抵抗であったのではないか、と今になって少しだけ思わなくもない。
 きっと、おれが諦めの悪さを学んだのもあの時だったのだろう。海の広さを知った。飢えの恐ろしさを学んだ。己の無力さを呪った。それでも、信じ続ければいつか必ず最悪な状況に変化が訪れるのだとおれに教えたのも海だったのだ。

 そろそろ飯の準備を頼むよ。そう言われて厨房へと向かう。自分の手に馴染んだ包丁一つもない、余所の厨房だ。器具の握り具合一つで、おれは今あの船の上にいるんじゃねえんだよな、なんてことを思い知る。
 作った料理を誰かに食わしてやることは少しも苦ではない。むしろそれがなければおれは海の上にいる理由すらないだろうと思う。だが、食わせる相手があいつらじゃないというただそれだけのことが無性に重たく感じる時がある。

 20人やそこらの船員の料理を拵えてやると、野郎共が嬉々としておれの料理を食い始める。美味い、と食った連中は言う。当たり前だ、とおれは返す。おれの作った飯が不味いなんて、そんなことはこの海の水が全て干上がろうともある筈がない。
「いつものことながらこんな美味い飯を作る奴が海の上にいるってことに驚くよ」
「まあな」
 おれの飯が美味いことは誰よりおれが知っているので、謙遜など下らないことはしない。
「頼まれた時には料理人なんて居ても居なくても構わないくらいにしか考えてなかったが、実際居るってのはありがたいことだな」
「そりゃどうも」

 おれがこの船に乗ることになったのは少し前の話だ。グランドラインを半周して、突然飛ばされた先は恐ろしい場所だった。思い出すだにぞっとする。出来ることなら封印して二度と開けたくない。
 しかしこの広い海の、何処か全くわからない場所に落とされても、おれには戻る場所があった。おれが海賊となった時から、進む先は全て船長が決めていた。あのあほな船長が行くと決めた場所に向かって、有能で美人な航海士が間違いのない指示を出してくれた。おれたちはそれに従うだけでよかった。だから今までちっとも気付かなかったのだ。このおそろしく広い海で進むべき先がはっきりしていることがどれだけ心強いのかを。
 バラバラにされたシャボンディ諸島に、そこにある船に、戻らなければならない。何としても。そうでなければ、おれは此処からどこに進んでいいのかわからなくなってしまう。
 そんなとき、ちょうど運搬船を見つけたのはラッキーとしか言いようがない。
 シャボンディ諸島まで乗っけて欲しい。代わりに船員全員分の飯の面倒をおれが見てやる。
 それが対等な交渉であったかどうかはさて置き、おれは料理人として運搬船に乗せて貰えることになった。以来、むさ苦しい野郎共に毎日美味い飯を出してやる日々が続いている。

「しかし、味については文句ないが、このバラバラなメニューは何とかならないのか?」
「………うるせえよ」

 改めて自分の作った料理を眺めて、舌打ちする。確かに、フレンチのフルコースにメインディッシュを5品ほど、しかも肉料理ばかりを付け足し、居酒屋でよく見かけるようなメニューとつまみの盛り合わせ、更にジャンクフードを追加した挙句、お子様用の甘いデザートやら少しビターな大人のデザートを加えたような滅茶苦茶なメニューとなっていた。それも今回に限ったことではない。毎回だ。
 おれはいつの間にか料理人ではなくなってしまったのだ。いつからかはわからない。振り返ってみても、はっきりとした時期がわかるわけではない。気付いたらそうなってしまっていたのだと思う。おれは料理人ではなく、あの船の、あいつらの料理人になってしまったのだ。

 肉料理に目がない船長には大量の肉料理だ。質より量と言ってもいい。だが、一種類の料理を大量に作ったのでは芸がない。量もありながら質も落とさない。しかしあのクソ船長は放っておけば肉ばかりを食べるため、効率よく野菜も摂らせるよう気を遣わなければならない。世話が焼ける。
 あほ剣士は酒さえ与えとけば文句はねえだろうが、やっぱり酒だけというのは味気ない。何種類かつまみを用意してやる必要がある。もちろん飲んでる酒に格別合うつまみだ。それがおれの腕の見せ所ってもんだろう。
 美しい愛しの航海士、ナミさんの好物はみかんだ。生憎農家でないおれは恩人だという人のみかんを超えるみかんを作ってあげることは出来ないが、そのみかんを使って本来の味を殺さずに料理を作ることは出来る。みかんを使った料理のレパートリーでおれに敵う者は絶対にいない。
 狙撃手は旬の魚そのものの味を十分に引き出した料理がお好みだ。秋刀魚の丸焼きに大根おろし、それだけだとつまらないので隠れた一手間を加えてやる。手先が器用な狙撃手は舌も肥えているのか、おれのその一手間によく気がつく。手間の掛け甲斐があるってものだろう。
 甘いものが大好きな医者にはとびきりのデザートを。甘くて美味い、それだけでは満足出来ないおれは、見た目にも拘る。一度、そんなにでかいものでは無かったがお菓子の家を作ってやったときの喜びようと言ったらなかった。あんなに喜ぶならまた作ってやってもいいと思う。
 大人の魅力に溢れた考古学者、ロビンちゃんはあまり食べ物に対する執着がない。その代わり、彼女はコーヒーが好きだ。おれは彼女のために食後の美味いコーヒー一杯を入れることに心血を注ぎ、コーヒーに合う小さなデザートを傍らに添える。自分からは所望しないデザートだが、出したデザートをロビンちゃんは必ず食べてくれる。
 コーラばかりを飲んでる船大工はとにかくジャンクフードが大好きで、コーラに合う食べ物を、とふざけた注文をつけてくる。しかしおれがそれに応えられないわけがないので、おれはフルコースを作る傍らハンバーガーやらフライドポテトやらを作ってやる。
 いつも陽気な音楽家には、おれはとにかく温かいものを出してやることにしている。骨の姿でいるあいつは、体温なんてものが殆ど無い。それでも寒くないと、人と、仲間と居るのに寒いはずがありません、とあいつは言った。おれは何だかたまらなくなって、少しでも身体の芯からあったまるような、そんな食いもんを出してやることにした。胃袋もないのに何処へ吸収されるのかはわからないけども、おれの飯を食べてあいつは、あったかいですねえ、と言った。だからそれでいいんだろうと思う。

 おれはそんなあいつらの飯を作っているうちに、普通の料理が作れなくなっちまったらしい。ただの美味いだけのフルコースでは満足できやしないのだ。
 運搬船の船員はおれと目の前の料理を見比べて、それに、と呟いた。
「量もなあ、ちょっと多すぎだな。お前は食材から無駄な部分を出さねえから食糧が足りないなんてことにはなってないが、食べ切れないだろって思うような時もあるし。前はそんな大勢に食わせるようなところで作ってたのか?」
「………いや、そういうわけじゃねえけど」
 食べる人数で言えば、この船の半分もいなかった。なのに、とにかく大喰いの船長のせいでおれは50人前、もしかしたら100人前近く飯を作る時もあった。闘いの後のあいつは本当によく喰うのだ。
 そんな日々を過ごすうち、おれは的確な量すらわからなくなってしまった。実際に20人前の料理を前にしたら、おれは絶対にこれじゃ足りねえだろ、と作り足す自信がある。

「だがまあ、美味い飯ってのはやっぱり有難いもんだ。なんかこのままシャボンディ諸島で降ろしてしまうのは勿体無いような気がしてしまうな」
「馬鹿なこと言ってねえで、さっさと進めてくれ」
 はいはい、と男は笑って帆を張れと指示を出す。風を受けて、船が進む。この広い海の中で、ちゃんと目的地を持って進む。

 おれは再びあいつらと会うだろう。それぞれが何処に飛ばされたのか、今どんな状況なのか、手掛かりすら持っていない。だが、信じることを止めなければいつか叶うことをおれは知っている。少なくともこのおそろしいほどに広い海の上では、必ず。
 だから待っていろよ、と水平線の向こうを見ながら呟く。
 ナミさんと、ロビンちゃんと、そしてクソ野郎ども。おれをただの料理人でなくした詫びに、てめえらのための料理を心置きなく食ってもらうからな。一切手抜き無く、完璧なまでにバラエティにとんだ大量のフルコースを少しも残さず全部平らげてもらうまでおれは勘弁してやらねえ。





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最後までニューカマー達が送ってくれると思ってなかった



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