人はさ、どういうものを幸せって呼ぶんだろうねえ。

 凪いだ海と澄んだ空の境目を見つめながら、誰に答えを求めるでもなく静かに呟いた。
 珍しいこともあるものだ、と思う。いつでも冷静沈着に事を運ぶその人は、いつもなら無駄なことや答えの無いことをわざわざ口に出したりはしない。
 海軍中将である彼女のことを、人々は中将という代名詞ではなく親しみを込めて「おつるさん」と呼ぶ。少し厳しい母親のような、若い連中にとっては祖母のような、そんな空気を彼女から感じるらしかった。
 けれど、まだ下っ端の海兵であった頃から何十年と付き合ってきた身ともなれば、感じることは別にある。彼女は決して世話焼きな性分というわけではなかったし、いつも冷静に戦況を読んで対処するその姿とは裏腹に、かなり喧嘩っ早い性格でもあった。部下の仕事を見てやるのは任せておくよりも自分でやった方が早くて確実だという理由からだったし、参謀という身分のくせに自らを戦いの最前線に置くことだって何度もあった。最近の若いのはその辺をきちんと理解していないようだが、中将という地位はそうでなければ就けないものだ。戦えない奴など海軍には不要である。
 そんな彼女が呟いた言葉は、こんな時でなければ簡単に聞き流していただろう。いや、そもそもこんな時でなければ彼女はこんなことを呟いたりはしなかっただろうから、そんなことを考えること自体無意味ってもんだ。

 海賊王の称号を持つ男が海軍へ自首してきたのはつい最近のことだ。世間には海軍が捕えたという歪められた情報が伝えられたが、少なくとも本物のゴール・D・ロジャーと対面したことのある人間はそんなことを信じちゃいないだろう。あいつは易々と海軍に捕まるような男ではなかった。だからこそ今まで捕えられなかった。そうでなければ海賊王などと大層な名で呼ばれることもなかったはずだ。
 そんな男が自首してきたと知ったとき、何を企んでいるという考えよりも先に、何というつまらぬことを、と思わず舌打ちした。同じ時代を生きる者だからこそ、海で会い、海で戦い、そして自分の手で捕えたかった。自ら海で生きることを捨てるような真似だけはすまいと思っていた。いや、そう信じていた。

 無言で歩き始めると、海に視線を向けたままおつるちゃんは言った。
 不思議なもんだね。毎日毎日、もう何十年も海を見続けているっていうのに、たった一度だって同じ海を見たことがないよ、あたしは。なあ。あんたも、そうだろ。
 それに何も返さずに、一度止めた足をまた踏み出す。今度は呼び止める声は無かった。



 海底監獄、インペルダウン。その最奥の檻の前に胡坐をかいて座ると、中の人物は不敵に笑ってみせた。どんな屈強な海賊であれ、此処に捕えられた状態で尚も海の上と同じ顔でいられる奴などいなかったというのに、こいつだけは何も変わっていなかった。まるで大海原で向かい合っているような錯覚まで抱いてしまう。
「こんなところに来るなんて、海軍ってのは随分と暇のようだな」
「最優先で捕まえねばならんかった海賊が自ら出て来おったからな。のう、海賊王。お前が死ねば海賊時代という茶番劇は終わる。海は平和になる。わしも故郷でのんびり暮らせるってもんだ」
「終わる?馬鹿言っちゃいけねえな。始まるんだよ、海賊時代は」
 そう言って、にやりと笑う。ただ単に挑発しているような物言いではあったが、その中には確信のようなものが見て取れた。

 何百、何千もの海賊と対峙してきたが、ロジャーのような男は他に見たことが無い。同格の海賊として挙げられる白ひげやシキですら敵わない何かがロジャーにはあった。数少ない情報から的確かつ確実に先を読むことに長けた白ひげとも、明らかな野望を持って暴れるシキとも違う。言うなれば自由な奴だった。
 ロジャーってのはあんたみたいな男だね、といつだったかおつるちゃんは言った。貶しているわけではなくとも、それは決して褒め言葉では無かっただろう。

「ロジャー、海賊王であるお前が自首などして無事に外へ出られる筈もない。そんなこと、わかっとるだろうが。現に処刑は目の前に迫っとる。そんなお前が今更何をしようっていうんだ」
「おれの先がもう長くないなんて、そんなことは随分と前から判っていたことだ。だが、実際に死を間近にして最期に父親ってやつになるのも悪くねえとは思ったな」
「何をふざけたことを」
「別に冗談を言ってるわけじゃねえぜ?父親の顔をして自分の子供を抱いてやることは出来ねえだろうがな」
 眉をしかめると、ロジャーはおよそ海賊らしからぬ顔で言った。

 なあ、ガープ。ガキが生まれるんだ。このおれに。

 海賊のくせに海兵であるおれに好き勝手なことを言い尽くして、終いには子供を任せるとまで言い出す始末にさすがに言葉を失う。自由にも程がある。何がおれの子を頼むだ。
「生まれて来る子に罪はないだと。お前はそれが通用すると思うのか。それが真実だろうと関係ない。海賊王の子供だというだけで生まれた子供がどれほどのものを負うと思っている」
「ああ。そうだろうな。海賊を名乗るだけで罪となる世の中だ」
「それがわかっているなら、お前は自分の子供を生すべきではなかった。そうは思わんか」
「…ガープ。誰にどんな風に言われようと、おれはそれに頷くわけにはいかねえ。なあ、そうだろ。おれは自分の罪をよくわかっている。それでも、自分の子供にお前は生まれなければ良かったなんてそんなこと言えるわけもねえ」
 諭すような言い方に、思わず出かけた言葉を飲み込んだ。
「何故今更子を生そうなどと思った」
「……海賊王ってのはよ、この世の全てを手に入れた奴のことを言うんだってな。富、名声、力。おれは確かにそれを手に入れたのかもしれねえ。だが、そんな奴がただ父親になることさえ出来ねえってのはおかしな話だと思わねえか。家庭を築くとかいう、皆が当たり前に手に入れてるようなことを、だ」
「フン。そんな平凡な幸せが欲しいとはお前らしくない。自らの先の短さを感じて、自分の子に後を託そうと考えたわけではないのか」
「海賊王の子供なら時期海賊王ってか。血筋なんて頼りにならねえよ。人間ってのは育つ環境によって変わるもんだ」
「好き勝手言いおって。お前の子供なぞ手が焼けるに違いない」
「海軍きっての自由人であるお前には言われたくねえな。なあ、ガープ。おれは一度海賊としてのお前と対峙してみたかった。海軍としてそれだけの力を持つお前が海賊として動いたら、海賊時代ってのはもっと早く幕を開けたかもしれねえと思うんだ。センゴクは海軍であるからこそ手強い。だが、お前みたいな奴は海軍より海賊の方がずっと恐ろしい敵になるだろうよ。白ひげとも、シキとも違う、そんな敵にな。お前はもう今更海賊になりはしねえんだろう。だが、この先お前の性分を受け継いだ奴が海賊になったら、それは手強い海賊になると、おれはそう思う」
「何だそれは。それが血筋なんか頼りにならんと言った男の台詞か。おれに子供を預けてみろ、絶対に海賊なんかにはさせん」
「ああ。好きにすりゃあいい。時期が来れば自分で進むべき道を決めるだろうよ。その道が海賊だろうと海兵だろうと田舎の漁村の漁師だろうとそれはガキの自由だ」
「お前は本当にいい性格をしているな」
「それはどうも。自覚はあるさ」

 あるのはたった一つ、自分の父親が海賊王であるという、その真実だけなのに、生まれてくる子供が背負うものはあまりにも大きすぎる。世界的大犯罪者である父を持った子供には、海軍で正義を振りかざすことも田舎でのんびりと暮らすことも、同じくらい難しいだろう。それを判っていながら子を生し、更には海兵の元へ預けると言っているのだ。この、ロジャーという男は。

「任せたぜ、ガープ。おれは古い時代を引き連れて逝く。新しい時代を見れないってのは、ちと残念ではあるが」
「お前の言う海賊時代など来やせん。海賊が蔓延っていた時代はお前と共にもうすぐ終わる」
「いいや、来るさ。新時代は。必ず」
「それをお前のガキが引っ張っていくとでも?」
「さあ、それはわからねえ。新時代を築く者の導き手となる、その確立は高いかもしれねえが、おれも別にそれを期待しているわけではない。言っただろ。おれはただ父親になりたかった」
「海賊王の言葉とは思えんな」
「おれも一人の人間だからな」
「まだ無事に子供が生まれるとも限らんぞ」
「生まれるさ。ルージュはおれが全ての海を回って見つけた世界で一番いい女だ。必ず生んでくれる」
「その女性も世界最悪の男に掴まったものだ。お前は子供から母親まで奪うつもりか。父親になりたいというお前の我侭のせいで、生まれながらにして辛い運命を背負わせて、お前はきっと子供から憎まれるだろうよ」

 憎むどころか、この世に生まれてきたことすら後悔しないとも限らない。世界を憎み、父親を恨み、孤独感と戦いながら生きなければならないかもしれない。子供にとって、それがどれほどに辛いことか、計り知れない。

 海賊王と呼ばれた男は、ただの父親の顔をして言った。
「どんな言い訳をしたところで、おれの身勝手な言い分にしかならないだろう。だが、この世に生を受けて、一度も嬉しいことがないなんて、そんな筈はない。だからおれはガキを作ったことを後悔するよりも、この先、新しい時代に、おれの子供を包み込んでくれる手があることを祈る」

 そう言って、世界の全てを手に入れた男は、その手にある全てを新しい時代に懸けたのだ。





やがて生まれいずる者へ/title by 天来



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