練習後に軽いダウンを済ませ、汗を滴らせながら靴ひもを解いていく。黒地に赤いラインが入ったバッシュは、弟が見立ててくれたものだった。
 品揃え豊富なスポーツ用品店なぞに行ったことのなかったおれたち兄弟は、まるで小学生が遊園地に行った時のように心躍らせたのを覚えている。サッカー、野球、バレー、ラグビー、スノボ、ゴルフ、登山。何から何まで揃っている広い店内で、他のものに目を奪われることもなく、おれたちはただ一点バスケ用品のコーナーを目指した。
 まずたくさん並んでいるボールを見て思わず浮かれた。橙色の普段よく使っているものもあれば、赤と青と白に彩られたボールもあった。カラフルなボールがあることをそこで初めて知ったおれたちは、それだけで数分笑い転げたものだ。いま思えば何がそんなにおもしろかったのか、ちっともわからないが、なんだかとてもおかしなものを見たような気がしたのだ。
 一頻りボールに騒いだ後に向かったのがバッシュのコーナーだった。壁に並ぶ何種類ものバッシュに目を奪われ、思わず口を開けてしまう。その時の弟の顔は見ていないけれども、おそらく二人して同じ顔でバッシュを見ていたのだろうと思う。
 手の届くところにあるバッシュを片っ端から取っては履き、意味もなくポーズを取ってみたりなんかする。弟は何度も繰り返されるそれを見ながら飽きもせず「おおー!」「すげーかっこいい!」と拍手喝采を上げた。白いのも、黒いのも、青いのも、蛍光色のものも、とにかく手当たり次第に履き散らかした。ひとつ履く度に良い反応を返してくれる弟に調子に乗ってしまったのは紛れもない事実である。終いにはユニフォームの試着までしてバッシュを合わせるおれたちは、店側にとっては本当にいい迷惑だっただろう。
 一通りのバッシュを試し履きして、その中でも特に気に入ったものを履いてみる。一度目は喝采を上げた弟は、二巡目に入ると今度は首を捻りながら「うーん」と唸った。さすがにバッシュの試し履きにも飽きてきたおれとは違って、弟は真剣にバッシュを見る。自分のものを買うわけでもないのにどうしてこんなに真剣になれるのかは疑問であるが、弟はそういう人間だった。
「やっぱりこれ!」
 脱ぎ散らかしたバッシュの中からひとつ拾い上げておれに差し出す。おれは一度履いたそれをもう一度履いて、弟の前に立ってみせた。
「うん。やっぱりそれが一番エースっぽいな!それにしよう!」
 おれのバッシュの買いに来たというのに、弟は自分に決定権があると思っている。
「ばーか。おれのバッシュなんだからおれが選ぶに決まってんだろ」
「じゃあエースはどれがいいんだ?」
 問われて床に脱ぎ散らかされたバッシュを見回す。次に自分の足元に目をやり、鏡に映るバッシュを履いた自分を見る。
 おれは弟の頭を乱暴に掻き撫ぜ、脱いだバッシュをそのままレジに持って行った。
 
 そう、あれは、高校進学の時のことだった。
 年に数回やってきては大暴れして去って行く、まるで台風みたいなジジイが「ほれ、高校進学祝いじゃ」と差し出してきたのはお年玉袋であった。3月下旬。正月ではもちろんない。のし袋という概念はどうやらないらしかった。
 お年玉袋には何年も前に流行った戦隊ものが描かれていた。おれと弟が随分と小さい頃に憧れたものである。10年近くも前に流行ったものであるから、今は何処にも売ってはいないだろう。少し変色しているそれを、ジジイはここぞというときのために取っていたのかもしれない。もう戦隊ものに夢中になる年頃を随分と過ぎてしまっているのだが、そこまで考えは及んでいないらしかった。
 それで好きなものを買えと言われて開けた袋の中には三つ折りにされた万札が3枚入っていた。1万円というのはおれたちにとってはものすごい大金だった。学校で使うものは現物支給されていたし、学校帰りの道で花の蜜を吸ったり、近所の畑にある林檎やら蜜柑やらをくすねてはおやつにしていたため、特に金がいることもなかった。そんなおれの手元に入ってきた3万円。一体どう使っていいかわからなかったが、好きなもの、欲しいもの、と考えてひとつだけ思いついたのがバッシュだったのだ。
 14,490円になります。手慣れた手つきでバッシュを箱に戻しながら店員が言う。なんとなく財布に入れることができずにそのまま持ってきたお年玉袋の中から2枚取り出して渡す。5,510円のお返しです。ありがとうございましたー。
 青いビニル袋に入れられたバッシュを手に入れ、自慢げに笑いながらかざしてみせる。弟はまるで自分のことのように満面の笑みを浮かべた。
 足取り軽く次に向かったのはすぐ近くにあったラーメン屋だ。
「兄ちゃん、いますげー金持ちだからチャーシューメンだって御馳走してやれるぞ」
「エースすげえな!チャーハンに餃子もいけるか!?」
「いけるとも。たらふく食べなさい」
 うおおおお、と目を輝かせる弟に、替え玉を3回までも許してやったのはあれが初めてだった。そしておそらく最後でもある。

 あれが高校進学の時だから、今からざっと2年も前のことになる。とても長かったようにも思うし、あっという間だったようにも思う。
 2年前には新品だったバッシュも今では大分くたびれてきている。また新しいバッシュを買わなきゃなんねえなあ、とは思うが今は懐に余裕がない。臨時収入が入る見込みもないのでもう暫くはこのバッシュで堪えねばならない。靴ひもを緩める手が心なしか少しだけ丁寧になった。

 脱いだバッシュをぶら提げて、体育館を後にする。何人かの部員がちらりとおれを見やったのがわかったが、おれも相手もどちらも声をかけることはなかった。
 他のバスケ部員とうまくやっているかと言われれば、否と答えざるを得ない。いつからだったか、あまり定かではないか、周りの部員たちから疎まれ、やっかまれるようになった。
 さすが、エース様だよな。
 部員たちがそう言っていることは知っている。聞こえる声で言うあたり、隠すつもりもないのだろう。エースという名前と、バスケ部のエース。その両方の意味を含んで揶揄していることはすぐにわかった。
 バスケ部のエースであるという自覚は特になかったが、念願のバスケ部に入ったにも関わらず周りのレベルの低さに愕然としたのは確かだった。強豪校に入学したわけではなかったため、全国屈指の実力があるなんてことは最初から期待していなかったが、それでも、高校のバスケというのはもう少しマシなものだと思っていた。期待外れだ。そんな思いが態度に出ていたのか、周りからの僻みを向けられるようになった。顧問の体育教師にやたらと期待され、特別扱いをされるようになったのも、周りとの溝を深めるのに拍車をかけた。
 好きで続けていたバスケが、だんだんとつまらないものになっていく。掌に大事に溜めていたものが少しずつ零れ落ちていくような感覚に似ていた。どうにかして止めようとするのに、おれはその術を持たない。ただ少しずつだが確実に減っていくのを黙って見ていることしかできない。
 それでもバスケ部を辞めなかったのは、ある希望を抱いていたからだ。二年かけて減り続けたものを止めてくれるもの。もしかすれば減っただけまた注ぎ足してくれるかもしれないもの。
 それが今日、ここに、おれのところにやって来る。
 鞄の中から携帯を取り出して時間を確認する。高速船が港に到着するまであと2時間。時間にはまだ十分な余裕があるが、少しだけ足早になるのがわかった。

 高速船の船着き場に着くと、作業員の男が二人ばかりいるのみでその他に人影は見当たらなかった。
 錆びれたベンチに腰を下ろす。数分も経たないうちに立ち上がって用があるわけでもないのにふらふらと彷徨い、またベンチに戻った。
 これではまるで緊張しているみたいだ。そう思って、ふうと一息吐き出す。なんだって弟に会うのに緊張せねばならんのだ。そんな必要はない。いつもどおり普通に会えばよい。そうわかっているのだが、普通が思い出せない。なんと言ったって2年。2年ぶりなのだ。
 海の向こうに高速船の影が見え始める。その影がだんだんと大きくなり、近づいてくる音が聞こえ始める。柄にもなく鼓動が高鳴るのを感じた。
 高速船が船着き場に到着してすぐに、弟は船から飛び降りてきた。その影を認めて手を振った。
「エース!」
 駆けてくる弟は2年前と少しも変わってはいない。それがとても嬉しかった。
「ルフィ。元気にしてたか?」
「おう!エースも元気だったか?」
「もちろんだ」
 お互いに拳を差し出し、軽くぶつける。これはおれたち兄弟なりの挨拶みたいなものだ。
「ところでルフィ、お前荷物はどうした」
 たった今、高速船から降り立った弟、ルフィはまるで近所の公園にでもやって来たかのような身軽さだった。何と言ったって、手にしているのはバスケットボールひとつのみだ。どう見たってこれから3年間今まで育ってきた場所を離れて寮生活を始める人間には見えない。身軽すぎる。
「船に乗ってる間に全部食べた」
「弁当やら菓子やらの話をしてるんじゃねェよ。服とか身の回りのもんとか色々あるだろ」
「そんなのこっちで揃えりゃいいじゃねェか」
「そんな金ないだろうが。お前本気で全部置いてきたのか?!」
 当たり前だ、と言わんばかりに真面目な顔で頷かれる。なぜそんな自信たっぷりな顔ができるのか兄ちゃんにはわかんねえよ。
 後でマキノに連絡して一通り送って貰おう。心の中で海の向こうに頭を下げた。
「エース!久しぶりに1on1しようぜ!」
 にししし、と笑うルフィにおれはひとつ溜息を吐いてぐしゃぐしゃと乱暴に頭を掻き撫ぜた。

 おれとルフィが育ったのは、人口1,000人程度の小さな島だ。他の島とをつなぐ橋があるわけでもなく、外部との行き来は船舶のみである。古くは漁業が盛んで殆どが自給自足で成り立っていたらしいが、高齢化に加えて過疎化の進んだ今となっては高速船及びフェリーは命綱でもあった。
 子どもの数は年々減り、同学年の子どもが自分を除いて一人いるかどうかといったところだ。義務教育である小学校と中学校に関してはなんとか廃校にならずに少人数ながらに島内で授業を受けることができていたが、高校ともなれば島を出るしかなかった。
 中学を卒業し、おれはルフィより一足早く島を出た。勉学もスポーツも特に秀でたところはない、ごく普通の高校だったが、その生徒数だけでも島育ちのおれは驚かされたものだ。クラス分けなんてものの経験はなかったし、何百人もの生徒が同じ制服を着ているというのは異様な光景に見えた。島を出てからの生活は何もかもが新鮮だった。
 そうして2年が経ち、同じように中学を卒業したルフィが高校進学のために島を出てやって来たのが今日である。
 島での生活は、いま思い返してみると野生児のようなものであった。幼少期から山を駆け回り、狸を捕獲してみたり猪に追いかけられてみたり、蔓に捕まってターザンごっこをしたり、素潜りで獲った魚を晩飯にしたり。テレビゲームはやったことがなかったし、塾なんてものも存在しなかった。
 おれとルフィが初めてバスケに触れたのは小学生の時だ。全校生徒合わせても10人そこそこであったため、サッカーも野球も人数が足りなくて出来なかった。だが、バスケならぎりぎり試合ができる。一年生から六年生まで体格も大きく異なる中で、多少の無理は否めなかったが、それでも初めてやった球技におれたちは夢中になった。
 それからは毎日飽きることもなくバスケに明け暮れた。お世辞にも広いとも設備が整っているとも言えない体育館の、今にも落ちて来そうなボロっちいバスケットゴールに向かってボールを投げた。たまに全校生徒を巻き込んで試合のようなこともやったが、それも月に1、2回のことで、それ以外の毎日をルフィとの1on1で過ごした。
 当時島に異動してやってきた教師はバスケの経験がある男で、おれとルフィはその教師からバスケのルールや技を教わった。たった二人のバスケでは5対5で行われる試合のようにはいかなかったが、それでもバスケは楽しかった。
 小学生から中学生に変わっても、おれたちの生活は変わらなかった。毎日バカの一つ覚えみたいに1on1を繰り返し、たまに島内の子どもや、ごく稀にではあったが大人をも巻き込んで試合のような真似をする。
 何年も繰り返したその日々の中で、ルフィはただの一度たりともおれには勝ったことがない。何度負けてもルフィは凝りもせず挑んでくる。そうして日が暮れて、おれの勝ち逃げが積もっていった。
 ルフィは何度負けても諦めなかったし、僻みもしなかった。体格が違うことを狡いとも言わない。ただ負けた数と同じ分だけ新しい勝負を挑んだ。おれもだんだんと手が抜けなくなって、中学を卒業する頃にはおれも本気の勝負を強いられていた。

「2年間でどれだけ成長したかお手並み拝見だな」
 公園の片隅にあるバスケットゴールの前で、ルフィと向かい合う。地面は土で、コートもなければフリースローラインもスリーポイントラインも一切ない。それでも、リングがあればそれだけで十分だ。
 ルフィが投げて寄越してきたボールをルフィに返す。1on1開始の合図だ。
「いくぞエース!」
「こい、ルフィ」
 一度左にフェイントを入れてから右にカットイン。何度も相手をしてきた分、ルフィの癖はよくわかっている。ゴール下まで切り込もうとするが、おれのディフェンスはそんなに甘くない。だが、ルフィもおれがついて来ることは想定していた。フリースローレーンにぎりぎり入るかどうかというところで切り替えし、ターンシュート。しかも2年前には身につけていなかったフェイダウェイシュートだ。予期しておらず一瞬反応が遅れるが、ルフィの手から離れたボールを空中で弾く。中指に掠ったボールはリングで弾かれ、すかさずリバウンドボールを抑える。
「くっそー!今のいけたと思ったのになー!」
「まだまだ甘えよ」
「フェイダウェイもつい最近やっと出来るようになったのに、簡単に止められちまったしなー」
「つい最近身につけた技でおれに挑んできたのがお前の敗因だな。おれに本気で勝つつもりなら、せめてあと数か月練習積んで自分のものにしておくんだったな」
「くそー!やっぱりエース強えなー!」
「お前も2年前に比べればフェイントが数段上手くなったな。前は、これはフェイントです!って言わんばかりのフェイントかけてただろ。これに引っ掛かると本気で思ってると考えたら相手しながらも可笑しくてたまらなかったくらいだ」
「エースはまたそうやって!ばかにすんな!」
「馬鹿になんかしてねえよ。褒めてんだ。上手くなったなって」
 ルフィは思いっきり頬を膨らませてみせたが、おれがボールを差し出すと、「もう一回!」と勝負を挑んできた。

 日が暮れてボールとリングが見え難くなった頃、どちらからともなく勝負を終えた。人指し指の上で危なげもなくボールを回転させながら、帰途に着く。
「またエースの勝ち逃げかー!」
「兄ちゃんに勝とうなんて100年早えよ」
「エースに勝つためにめっちゃ練習したんだぞ」
「そりゃまあ、お前が練習してる期間、おれも練習してたからな。そう簡単に追いつかれてたまるか」
 ルフィは知らない。島を出たおれがどれほどルフィを待っていたのか。ルフィが懸命に練習したよりもずっと、何かに喰らいつくかのように必死に練習に明け暮れたおれを、ルフィは知らない。
 島にいた時よりもずっと多くの人とやっているはずのバスケで、孤独しか感じられなかったおれを変えてくれる可能性のある人間。つまらないものに変わりつつあるバスケを、掌から零れ落ちていく大事なものを、止められる者がいるとすれば、それはお前しかいない。

 提げていた青いビニル袋をルフィに差し出す。薄暗くてよく見えないそれにルフィは首を傾げた。
「なんだそれ」
「無事高校進学を果たしたルフィに、兄ちゃんからのお祝いだ」
「まじか!開けてもいいのか?!」
「おう」
 ガサガサと袋から箱を取り出し、開けた瞬間ルフィは目を輝かせた。
「エース!これ本当におれにくれんのか?!」
「言っただろ。お前の進学祝いだって」
 おれがルフィに渡したのは、新品のバッシュだった。一緒に選ぶのとどっちにしようかと迷ったのだが、いつぞやのあの店に下見に行った際、一目で気に入ったものがあったのだ。在庫一点限りと書かれたそれを、おれは迷わず購入した。
「めちゃくちゃかっこいいなこれ!すげー嬉しい!ありがとな、エース!」
 ルフィは一点の曇りもない、満面の笑みを浮かべる。おれの財布と預貯金はこれでほぼゼロになってしまったが、「このくらい安いもんだ」と笑う。その言葉に偽りはなかった。

 その夜、おれたちは二人でバッシュを買いに行った時と同じようにラーメン屋に入った。
「おれの奢りだ。ただし兄ちゃんは今あんまりお金が無い」
 と言うと、ルフィは
「金がある時も金が無い時もラーメン屋っておかしくねえか?」
 と首を傾げた。
「おかしくない。金がないから今日はチャーシューメンは禁止。替え玉も2回までだ」
 ルフィはわかったと頷いて、ラーメンにチャーシュートッピングと頼んだ。全然わかってねえ。だが、今日だけは見過ごしてやることにした。





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