御幸一也がどんな奴かと問われれば、多くの者はこう答える。
 眉目秀麗。成績優秀。おまけに名門と言われる青道高校野球部の主将にして4番で将来有望株。
 お世辞にも友人の多い人気者とは言えないが、そんなところでさえ同年代の男子と比べて大人っぽく落ち着いているという好評価を受けるくらいには女子からの人気は絶大だ。
 そんな女子の間でまことしやかに囁かれている噂がある。曰く、御幸一也は大企業の御曹司かそれに近い身分ではないか、と。
 一般家庭に育ってあれほど完璧な人間ができるわけがない。
 どこか浮世離れした雰囲気を感じる。
 それに共感する女子が多かったおかげで、噂は瞬く間に広がった。御幸一也は良家の御子息である。今やそれが学校中の共通認識となっている。

 しかしながら、同じ野球部に所属する彼の一つ下の後輩である沢村栄純は知っている。
 御幸一也は断じて金持ちなどではない。
 それどころか彼は、予想の遥か斜め上を行く貧乏人であることを。



 話は半年近く前に遡る。 
 寮生活で実家を離れている者が盆に帰省することを考慮して、翌日から5日間の休みが与えられた日のことだ。滅多にない休みに、テンションは急上昇。今日は夜通しゲーム大会だ、と修学旅行のような盛り上がりで寮生活の一年メンバーは一室に集っていた。
 ババ抜き、大富豪、UNOと散々カードゲームを繰り返してさすがに飽きて来た頃、罰ゲームをつけようという話になった。言いだしっぺは誰だったか。金丸だったかもしれないし、春市だったかもしれない。どちらにせよ、今思い返してみれば嵌められたのだと思う。
 あの時はババ抜きも大富豪もUNOも何をやっても沢村の全敗だったのだ。
「何で俺ばっかり!さてはお前らグルだな!?」
「ばーか。お前相手にグルになる必要一切感じねえっつーの」
「なにおう!」
「栄純くんはわかりやすいからなぁ」
 金丸と春市の言葉に「そんなことねーし!」と言い返してムキになってしまったが、その言葉を助言として素直に受け入れておけばこんなことにはならなかったのかもしれない。
 結果としてその後も連戦連敗を重ねた沢村に罰ゲームが下されたのは当然の流れだった。

「御幸先輩の実家を見に行くぅ?!」

 予想外の罰ゲームに声を上げると、金丸から「声がでけえんだよ!」とお叱りの言葉が飛んできた。
 罰ゲームと言うからには、コンビニまでダッシュでパシリという名の買い出しに行くとか、女装して先輩の部屋に突撃するとか、無茶ぶりのものまねに応えるとか、一人称をまろにして喋り方もそれに合わせて変えるとか、そういうのを想像していた。ちなみに全て今までに経験済みの罰ゲームである。
 それが何故急に御幸の家を見に行くという話になるのか。話の展開について行けずにいると、「だって」と春市が口を開いた。
「気にならない?」
「何が?」
「噂の真相」
 うわさ?と首を傾げると春市が丁寧に説明してくれた。
「御幸先輩がいいとこのお坊っちゃんだって噂があるんだよ。大企業の御曹司だとか、茶道の家元だとか、世界的に活躍してるファッションデザイナーの親がいるとか、内容はいろいろ違ってるんだけど、金持ちだっていう点では共通してる。それで実際のところどうなのかなーってさ。ちょうど明日から休みだし、御幸先輩も家に帰るでしょ?噂の真相を突き止めるチャンスかなと思って」
「えーそんなのわざわざ家まで行かなくても直接聞けば早いんじゃねえの?」
「御幸先輩が本当のこと教えてくれるかわからないじゃん」
 そう言われてしまうと「確かに」と頷くしかない。「金持ちなんすか?」と聞いて、肯定されても否定されてもその答えを疑うだろう。すぐに人のことをからかってくるのだ。平気で大嘘をついてきたこともある。初日の恨み忘れまじ!である。
 とは言え、今までに受けてきた罰ゲームに比べれば非常に簡単だ。何と言っても家を見てくるだけなのだから。ここで反対してより難易度の高い罰ゲームに変えられるよりはずっとましだ。
「わかった。じゃあ明日見てきて、どんなだったか言えばいいんだな。任せとけ!」 
 大見得を切ったあの時の自分に何か伝えることができるなら、世の中には知らない方がいいこともあるのだということを真っ先に教えるだろう。


 朝食を食べている御幸を捕まえて「俺、御幸先輩の家に行ってみたいんすけど」と言った瞬間、御幸は盛大にむせた。そんなに驚くようなことだろうか。
 更には背後にいた金丸も茶を吹き出したからますます意味がわからない。罰ゲームを課してきた張本人のくせに。そう思っていたら、どうやら帰省する御幸の後をこっそりつけて行って、家の外観だけ見てくるというのを想定していたらしい。
 それならそうと早く言ってくれ。本人に言ってしまった以上、時既に遅しである。
 一頻り咳込んだ御幸に水を渡してやると、一口飲んで大きく息を吐き出した。
「悪い、もう一回言って」
「御幸先輩の家に行ってみたいんすけど」
「………なんで?」
「興味あるからっすかね」
 決して嘘を吐いているわけではない。大金持ちと聞いて、どんな豪邸に住んでいるのか多少は興味があった。
「うち、今日誰もいないかもしれねえけど」
「そうなんすか?まあその方がありがたいっすけど」
 金持ちとの接し方などわからない。長野で近所のおじちゃんやおばちゃんと接していたのと同じようにしてしまっていいのなら別にいいが、そうでないならお互いに気を遣うだろう。
 そう思いながら返すと、御幸は何故か一度大きく目を見開いて、「ほんとにいいのか?」と念を押してきた。
 いいもなにも、押しかけるのはこっちなんだからいいに決まっている。
 真顔の御幸に「もちろんっす」と返すと、覚悟を決めたような顔で「わかった。大事にする」と言った。
 一体何を大事にするのかはよくわからなかったが、とりあえず家に行くことは了承してくれたらしい。

「お前が俺の家に来たいなんて言うと思ってなかった」
 家へと向かう道すがら、何故か嬉しそうな御幸が言った。まさか罰ゲームなんで仕方なくと言うわけにもいかず、「前からずっと気になってたんで」と適当なことを返せば、「え、あ……そう?」と挙動不審な反応を見せる。
 心なしか顔が赤い気がするが、恐らくこの炎天下のせいだろう。なんせ気温は35度を越えている。
「あちー。御幸先輩、コンビニ寄ってアイス買いやしょうよ」
 照りつける日差しに限界を訴え、冷房のきいたコンビニに避難する。立っているだけで汗が滲み出てくる暑さから一時的に解放され、身体の火照りが収まるまで店内を彷徨う。
 どのアイスにするか物色していると、隣に立った御幸が「決まったか?」と聞いた。
「ガリガリくんにしやす。金ないし。御幸先輩は?」
「俺はいい」
 こんなに暑いのに。と思ったが、普段から御幸はあまり間食をしない。コンビニへの買い出しも倉持を始めとする他の先輩はあれこれと買ってくるものを指示してくるが、御幸から何かを頼まれた覚えはなかった。
 金持ちになると庶民の味とは味覚が合わなくなるものなんだろうか。いや、でも食堂ではみな同じメニューだ。ただ単に欲しくないだけか。
 自分の分だけ買ってコンビニを出る。すぐ外にあるゴミ箱に袋を捨て、ソーダ味のアイスに噛り付いた。口の中に冷たさが広がり気持ちがいい。
 完全に手持無沙汰な状態で隣に立つ御幸に、なんとなく申し訳ない気がしてアイスを差し出す。
「一口、食べます?」
 いらねえかな、とも思ったが御幸は「サンキュ」と言って一口齧った。やはり口に合わないわけではないらしい。
「あっ!」
「どうした?」
 しゃくしゃくと大口でアイスを頬張り、何事かと首を傾げる御幸にアイスの棒を見せる。
「当たり!」
 そこには焼印で一本当たりと書かれている。ニッと笑うと、御幸も笑みを返した。
 どうやら今日の運勢は良好のようだ。未だ見ぬ御幸家への期待値が否が応にも上がっていく。
 豪邸とはどんなものだろうか。沢村の頭に真っ先に思い浮かんだのは純和風のお屋敷だったが、洋館ということもあり得る。御幸にはどちらでも似合うような気がした。

「着いたぞ」
 御幸の声にハッとして前を見る。そこにあったものに沢村は目を瞬かせた。
 いやいや。そんな筈はない。あまりの暑さに蜃気楼でも見たのだろうか。
 一度目を閉じて頭を振る。気持ちだけリセットして、もう一度目を開ける。目の前にあるものは先程見たものと寸分も違わずそこにあった。そりゃそうだ。いくら暑くても砂漠じゃあるまいし蜃気楼などこんなとこで見るわけがない。
 ということは。えーっと。どういうことだ。
「御幸先輩、これは?」
 目の前のものを指差しながら問えば、御幸は一切ふざけた様子もなく「俺の家だけど」と答える。
「またまたぁ!いくらなんでも俺だってそんな冗談に騙されやせんよ!」と返すよりも早く、御幸は戸を開けて中に入っていく。
 え、マジで?
 御幸が自分の家だと告げたそれは、木造平屋建ての築50年は確実な一軒家だった。ガラスは何ヵ所か割れてガムテープで補強されており、壁にも板を釘打して修復した後が幾つもある。先ほど御幸が開けた玄関と思われる木製の引き戸にはシリンダー錠はついておらず、後からつけられたのであろう南京錠がぶら下がっている。
 そんなバカな。ウサギ小屋じゃあるまいし。
 自分だって特別裕福な家庭に生まれ育ったわけではない。土地の安い田舎であるため庭付き一戸建てではあったが、それにしたって違いすぎる。あの田舎でさえ玄関にはちゃんと鍵があった。鍵をかけるかどうかは別として、だが。
 玄関前で立ち竦む沢村に、御幸は「入らねーの?」と聞いた。
 どうやらふざけているわけでも冗談を言っているわけでもないらしい。

 人の噂は当てにならない。
 それを身をもって体験した瞬間だった。

 家に上がると、内装も外観に劣らないものだった。もちろんいい意味では決してない。
 適当に座っててと促されるまま、真ん中に卓袱台の置かれた六畳間に座る。「何で正座?」と御幸は笑ったが、胡坐をかくにはなんとなく居た堪れないものがあったのだ。正座でなければ体育座りをしただろう。
「驚いただろ?」
 そう言われて、肯定していいものか少し迷った。実際には驚くなんて生易しいものではない衝撃だ。
「別に隠してるわけじゃないんだけど、進んで言うようなことでもないだろ。そしたら変な方向に噂が広がっていっちゃってさ。否定するのも面倒だし、別に害もないから放っておいたら現実とどんどん乖離していっちゃったんだよなー」
 本人は然して気にも留めていない様子で軽く言う。
「他の人はみんな知らないんすか?」
「高島先生は知ってる。スカウトの時一回来たし。他はお前だけ」
「俺だけ」
 繰り返すようにそう呟くと、御幸は微笑んで「うん」と頷いた。
「隠してるわけじゃないとは言え、知られて嬉しいものでもないし。でもお前には知っておいて欲しかった」
「なんで」
「なんでだと思う?」
 その問いに初めに浮かんだのはバッテリーだからだった。
 バッテリーとは信頼関係だ。お互いのことをよく知っておいた方がいいだろう。
 しかし悲しいかな正捕手である御幸がバッテリーを組むのは控え投手の沢村ではなく現エースの降谷の方が圧倒的に多い。まさか今後エースの座につくことを期待してくれているのだろうかという考えが頭を過ぎるが、すぐさま否定した。御幸がそんな風に考えるとは到底思えないのだ。
 そのほかにこれというものも思いつかず頭を捻っていると、御幸は「わかんねえか」と笑った。
「わかんねえっす」
「それはね、沢村」
 御幸は正座したままの沢村を見つめて、ふと目を細めた。
「お前のことが好きだからだよ」

 オマエノコトガスキダカラダヨ。
 おまえのことがすきだからだよ。
 おまえの、ことが、すき、だから、だよ。
 おまえって、つまり俺のことだよな。
 俺のことがすき。
 好き?
 好き?!

 言われた言葉を反芻して、思わず「はいぃ?!」と叫んだ。声が裏返ったのは致し方ないだろう。
「いやいやいやいや!俺男ですし?!」
「そうだな」
「そうだなじゃなくって!」
 何でこの人こんな落ち着いてんの。こっちはわけがわからず頭の中がぐちゃぐちゃだというのに。
 俺は男で、言うまでもなく御幸も男だ。ということは御幸はホモだったってことか。
 いや、まだそうと決まったわけじゃない。そもそも好きってのには色んな種類があって、俺の早とちりってことも十分にあり得る。いや、そうだ。そうに違いない。
「あれですよね。後輩っていうか仲間として好きってやつっすよね」
 言いながら、そんなわけないという声が頭の中に響いた。仲間としてなら、それこそ俺だけということの説明がつかない。
「いや。俺はお前とキスしたいしセックスもしたい。そういう好き」
「ぎゃー!」
 とりあえず叫んだ。そりゃ叫ぶわ。叫ばずにいられるか!
 少しはオブラートに包むとかそういうことしてくれてもいいのではないか。いや、包まれたところで同じことか。やらしい目で見てたとか言われても嫌なものは嫌だ。
 思わず自身の身体を抱きしめる。今まで風呂で一緒になることもそれなりにあった。実は知らないうちに身の危険が迫っていたのかもしれない。

「こんな風に打ち明けるつもりはなかったんだけど」
 それならいっそのこと一生打ち明けないでもらいたかった。何でその決心揺らがせちゃったんだよ。
「お前がこんな風に俺に興味持ってくれたの初めてだったから、嬉しかったんだよ」
 あ、揺らがせた原因俺じゃん。これやばいやつだ。罰ゲームですなんて、いよいよ言い出せない。
「その上、突然誰もいない家に来たいとか言い出すから、もしかしてお前も同じ気持ちなんじゃねえかと思ってさ」
「いや!あの!それはですね?!」
 それだけは否定しておかなければなるまい、と口を開けば、御幸は「わかってるよ」と苦笑した。
「お前にはそんな気なかったんだろ?単なる興味本位っつーか。噂の豪邸見たさってやつ」
「すんませんっした」
 素直に謝り、頭を下げれば、正座をしているせいで土下座みたいになった。この間抜けともいえる体勢でもって許してはもらえないだろうか。

「でも、きっかけがどうあれ、実際に誰もいない部屋に来たのはお前だぜ?」

 頭を上げると、御幸はにやりと笑った。そのまま沢村の横に手をつき、顔を近付けてくる。
「は……え、あの……」
 戸惑っているうちに更に近づいてきた顔に思わず左手が動く。じいちゃん直伝のビンタだ。沢村家はビンタに始まりビンタに終わる。そうやって育てられたのだ。思わず動いてしまったものは仕方ない。
 すんません!と先輩相手に手が出るのを心の中で謝りつつ左手の動くままに任せていると、自分でも無意識に動かしていたそれを御幸は難なく右手で制した。
 球だけじゃなくてビンタまでキャッチとは。さすが我らが天才キャッチャー!
 ってそうじゃなくて!
 御幸が左手を掴んだまま顔を近付けてきた。右手は仰け反った身体を支えるために後ろについている。制止するために右手を使えば、そのまま後ろに倒れるのは確実だ。
「目、閉じろよ」
 吐息が唇にかかるほどの近さで御幸が言った。いつもの声と違う、なんというか、男のひとの声だった。
 いや、別に普段が女声だとか言っているわけではない。そうじゃなくて。なんだろう、いろっぽいというか。
「閉じないならこのままするけど」
 あと数センチという距離を御幸が更に詰めてくる。思わず息を止めた。
 そして。
 
「いってえええええ!」
 ゴン!という思いの外大きい音とともに沢村は後頭部を抑えた。
 唇がくっつく寸前で御幸を止めるため沢村は右手を出した。いくらこの状況を呼び込んだのが自分であるとはいえ、男同士のキスなんてそんな簡単に受け入れられるわけがなかった。
 しかし支えとなっていた右手を出したため、当然に沢村の身体は後ろに倒れた。
 倒れる瞬間、御幸が左手を掴んでいたため床に激突するところまではいかないかも、と淡い希望を抱いたが、こともあろうに御幸は倒れる瞬間その手を離した。巻添え喰らうのは御免だといわんばかりの動きだった。なんて奴だ。
 手を離されてしまえば沢村を支えるものは何もなく、床と頭の間に障害物は何もない。そのまま勢いよく後頭部を強かに打ち付けるまでに一秒もかからなかった。
 頭を押さえてのたうち回る沢村を見ながら、御幸は抑え切れないように笑っている。
 痛みで涙目になりながら御幸を睨んだ。
「からかったんすね!」
「わるかったって」
 打ち付けた後頭部にたんこぶができていないか、そっと撫でて確認する御幸はまだ笑いが収まらないようで肩が震えている。
「俺のこと騙すのそんな楽しいっすか?!」
「いや、騙してはねえけど」
「はあ?!だってアンタさっき好きとかなんとか言ってたじゃねえか」
「だから騙してないって。お前のこと好きなのはホント。無理矢理どうこうしようとは思ってないだけで、キスとかセックスとかしたいのもホント。さっきのはお前があまりにも簡単に男の家に上がるから、ちょっとお仕置きしとこうと思って。ま、拒否されなかったら本気でやってたけどな」
 その言葉に思わず後ずさる。御幸はその行動を予測していたらしく、それでいいと言わんばかりに口角を上げた。

「つかぬことをお伺いしやすけど」
「なに」
「御幸先輩はホモなんすか?」
 問えば、御幸は「んー」と一頻り考えて、「さあ?」と答えた。
「さあってなんすか」
「だって俺、お前以外の男好きになったことねーし。思えば女も好きになったことないんだよな。あれ?ってことはこれもしかして初恋だったりする?」
「いや、知りやせんけど」
 聞かれたところで人の恋愛遍歴など知るわけがない。興味がまったくないというわけでもないが、それだって野次馬の域を出ない。
 御幸も「そうだよなあ」なんて、間の抜けたことを呟いている。

「で、どうする?」
「なにがっすか」
「お前が今日ここに泊まるってんなら俺もやぶさかではないんだけど」
「慎んでお暇させていただきやす!」
 はっきりとそう告げると、御幸は「それは残念」と笑った。とてもじゃないが残念がっているようには聞こえない。やはりどう考えてもからかわれているとしか思えない。
「あ、でも帰るのちょっと待って」
「なんすか」
「今日卵特売日でさ、おひとり様1パックまでなんだよ。お前いれば2パック買えるじゃん。だからちょっと買い物付き合ってくれよ」
 その言葉に、さっき当たったアイスの棒は置いて帰ろうと沢村は思った。





「沢村、来週の土曜暇?」
 その日は青道野球部にとっては非常に珍しい一日オフだ。なんでも、業者が点検に入るとかで、グランドの使用が止められている。
「はあ、まあ暇っすね」
 夕食を大方平らげたところで、向かいに座っていた御幸から投げられた問いにそう返すと、御幸は満足そうに微笑んだ。彼に心酔する女子が見たら卒倒しそうな微笑みだったが、幸か不幸か沢村は男だ。無駄に振り撒かれたところで何も響いてきやしない。

「じゃあ一日俺とデートしよ」

 御幸が噂されているような良家の御子息などではなく、それどころか超がつくほどの貧乏人であることを知った日から、御幸は何度か沢村をデートに誘った。その誘いは二か月に一度あるかないかといったくらいで決して頻繁なものではない。普段は野球漬けの生活を送っているため、出掛ける時間も殆どなかった。
 デート、と御幸は言うが沢村はデートだとは少しも思っていない。
 それは付き合ってないからとか、男同士だからとか、そんな理由からではない。

「今度は何の特売っすか」

 理由はこれに尽きる。
 御幸が沢村を誘うのは必ず何かの特売日と決まっている。それも一人当たりいくつまでと個数制限が掛けられているときだけだ。一人で行くより二人の方がお得。そう考えているのは明らかだった。
 御幸が貧乏と知っているのは部員では沢村だけであるため、それに付き合うのは必然的に沢村の役目となる。

「お前ね、特売以外では誘わないみたいに言わないでくれない?」
「それ以外で誘われたことありやしたっけ?」 
「………なかったっけ?」
「ないっすね」

 別に特売以外の理由で誘われないことに不満を抱いているわけではない。むしろそうである方が沢村にとっては都合がよかった。
 あの日御幸から告白を受けたことを忘れてはいない。ただどこまで本気でどこまでが冗談なのかがわからずにいる。
 御幸の態度は以前と何も変わっていない。割と頻繁に人を小馬鹿にするようにからかってくるところも、野球に関しては真剣であるところも、球を受けてくれと頼んでもなかなか受けてくれないところまでも、普段の生活はすべて今までどおりだった。
 まるで何事もなかったかのように何ら変わりなく接してくる御幸を見ていると、全て冗談だったのではないかと思える。
 何か変わったところがあるかと言えば、たまにこうしてデートに誘ってくることくらいだ。そのデートだって、特売に行くことが目的で、デートらしいことはなかった。
 手を繋ぐこともなく、あの日みたいにいつもと違う声で囁かれることもない。
 つまるところ、御幸が言うところのデートがあくまで特売に行く以上の意味を持たないのであれば、あの告白は100%冗談だったということで落ち着くのだ。
 もうすぐ半年が過ぎようとしている今、あの日の出来事は沢村の中で薄れつつあった。 

「今まではそうだったかもしれねーけど、今回は違うからな」
 少しだけ真面目な顔をして言った御幸に、沢村は「いや別に無理してくれなくていいっす」とだけ返した。


 2月に入ってからというもの、女子の間で頻繁に話題に上がる事柄がある。
 曰く、御幸先輩にチョコ渡したいけど受け取ってもらえるかな、ということだ。一年女子の間でもよく話題に上っているのだから、上級生たちの間でも同じように盛り上がっていることだろう。
 事実を知ってしまった沢村とは違い、女子の間での御幸一也金持ち説は健在だ。

 バレンタインにチョコを渡したいけど、安物では口に合わないだろうし、素人の手作りなんて渡せたものじゃない。でもそんな高級チョコなんて買えないし、どうしたらいいんだろう。

 そんな話を聞く度に、沢村は噂というのは恐ろしいものだなと思う。現実の御幸一也は貧乏人で、金持ちとは程遠い生活をしている。噂が広まるほど本物の御幸一也とは別の人間が作り上げられていくようだった。
 本物の御幸はチョコを渡されれば安物だろうと喜んで受け取るだろう。だってタダなのだ。特売なんぞに頼らずとも一年間で最も楽に食糧確保ができる日である。甘いもの限定ではあるが。
 ホワイトデーのお返しは期待しないでね、とかなんとか言いながら微笑む御幸が容易に想像できてしまう。その笑顔のうさんくささといったらない。
 いま噂している女子の全員とはいかないだろうが、御幸はチョコを大量にもらうだろう。女子に囲まれる御幸を想像して、イケメンも大変だなと思う。いや、この場合よかったのか。
 とにかくバレンタイン当日は御幸にあまり近づかないでおこう。そう考えたのと、今年のバレンタインが御幸の言う「来週の土曜」であることに思い至ったのはほぼ同時だった。
 

 2月14日、土曜日。
 いっそ外出できないほどの大雪か土砂降りになってしまえと思っていたが、哀しいかなお出掛け日和の快晴だ。思えば昔から自分は晴れ男だった。運動会も遠足も旅行も雨が降った覚えが一度もない。
 日課となっている朝のランニングを終え、食堂で朝食をとった後、御幸は「9時出発な」とだけ言って部屋に戻った。
 支度を終え、9時ちょうどに部屋を出ると御幸もちょうど下りてきたところだった。
 外出用にいつもと違う恰好をしている御幸は、その着ているものが全て古着屋であったり激安店で売られているものであることを知っている。だが、顔とスタイルさえ良ければ安物の服もブランド物に見えるらしい。
「行くか」
 そう言った御幸に、
「結局今日はどこの特売なんすか?」
 と聞くと一気に脱力したように肩を落とした。
「俺は一体お前に何だと思われてんの」
「特売日に連れ回してくる先輩」
 思っていることをそのまま告げると、じとりとした目で見られた。
「今までそうだったかもしれねえけど、今日は違うからな」
 覚悟しとけと言わんばかりの表情で御幸が取り出したのは映画のチケット2枚だった。
 いつだったか、まだ公開するより前に一度だけ話題に上ったことがある。
 少し興味がある。でもオフなんてなかなかないし、きっと観には行かないだろうな。
 そのときそれ以上掘り下げることのなかったそれを今唐突に提示されて沢村は目を瞠った。
「上映は10時半からな」
「えっ?!ってそれ、チケット!どうしたんすか?!」
「どうって?」
 訊きながらも、それは御幸が買ったものだとわかっていた。殆どないオフの日に、以前に話題にした映画のチケット2枚。そんな都合よく人から貰うわけもない。漫画ではよくあることかもしれないが、今まで誰かから映画のチケットを貰ったことはない。現実には早々あることではないのだ。
「チケット代払いやす!」
「いい。いらねえ」
「いらねえって、あんた、だって」
 そんな金の余裕ないだろ、と言ってしまっていいのかわからず口を噤む。
「いいんだよ。俺がしてやりたかっただけなんだから」
 そう言って歩き始めた御幸を追いかけるようにして隣に並ぶ。なんとなく、それ以上言ってはいけないような気がして、「ありがとうございます」と礼だけ伝えると、御幸は「うん」と満足そうに頷いた。

 映画館に着くと、ドリンクにポップコーンまで奢られた。
 正直、映画どころではなかった。ストーリーなど頭に入って来ない。沢村の頭に浮かぶのは、今日の御幸は一体どうしたのか、そのお金はどこから来ているのか。そんなことばかりだ。
 映画代とドリンク、ポップコーンだけで何を大袈裟なと思われるかもしれないが、決して大袈裟ではない。今までの「デート」が如実にそれを物語っている。

 一度目は沢村にとって恐怖体験だった。スポーツ用品の特売に行った帰りのことだ。喉が渇いたし、どこか寄って行こうという話になったとき、御幸が「それならいいところがある」と言い出した。オススメのお店でもあるのだろうか、と少しだけ期待を胸について行った沢村が連れて行かれたのは、あろうことか献血センターだった。
 社会貢献ができて、なおかつ飲み物は飲み放題。お菓子も自由に食べていいなんて良いところだと思わねえ?
 そう語る御幸は心なしか目を輝かせているように見えたが、沢村に言わせれば「まったくもって、これっぽっちも思わねえ!」である。
 沢村は昔から注射が大の苦手だった。
 予防接種の注射でさえ大嫌いなのだ。献血用の注射針の太さには目を疑った。見た瞬間、「無理!そんな太いの入るわけない!絶対無理!」と叫び、御幸に「大丈夫だから」と抑えつけられた挙句、看護師さんに遠慮なくブスリと刺された。少しの迷いもない手つきだった。手慣れているだろうことはわかったが、少しくらい躊躇して欲しかった。
 抑えつけてる時の御幸がやたらと楽しそうだったのはとりあえず見なかったことにした。

 もう二度と献血には付き合わない!と誓った二度目の「デート」ではごくごく普通の喫茶店に入った。最初が最悪だったために、それだけのことで少しばかり感動してしまった。しかしその感動は瞬時に終わりを告げた。
「ご注文は?」
 店員に問われ、自分の飲みたいものを告げる。「御幸先輩は?」と問うと、間を置かず「水で」と答えた。
 外国でも高級レストランでもない普通の喫茶店のメニューにミネラルウォーターは存在しない。つまりは無料サービスで出される水のことを指しているのであろう。
 困っている店員に沢村は「コーヒーください」と告げた。その瞬間、御幸がものすごい勢いで沢村を見る。
「俺が払いやすんで」
 そう言うと、御幸は少しだけ戸惑うような顔をした。
「50球でどうすか?」
 御幸は暫し迷って、ためらいながら口にした。
「ウインナーコーヒーにしてもいい?」
 80円の値上げに、沢村は「60球で手を打ちやしょう」と返した。
 その後の自主練で約束の60球を受けて貰おうとした沢村に、御幸は「今日は結構投げてるからあと20球な」と返した。まさかの分割払いだった。

 今までに御幸と二人で「デート」なるものをしたのは以上の二回で、今回が三回目となるわけだが、御幸がどれだけ貧乏人なのかを知るには十分だった。
 お茶すらする金もなく特売に連れ出された沢村が御幸を「特売日に連れ回してくる先輩」と認識するのはやむを得ないことだった。これで色恋を意識しろという方が無理がある。
 沢村の中での御幸一也は超がつく貧乏人である。その御幸が映画代を二人分も支払い、更には飲み物とポップコーンまで奢るというのは天変地異が起きたも同然だった。一体何が起こっているのかと問い質したくなる。
 野球漬けの毎日でバイトなんてする時間はない。突然金回りがよくなるなんて、いかがわしい商売に手を出してやしないかと心配にすらなる。

 映画館を出ると、御幸は最初から決めていたように次の目的地へと向かった。辿り着いた場所は小洒落たカフェで、そこに入ろうとした御幸を「ストップ!」と引き止める。
 なに、と首を傾げる御幸に、「ここで食うんすか?」と聞くと、ピンと来たらしく「俺が払うから気にすんな」と言う。
 完全に間違った方向に持って行きやがった。あんたが払うから気になるんだよ!
 御幸の腕を引いて、その場を離れる。すぐ近くの公園で、空いていたベンチに座らせた。
「あんた、今日どうしちゃったんすか?!」
「どうもしねえよ」
「どうもしないわけあるか!何もかもいつもと違いすぎる!」
「だから言っただろ。今回は違うって」
「確かに言ってたけど!」
 ベンチに座った御幸は真正面に立つ沢村に手を伸ばし、その手を掴んだ。
「沢村。今日、不満だった?映画とか、さっきの店とか、気に入らなかった?」
「べつに、そういうわけじゃねーっすけど」
「じゃあ、なに?」
 沢村は御幸の隣に腰を下ろした。
「あんたがやたらと俺のために金使おうとするから。あんたにとっては多分、人より大事な金のはずだろ」
「いいんだ」
 なにが、と少し怒りを込めながら隣に座る御幸を見れば、御幸はとても満ちたような顔をしていた。
「お前のためだからいいんだ」

 御幸のその表情と、普段よりずっとやさしい声音に言葉が出せずにいると、御幸はまるでいとしいものを見るかのように目を細めた。
「前にも言ったけど、俺はお前のことが好きだよ。はじめてなんだ。誰かを好きだと思うのも、こんな風に誰かに何かをしてやりたいって思うのも、全部お前がはじめてなんだ。沢村、お前だけなんだよ」
 二人の距離は御幸の家に行った時と然程変わらなかったが、今回は御幸から距離を取ろうとは思わなかった。
「アンタ、あの日以降ずっとそんな素振りなかったじゃん」
「それは俺にとってもお前にとっても野球が一番だから。極力野球に影響がありそうなことはしたくなかったんだ。でも今日は特別な日だから」
「特別?」
 御幸は一つ頷いて、コートのポケットからラッピングされた長方形の箱を取り出した。ん、と沢村に差し出す。
「なんすか?」
「バレンタインのチョコレート」
「はい?!」
 受け取ってしまったそれと御幸を交互に見る。
「これ、御幸先輩が買ったんすか」
「もちろん」
「恥ずかしくなかったんすか。女ばっかだったでしょうに」
「まあまあ恥ずかしかったな」
 御幸が一人で女ばかりのチョコ売り場に並んでいるのを想像する。うまく想像できなくて、なんだか合成写真みたいな映像が浮かんだ。
「その時の光景誰かに見られてたらすごい噂になりそうっすね。女子から大量にチョコを貰ってる御幸先輩が男の後輩にチョコ渡してるなんて」
 噂どころか、悲鳴までもが響きそうだ。
「俺今年はチョコ一つも貰ってないけどな」
「へ?いや、でもすげー噂されてたっすよ?!」
 2月に入ってからその噂を聞かなかった日はない。どんなチョコなら、どんな風に渡したら受け取って貰えるのかと悩んでいたことを知っている。噂をしていた全員ではないにしろ、渡そうとした者は多くいたはずだ。
「今年は本命からしか貰わないって決めてたからな」
 渡されなかったのではなく、あくまで受け取らなかったらしい。
 じっと見つめてくる御幸に、沢村は言葉を詰まらせた。
「沢村は俺にチョコくれねえの?」
「……そんなの、準備してるわけないじゃないっすか」
 御幸は最初から期待していなかったかのように「だよな」と言って笑った。

「御幸先輩は、その、ほんとに、俺のこと好きなんすか?」
 自分で言いながら、なんだかとても恥ずかしいことを聞いている気がしてくる。しかし御幸は茶化すこともなく「好きだよ」とだけ返した。
「それは、その……そういう、あれなこともできちゃうような」
 直截的な言葉を口に出すことへの羞恥心から指示語ばかりとなってしまったが、御幸には伝わったらしい。
「うん。お前には悪いけど、できるよ」
「こんなどっから見ても男でしかない身体で、あの、あれは」
「勃つかって?」
「うっ」
 自分が訊こうとしたとはいえ、こうも直截的な言葉で言われるとキツイものがある。
「試してみるか?」
「結構です!!」
 男同士のあれそれは出来れば知りたくなかった。
 沢村の反応が面白いのか、御幸は肩を震わせている。
「お前ってやっぱり期待を裏切らないのな。すげー猫目になってるし」
 一頻り笑う御幸に、沢村はからかわれているように感じて頬を膨らませた。
「つーか!今日の金どっから出したんすか!」
「あーあれ。今までのちょっとずつ貯めてたやつ、使っちゃった」
「使っちゃったって!あんなことのために!」
 なにも、あんな風に使わなくたって、他の使い道がいくらでもあったはずだ。
「俺にとってはあんなことじゃなかったんだよ」
 御幸の目が沢村を見据える。
「沢村。お前が俺のことそういう風に見てないことはわかってるんだけど、それでも言わせて。俺はお前が好きだよ。今の俺が持っているものなんて殆ど何もなくて、お前にあげられるものも今日みたいなのが精いっぱいだ。でも、この先プロになって、年収何千万とか、もしかしたら億とか稼ぐようになるかもしれない。その将来を全部お前にやるから、それを担保に俺が卒業するまでのお前の一年、俺にくれない?」
 御幸の真剣な表情と言葉は沢村の奥に大きく響いた。
 自分は決して同性愛者ではない。御幸が沢村を想うように御幸のことを想えるかと問われれば、今この瞬間においては否と答えるしかない。
 それでも、今持っているものだけでなく、これからのすべてをと言ってしまう御幸に、なんだかよくわからないが一緒にいてもいいかもしれないと思ってしまった。それがただの同情なのか、それとも自分で気付いていないだけで少しは愛情が芽生えているのか、それはわからない。わからないから、ただ切り捨ててしまうのはよくない気がした。
「……一年でいいんすか?」
「一年後、お前が俺と一緒にいてもいいって思えるなら、その時お前の人生俺に売ってよ」
「俺の人生高いっすよ」
 そう言うと、御幸は笑って言った。
「じゃあ頑張って稼がねえとな」

 立ち上がって「腹減ったなー」と零す御幸に、にやりと笑って言う。
「今日の昼飯は御幸先輩の奢りっすよね?」
「そのつもりだけど、お手柔らかにお願いします」
 何を言われるのかと構える御幸に、沢村は思いっきり叫ぶ。
「俺、牛丼食いたいっす!」
 予想外の応えに驚いた顔をする御幸に、沢村は笑った。



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