「御幸にさ、一緒に住まないかって言われたんだ」

 嬉しさと気恥ずかしさを隠そうとしてだろう、ややムスッとした顔で言われた言葉に「よかったじゃねえか」と返しながら、俺は妙に冷静な頭でとうとうカウントダウンが始まったのかと思った。



 10

「お前いつ引越しするって言ってたっけ」
 組み立てられていない段ボール箱が片隅に鎮座している部屋で、野球雑誌を捲っている沢村に問う。
「来月の20日。入居開始がその日で、御幸ができるだけ早く一緒に住みたいからって」
「そりゃお熱いことで」
 毎度のことながら惚気をくらったかと思えば、沢村は雑誌から顔を上げた。
「なあ、ほんとに、ほんとーに、一緒に住まねえの?」
 付き合っている男との同居を打ち明けられた日から数か月。今日までにもう何度この言葉を聞いただろうか。そしてあと何度聞くのだろうか。
「借りる部屋広いし、一人増えたって今よりずっと広々と生活できると思う。御幸も、本気ならちゃんと考えるって言ってくれてるし」
「くどい」
 一言そう返すと、ぐっと口を噤んだ。
 開かれた野球雑誌に写っている男と目が合ったような錯覚を覚えて、非常に居心地が悪い。
「何が楽しくて毎日目の前で惚気られなきゃなんねえんだっての。こっちからしたら地獄だ、地獄」
 まるで捨てられた子犬のような目で見てくる沢村に、それは俺の方だと言えもしない言葉を腹の奥底に押し込んだ。

 人形館(ドールハウス)と呼ばれる場所がある。
 そこでは人形(ドール)、いわゆる人型アンドロイドが生み出されている。人形師によって目覚めさせられた人形は、時に子どもの遊び相手として、時に身寄りのない老人の話し相手として、人とともに生活している。
 絶対数が少なく非常に高価とされているため、普通に生活していて目にする機会は殆どないが、それは確かに存在していた。

 倉持洋一は一人っ子だった沢村栄純の遊び相手として目覚めた、子型機械人形(チャイルドタイプアンドロイド)だ。
 沢村が2歳の頃に彼に与えられた人形は15歳ほどの外見で、沢村が19歳となった今もその外見に変化はない。初めて会った時には腰より少し上くらいしかなかった子どもは、いつの間にかその身長を追い越し、今では10㎝近く引き離されてしまっている。
 人とともに生活し、人と同じ感情を抱きながらも、人形が人と同じように成長することはないのだ。

「ずっと一緒にいたのになあ」

 2歳だった沢村が大きくなり、高校進学と同時に家を出ても、大学生となっても、倉持は沢村とともにいた。
 理由は唯一つ。倉持が沢村のために目覚めた人形だからだ。



 9

 カウントダウンが始まった日から、倉持はよく昔のことを思い出す。走馬灯という言葉が頭を過ぎって、そんなのまるで人間みたいじゃないかと自嘲する。
 人形師の手によって目覚めた倉持が最初に見たのは、目をまんまるに見開いて驚きに間抜けな顔をした2歳となったばかりの沢村だった。
 何一つ説明を受けなくても、自分がそいつのために目覚めたのだとわかった。原理などわからない。人形にその言葉を使うのは間違っているような気がしなくもないが、例えるならそれは本能と呼ぶべきものに最も似通っていると思う。

 小さい頃の沢村はとにかくやんちゃな子どもだった。
 身体の重心が安定しなかった頃は外に出れば必ず転んでたくさんの擦り傷をこさえた。その度に泣き喚き抱き上げて連れて帰るのが倉持の仕事で、何度連れ帰っても懲りずに外に駆け出しては転んで抱っこ、の繰り返しだった。

 小学生に上がるより少し前から、沢村は転んでも泣かなくなった。
 初めて泣かなかった日のことを倉持は今でも鮮明に思い出せる。空地には秋桜がたくさん咲いていて、それに気を取られたらしい沢村がよそ見をしていて段差も何もないところで転ぶ。そこまではいつもどおりだった。
 泣き出すのと同時に抱き上げようと近づけば、地面に両手をついてむくりと顔を上げる。そうしてそのまま立ち上がって、手や足を確認したあと、ころんだ、と怪我を見せてきた。
 その瞬間の気持ちが何なのかあの頃の倉持にはわからなかった。喉元に何かが引っ掛かって飲み込めないような気持ち悪さと、腹の底がぐるぐるするような不快感。
 それらをすべて無理矢理抑えつけて、擦り傷のついた手の平を出しながら見上げてくる沢村にやっとのことで「いたかったな」とだけ返した。
 あの時にはわからなかった気持ちが、今の倉持にはわかる。
 あれは微かな焦燥感を孕んだ寂寥感だ。
 成長するにつれて、自分の腕から徐々に離れていく。はっきりとした成長を目のあたりにして、わかっていたはずのそれを初めて実感した瞬間だったのだ。

 沢村はその後も何度も転んでは傷をつくった。何もないところで転んだり、溝に落ちたり、田んぼに落ちたり、木から落ちたりと、どうしてそんなことになるのかと思うほどに毎日飽きもせず傷をこさえた。
 泣き喚く沢村を抱き上げることはなくなったけれど、傷の手当をするのは変わらず倉持の仕事だった。
 今でこそ手当をすることもめっきりなくなったが、きっと子どもの傷の手当だけは他のどの人形よりも上手いだろうと思う。

 

 8

 人形師によって目覚めた人形には役目がある。倉持にとってのそれは一人っ子である沢村の遊び相手となり、兄弟となり、一番近くで見守ることだった。
 役目を果たすまで、人形は人の側に添い続ける。
 そうして役目を果たしたら人形館に戻り、目覚める前までと同じように眠りにつくのだ。
 倉持が役目を終えるとき、それは沢村にとって倉持が一番近しい存在ではなくなったときだ。



 7

「お前は荷造りをしてんのか、それとも散らかしてんのか、どっちだ?」
「荷造りしてるつもりだったんだけどなあ」
 ひとつだけ組み立てられた段ボール箱の中には何も入っておらず、その周りには物が散乱している。散らかった部屋の中で、沢村は床に座ってアルバムを捲っていた。
「アルバムって手にするとなぜか開いて見ちゃうんだよなあ」
 幼い頃から中学までの写真が綴じられたアルバムは、高校進学を機に家を出ることになった沢村に母親が持たせたものだった。
 せっかくだから一緒に見よう、という沢村に一つ溜息を吐いて隣に座る。綴じられた写真を一枚ずつ眺めては、このときはこうだったとか、そういえばあのときはとか、思い出話に花を咲かせていく。
「小っちゃい頃の俺って殆どお前に抱っこされてるよな。親父とかお袋が抱っこしてるの赤ん坊の頃の写真しかねえし」
「この頃のお前、俺の後をついて回って抱っこしろってうるさかったんだよ。やるまでずっと抱っこ抱っこって連呼するし、仕方ねえから抱っこしたらそのまま寝やがるし。毎日15㎏を抱えるこっちの身にもなれっつーの」
「腕が鍛えられてよかったじゃん」
「ばーか。俺はお前と違って成長もしなけりゃ筋肉もつかねえんだっての」
「……そっか。うん。そうなんだよな」
 声のトーンが少し下がったことに今の言葉は失敗だったかと考える。悲しませたいわけでもなければ、重く受け止めて欲しいわけでもない。
 今までなら「じゃあ代わりに俺が抱っこしてやるよ」なんて調子に乗ったことを言って、それに対して制裁を加えるというのが恒例の流れだったというのに、最近は少しずつ変わってきている。
 今まできつく結んでいたものに綻びが生じているような、そんな気がする。
「でもあの頃はまだ可愛げがあったよな。もうちょっと後になると、走って行っては転びまくるし、そうかと思えば振り返って遅いぞちゃんとついて来いとか言うし、俺は毎日苛立ちを抑えるのに必死だった」
「嘘吐け!その苛立ち俺にぶつけてたじゃん!まだ幼い可愛い少年だった俺に容赦なくプロレス技かけてきたじゃん!」
「うるせえな。ちゃんと手加減してやってただろ」
 それでなくても人形は人に害をなすことはできないのだ。沢村が本気で嫌がったら俺はきっと沢村に触れることすらできない。

 腑に落ちないと表情で訴えながら、沢村はアルバムを捲った。
 時系列を追うアルバムの中で、沢村は小学校に入学した。ランドセルを背負って、校門前で元気よくピースサインをカメラに向かっておくっている。
 この時写真を撮ったのは倉持だった。倉持が来てから沢村が一人で写っている写真はほぼ全て倉持が撮ったものだ。
 いつだったか、沢村の母親から言われたことがある。栄純はあなたに向けるときが一番いい顔をするから、と。
 過信でも何でもなく、あの頃は確かに沢村にとっての一番は倉持だったのだ。学校にいる時間以外の全てをともに過ごしたのだから、当然のことだろう。

 小学一年から六年までの写真を一気に見ると、目まぐるしいものがあった。毎日見ているとあまり意識しないけれど、比べればその成長は一目瞭然だ。入学の時には胸くらいまでしかなかった身長は、卒業の時には口元くらいまで伸びている。
 こんなにも日々成長していたというのに、気付かないものなんだな、と思う。あまりに近くに居すぎると見えないものが出てくるらしい。
 今更だが、その成長をもう少し大事に見ておけばよかった。本当に、今更だが。

 中学に入学した後は野球の写真ばっかりだ。
 過疎化の一途を辿る子どものいない田舎町で必死に寄せ集めて作った弱小野球部。お世辞にも上手いとはいえず、やっているのは本当に野球なのだろうかと疑うほど基本も何もなっていない素人集団だったが、沢村は毎日楽しそうだった。
「この頃、俺はずっとお前も一緒に野球できたらいいのにって思ってた」
「人形は公式戦出れねえんだ。仕方ないだろ」
 人型アンドロイドの存在が認知されるようになってから、各種スポーツは全て公式戦へのアンドロイドの出場を禁止する規約を設けた。当然のことだろう。身体能力が馬鹿みたいに高いアンドロイド創って出場させたら人間の出る幕はない。
「出てもばれなかったと思うけどなあ」
「後からばれて勝ちを取り消されても嫌だろ。まあ、お前中学のとき一回も勝ったことなかったしその心配は結局要らなかったけど」
「どうせ弱小だったよ!悪かったな!」
「別に悪いとは言ってねえだろ。むしろあの人数と環境でよくやったと思うぜ」
 きょとん、とした顔で見てくる沢村に俺は「何だよ」と問う。
「いや、お前に褒められるの珍しすぎて居心地悪いっつーか、気持ち悪い?」
「よくわかった。お前、今日は何の技かけられてえの?」
 まるで昔に戻ったみたいに過ごして、結局その日段ボール箱にものが入れられることはなかった。



 6

 沢村の人生の転機がいつだったかと問われれば、中学卒業が間近に迫った春のある一日だ。どう考えてもあの日を除いて他にない。
 遠く離れた東京で、沢村は天才と呼ばれる一人の男に出逢った。そしてその日を境に沢村の世界は一変した。
 沢村が東京に行くことを決めた時、俺は思いがけず早い別れが来たもんだ、と思った。あの時はあまりの急展開に呆気に取られて、実感が全然わかなかったのを覚えている。
 沢村が東京に旅立つ前日になって初めて、明日いなくなるということを少しずつだが理解した。同時に大きな喪失感に襲われる。 
 10年以上もずっと一緒にいて、最後はこんなにもあっけないものだということが信じられなくて、信じたくなくて、原因となった男を恨みもした。
 俺のそんな気持ちをよそに、沢村は当然のことのように「お前準備できてんの?」と訊いた。
 準備。準備?何の準備だ。
 疑問に思っているのが伝わったのか、沢村は首を傾げながら言った。
「明日から東京なんだから、ちゃんと準備しとけよ?」
 どうやら最初から沢村には俺と離れるという選択肢はないようだった。沢村がそう言うのなら、俺に断る理由はない。
 かくして俺は東京へ行くこととなった。理由は簡単だ。俺が沢村の人形だからだ。

 野球の名門青道高校に入学した沢村の高校生活は野球一色だった。
 朝から晩まで野球漬けで休日はなく、せっかくのオフにも自主練と称していつもと然程変わらない練習に汗を流した。一度に複数のことができるほど器用ではない沢村には色恋沙汰の一つもなく、何もかもが野球尽くしの生活だった。
 沢村の口から出てくるのは最初が御幸で、その後クリス先輩になって、また御幸に戻った。その間に時々打倒降谷が入って来た。

「御幸先輩と付き合うことになった」
 沢村が恥ずかしそうに打ち明けてきたのは、高校卒業の日だった。沢村より一年早く卒業した男はその頃にはもうプロの道に進んでいて、僅かな期間で遠い存在になってしまったことを口には出さずとも気にしていたのを知っている。
「よかったな」
 俺が返したのはそれだけだった。
 二人の間に何があったのかはよく知らない。けれど、人生の転機となったあの日から沢村の中心にいるのはあの男だったため、そうなったのはなんだかとても自然なことのような気がしたのだ。

 俺はあの時、沢村が告げた言葉の意味をきちんと理解していなかった。
 それまでの俺は沢村にとって家族であり、兄弟であり、一番近くにいる存在だった。高校の先輩と兄弟なら、兄弟の方が身近だろう。
 では恋人と兄弟ならどちらがより近しい存在なのか。
 男同士であるため結婚することはできないにしろ、それと同じような状態にすることはできる。そうなったら、どちらがより近しい存在なのか。
 答えは明白だった。



 5

 月が替わり、カレンダーを一枚捲った。
 別れの日まで残すところあと20日。

 カレンダーを見ながら、沢村は言った。
「16日は一日空けといて」
 空けとくも何も、沢村が用事を言い渡さない限り倉持に予定はない。



 4

 ピンポーン、と高らかな音が鳴り響いて倉持は腰を上げた。
 沢村が出掛けてから30分以上が経っているが、また忘れ物でもして戻ってきたのだろうか。
 倉持が家にいると信じきっているせいか、沢村は鍵を持たずに出ていくことがよくある。今まではそれで困らなかったが、今後はそういうわけにもいかない。困ったことになる前に一度よく言い聞かせておかなければ。
 確認することもなくドアを開けると、そこに居たのは予想外の人物だった。
「よう。倉持くん、久しぶりだな?」
「……御幸一也?」
 何故ここに、と問うより先に御幸に問われた。
「沢村は?」
「野球の練習で大学に行ってる」
 そう告げると、御幸は「そ。ならちょうどよかった」と笑う。
「暇してんなら、ちょっと顔貸してくれよ」

 車で来ていたらしい御幸に促されるままに倉持は後部座席に乗った。助手席は沢村専用なんだよ、と聞いてもいないことを言う。
 20分近く車を走らせて辿り着いたのは、建設途中の建物の前だった。建物自体は殆ど完成しているようで、外構工事が進められている。
「さて、ここはどこでしょうか」
「知るかよ」
 突然連れて来られた挙句、そんなこと問われても知ったことではないし考えようとも思わない。
「つれねえな。じゃあヒントやるよ」
 興味もないし、そんなもの要らないと言ったところでこの男が止めるとも思えないため好きにさせておく。
「この建物はあと1週間もすれば工事が終わる。その後諸々の検査があって、今月20日から中に入れるようになる」
 20日という忘れたくても忘れられない日に目を見開くと、御幸は「わかったみたいだな」と微笑んだ。
「何のつもりだ」
 睨みながらそう言うと、御幸は一度大きく息を吐き出した。
「沢村がな、お前と住むのをまだ諦めてないみたいなんだ。もう20日しかねえし、いざ引っ越すってなった時にやっぱり止めるとか言われても嫌だしさ。一度お前の本心を聞いておこうと思って」
「沢村にはもう何度も言った。俺はここで一緒に住む気はねえってな」
「それは本当にお前の本心か?」
「そんな簡単に覆るような想いで言ってんじゃねえよ」
 御幸は「そうか」と呟いて、少し悩む素振りを見せた後、再度口を開いた。
「子型機械人形って言うんだってな」
 その言葉の真意がわからず、目線だけで先を促す。
「悪いかなとも思ったんだけど、調べさせてもらった。一人っ子の子どもの遊び相手や身寄りのない老人の話し相手として存在する人型アンドロイド。人形師の手によって目覚め、役目を終えるまで人に寄り添い、役目を終えるとまた眠りにつく。お前の役目ってのは沢村とともに在ることだろ」
 肯定も否定もしない。そもそも御幸は答えなど求めていない。全てわかった上で言っている。
「お前が沢村と一緒に住まないってことは、お前の役目がここで終わるってことだ。つまり、人間で言えば死と一緒だ。違うか?」
「同じことだ」
「だったら、」
「違う」
 御幸が訝しげな目で俺を見る。
「一緒に住むとか住まないとか、そんなのはどっちでも同じことだ。沢村がお前を選んだ時点で俺は自分の役目を終えてる。もうこれ以上、役立たずのままあいつのそばにはいたくない」
「あいつは、沢村はお前のこと役立たずなんて思わねえよ」
「わかってる」
 そんなことは言われるまでもなくわかっている。ずっとそばにいたのだ。誰よりも、ずっとそばに。
「俺が嫌なんだ」
 最期の時まで誰にも言うつもりはなかったのに、一度口を開いてしまうともうだめだった。
「俺はもうこれ以上あいつが俺を置いて成長していく姿を見たくない」
 楽しいとか、幸せだとか、そんな気持ちばかりならよかった。この先自分の外見とどんどん離れていく沢村に淋しさを抱えながら成長しないこの身を呪って生きたくはない。

 御幸は「そうか」と呟いた。
「お前、沢村のこと好きなのか」
 好きとか嫌いとか、そんな枠には収まらないだろうと思う。
「俺のことがさぞ憎いだろ」
「ああ」
 憎くてたまらない。こいつが現れなければ、もっと長く、もしかしたら本当に最期の時まで一緒にいられたかもしれないと思う。
 けれどそれと同時にこれで良かったのだとも思えた。
 この男がいなければ、淋しさを抱えて生きていくのは沢村だったかもしれない。そう思えば、こうなった方がずっとましだったのだと、心から思う。
「一発殴っとくか?一応それくらいの心構えはあるつもりだけど」
「いや、やめておく」
 俺が殴らずとも、今も元気なじいさんがビンタをお見舞いしてくれるだろう。
「沢村を頼む」
 その言葉に、御幸は今まで見た中で一番の真剣な表情で頷いた。



 3

「さあ!今日は忙しいんだから早く起きて!さあ!さあ!」
「朝からうるせえな」
 時計を見ればまだ6時半だった。いつもは爆睡して起こそうとしても全然起きないくせに今日はやたらと元気だ。
「今日は何月何日でしょう!」
 カーテンを勢いよく開けながら問う沢村に、何を今更と返す。
「5月16日だろ」
「正解!では5月16日は何の日でしょう!」
「俺とお前の真ん中バースデーだろ」
 毎年の恒例行事として、15日が誕生日の沢村と、17日に人形師の手で目覚めた俺の間をとって16日に二人合わせて祝うことになっている。
 沢村が3歳の誕生日を迎える時から始まったそれは、今年で18回目を数える。沢村は昨日20歳の誕生日を迎えた。
「俺今日やりたいこと書き出しておいたんだ」
 そう言ってお世辞にも上手いとは言えない文字で書き連ねられたリストを掲げた。
「そんなわけでやることいっぱいあるから早く起きて準備!」
 急かしてくる沢村に、はいはい、と返事をして立ち上がった。

「お前、本当にこんなことがやりたかったのか?」
 朝7時に家を出てからやったことといえば、コメダ珈琲店に行ってモーニングの珈琲を頼んで本当にトーストとゆで卵がタダでついてくるということに一頻り感動した後、名物のシロノワールを食べ、人気の3D映画を見て昼食をとり、適当に街ブラした挙句、今いるのはゲームセンターだ。
「あー!また負けた!」
 YOU LOSE と表示された画面に沢村が声を上げると、YOU WIN と表示された画面に倉持が笑う。
「俺に勝とうなんざ一万年早い!つーかてめえ人の話聞け!」
「聞いてるって。今のところ順調にやりたいことリスト消化中」
 そう言いながらピースサインを送ってくる沢村に、「まじかよ」と呟いた。
「わざわざ誕生祝いにやることでもねえだろ」
「いつでもできると思うと逆にやらなかったりするじゃん。そうやって今までやらずにいたことこの際全部やっとこうと思ってさ。お前はやりたいことないの?」
 一頻り考えて「別に」とだけ返した。お前のやりたいこと、と返したところで同じことだからだ。
「そのリストにはあと何が残ってんだよ」
「ケーキと酒買って帰る、あとごちゃまぜ丼作ってもらう、の二つかな」
 沢村の言うごちゃまぜ丼は昔よく倉持が作った冷蔵庫の残り物を適当に炒めて塩コショウと万能中華調味料で味付けしたものを白米の上に乗せただけのお手軽丼だ。
「誕生祝いなんだからもっと豪華なもの食えよ」
「いいんだよ。今日の俺にとってあれが一番ごちそうなんだから!」
「もの好きなやつだな」
「ほっとけ!」

 スーパーに寄って適当な食材と酒を買う。晴れて20歳となった沢村は嬉々として年齢確認を受けた。求められてもいない身分証を呈示しかねない勢いだ。余程嬉しかったらしい。
 誕生祝なんだからやはりケーキはいるだろう、とケーキ屋に寄ったはいいが、男二人でホールケーキは無理だろうと判断しショートケーキを購入するに留めた。
 帰宅してお望みのごちゃまぜ丼を作ってやると、沢村は「これこれ!この味!」とごちそうとは程遠い料理に大層ご満悦の様子だ。御幸は料理上手だと言っていたから、こんなものよりずっと豪勢なものを作ってもらえるだろうに、見た目も味も大雑把な料理と呼ぶのも憚られる代物を美味いと言うのだからよくわからない。
 懐かしの味ってやつ。沢村はそう言って、おかわりまでした。

 ケーキの準備をしていると、沢村は酒の準備を始めた。
「そういえばお前、転居先長野に言ってあんのか?」
 気になっていたことを問えば「あー」と間抜けな声を出す。
「忘れてた」
「ったく。そんなことだろうと思った。言っとくからその辺の紙に書いとけ」
 本当にその辺に転がっていたのだろうチラシの裏に住所を書き殴る。書き終わると、ボールペンを握ったまま顔をあげて、なあ、と真正面から倉持を見据えた。
「本当の本当にお前は行かないの?」
「……何回目だよ」
「これが最後だ。もう聞かない。だから本当に本気で答えてくれ。お前は一緒に行かないのか?」
 答えは決まっている。決まっているはずなのに、ほんの少しだけ言葉に詰まった。
「……行かねえよ」
「わかった」そう言って沢村は笑った。「ごめんな、何回も聞いて」
 一瞬訪れた気まずい空気を払拭するかのように「じゃあお待ちかねのケーキ食おうぜ!」と底抜けに明るい声で沢村は言った。

 ケーキを食べて酒を飲んで、気分が良くなったらしい沢村は「来年も再来年もこの先ずっと俺は5月16日にお祝いする」と言ったきりその場で寝てしまった。
 突然電池が切れるところは昔から変わらねえな、と小さい頃の沢村を思い出して笑う。
 もともと童顔である沢村は寝顔になると更に幼く見える。寝顔だけなら然して年齢差もなく見えるかもしれないな、と意味のないことを思う。
「沢村」 
 呼んでも一向に起きる気配はない。
「さわむら」
 まるで許しを乞うかのように呼ぶ。
 前髪のかかる額を撫で、輪郭を辿り、唇をなぞった。
 触れる指先から愛おしさが込み上げて溢れだす。さわむら、ともう一度呼んだ。そうして吐き出さないとこれ以上身体の内に留めておけない。
 いっそのこと、触れられなくなってしまえばよかった、と思う。拒絶され、そばにいることを許されなくなってしまえば、この見苦しい未練も少しは消えるのに。
 どうして自分は人形なのだろう。人であればこんなことに悩まなくてよかった。けれど人形でなければ沢村に会うこともなかったのかもしれない。
 沢村の人形として生きるのと、沢村に会えない人間として生きるのをどちらか選べと言われたら俺は迷いなく前者を選ぶ。だから俺はいまこうなのか、と思うとなんだか無性にすっきりした。

 さわむら、ともう一度その名を舌に乗せる。
 好きだとかそんなことは言わない。そんな言葉でおさまるようなものではないのだ。
 さわむら。
 お前は俺のすべてだ。すべてだったよ。

 

 2

 5月20日。
 引越し業者が荷物を運んで行ったおかげでがらんとした部屋の中で、沢村と倉持は手持無沙汰に過ごしていた。
「あいつ何時に来るって?」
「そろそろだと思うんだけどなー。そっちは何時に出んの?」
「お前見送ったら行く」
「そっか」
 再び訪れた沈黙に、倉持は「あー」と困ったような声を出した。
「何だよ」
「いや、なんつーか……今までありがとな。」
 その言葉に沢村は「なにそれ」と笑った。
「まるでこれが最後みたいじゃん」
「ああ、そう、だよな。おかしいよな」
「うん」
 本当にこれが最後だというのに、気の利いた台詞の一つも思い浮かばない。今までどうやって普通に話していたのすらわからない。
 結局御幸が沢村を迎えにやって来るまで、何も思いつかなかった。
「じゃあ、元気でな」
「ああ、そっちもな」
 熱い抱擁もなく、涙もなく、素っ気ないとも言える会話が最後だった。
 だが、これでいいのだと思う。大袈裟な別れはいらない。自分のために泣いて欲しいとは思わない。ずっと笑っていてくれたら、それが一番いい。



 1

 新居に着いた沢村は建物のあちらこちらを見渡しては「おおー」とか「すげー」とか間抜けな声を上げた。
「これうちの鍵な。失くすなよ」
「何これ!カードキーじゃん!ホテルみてー!」
「楽しそうで何よりだけどな、部屋もまだ見てねえんだから感動はもうちょい取っておいて貰えると助かるんだけど」
「今俺のことガキっぽいって思っただろ!」
「いや。無邪気で可愛いなあとは思ったけどな」
「嬉しくねえ!」
 はっはっは、と口では笑いながら、御幸は沢村の様子に違和感を感じていた。
 沢村はいつも元気でうるさい。それは変わりない。変わりないのだが、どこか空元気のような、そんな風に感じる。

 玄関を開け部屋に入ると、家具や荷物がまだ届いていないために非常に広々とした空間が広がっていた。沢村は探検するかのように一室ずつ覗いては感嘆の声を漏らした。
「こっちが寝室で、こっちがお前の部屋な」
 そう告げると、沢村は何か言いたげに御幸を見た。
「どうした?」
「あ、いや…何でもない」
 何でもないわけないだろうに。ただでさえわかりやすいのに、隠し通せると思っているのだろうか。
「人形のことだろ」
 沢村は素直にこくりと頷いた。
「物心ついた時からずっと一緒だったから、俺だけの部屋とか、あいつがいないのがすげえ変な感じしてさ。ごめん」
「謝るなよ」
「でも、」
「家族同然に暮らしてきたんだ。気にしない方がおかしい」
 口を噤む沢村の両手を握って、御幸は「本当は言わないでおくつもりだったんだけど」と前置きして言った。
「子型機械人形はその役目を終えるまで人と寄り添って暮らす。いいか。役目を終えるまで、だ。お前はあいつが自分のもとを去って、長野の実家に戻るとでも思ってるんだろ。でもそれは違う。あいつの役目はお前と一緒に在ることで、お前の家族の誰かと一緒に在ればいいわけじゃない。お前のもとを去った時点であいつはその役目を終えてる。役目を終えた人形は人と共には暮らせない。目覚める前と同じように人形師によって眠りにつく。次に目覚める時にはこれまでの一切の記憶はなく、まっさらな状態になる。お前とともに過ごしたあいつは全部、消えちまうんだ」
 俯いた沢村の表情は御幸には見えない。
「お前はこのままでいいのか?今ならまだ間に合う。眠りにつくまでなら、取り戻せるかもしれない」
 御幸に握られた沢村の両手に少し力が入ったのがわかった。
「俺はお前の後悔がないようにしてやりたい。なあ、沢村。どうしたい?迎えに行くか?」
 沢村は俯いたまま首を左右に振った。
 聞いた瞬間飛び出していくと思っていた御幸にとって、それは非常に意外なものだった。
「ほんとに?お前はほんとにそれで後悔しねえの?」
 顔を上げた沢村は目からぼろぼろと涙を溢している。ずずっと鼻を啜って、縋るように御幸の手を強く握った。
「俺、ぜんぶ知ってた」
 目から更にたくさんの涙を溢れさせながら、沢村は力なく笑った。
「この別れが本当の別れになるって、わかってた。だから何度も、本当にしつこいくらい何度も一緒に住まないかって聞いた。もしかしたら考えが変わるかもしれないって思って、何度も、何度も。でも結局あいつの答えは変わらなかった」
 本当はその答えが変わらないだろうということもわかっていた。わかっていて、懇願するように何度も聞いた。

 たまにすごく淋しそうな目をすることに沢村は気付いていた。
 身長を追い越したとき、手が一回り大きくなったとき、声変わりをしたとき。最初は沢村に何らかの変化があるときに、少しだけ淋しさを滲ませただけだった。
 それがいつの間にか日常生活の些細なことで沢村と倉持の違いが出る度に、まるで深く傷ついたような目をするようになった。

「俺は、あいつがこの先ずっと俺といることで傷ついていくのが嫌だ。俺といて淋しさばかりを感じて、それでもずっと一緒にいてくれなんて、俺には言えない」

 この先沢村と倉持の違いはより顕著になっていくだろう。日々変化する沢村の身体に、ずっと傷を負い続ける姿は見たくなかった。
「御幸先輩が一緒に住もうって言ってくれたとき、嬉しいのと同時に少し安心したんだ。あいつを俺から解放してやれるかもしれないって。ごめん、先輩。嬉しかったけど、それだけじゃない。俺は自分のためにあんたの申し出を利用した」
 御幸は沢村を抱き締めて「いいんだ」と囁いた。
「俺は自分が沢村といたいだけだから、お前が俺を利用してたって何だっていい」
 御幸の腕に沢村は縋った。
 昔は泣いている自分を抱き上げてあやしてくれたのは倉持だった。でも、もう違うんだなと思うと更に涙が溢れた。

「俺、最後の最後まで、さよならが言えなかった」
 これが最後だとわかっていて、その言葉だけは口に出すことができなかった。

 目蓋を閉じると、倉持の姿が浮かんだ。
 ごめんなさい、と、ありがとう、を心の中で繰り返す。
 泣いては抱き上げてもらって、そのまま腕の中で寝てしまう。そんな子どものままいられたらよかった。



 0

 引越しの日からちょうど10日後、一通の手紙が届いた。
 真っ白な封筒には新居の住所と沢村栄純様という文字が書かれている。
 差出人の名前はなかった。
 それは便箋一枚だけの短い手紙だった。



 沢村 栄純 様

 18年間一緒に過ごして、初めて手紙を書きます。
 最初で最後の手紙です。   
 手紙なんて書こうと思ったことすら一度もなかったので、どう書いたらいいのかよくわかりません。少し堅苦しくなっているのはそのせいです。

 本当は手紙を書くつもりはありませんでした。
 でも、伝え忘れたことはないかと問われて、これだけは伝えておかなければいけないと思ったので、書いておきます。

 2歳から20歳まで、あなたの18年間を一番近くで見てきました。
 よく笑い、泣いて、怒って、また笑う。
 そんなあなたの姿を見ていると、まるで自分も人になれたかのような錯覚を覚えることがありました。
 それはとても幸福な夢を見ているようでした。

 あなたとともに在れた18年、私はとてもしあわせでした。
 そのことだけは覚えておいてください。
 
 どうか、これからのあなたがしあわせでありますように。




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