リビングの三人掛けのソファに座って既に何度となく読んだ野球雑誌を捲る。見ているわけでもないのにつけっ放しにしたテレビからはたまに和やかな笑い声が響いている。
 ふああああ、と退屈から出る大きなあくびをしたところで、まだ寝惚けた顔をした弟が入って来た。目は半開きで、髪はボサボサ。そのうえ脇腹をぼりぼりと掻きながら現れたその姿はイケメンと噂の外面からはかけ離れている。何も知らずに格好いいと騒いでいる女の子達に是非とも見せてやりたい。
「おそよう」
 休日で野球の練習も無いからと思いっきり寝坊してきた弟に嫌味たらしく声をかけると、「ああ」と一つ頷いてソファの反対側に腰掛けた。行儀の悪いことに片脚をソファの上に立てる。テレビのリモコンを手に取ると、何の面白味もないニュース番組へと替えた。
「あ、ばか。替えんな」
「どうせ見てねえだろ」
「見てなくても聞いてんだよ」
 聞くだけならどれも変わらねえだろ、と横暴な言動をする弟を、心の広い俺はやれやれと溜息一つで許してやる。優しいお兄ちゃんに感謝しろよ。
「痛っ!」
「悪いな。脚が長いもんで」
「お兄様を足蹴にするとは何事で!?」
「ほお。お前のどこが心が広いって?」
 弟の特技は兄の心を読むことらしい。とんでもない特技である。
「母さんは?」
「なんか近所のママさん達と出掛けて来るーって言ってた」
 ふーん、と自分で替えたくせにつまらなそうな顔でテレビを見る。昼前まで寝ていたくせに大きなあくびをしてテレビを消した。どうせまた夜更かししていたのだろう。
 何が楽しいのか、時間があればスコアブックを見るのが趣味な弟は、最近は他校の試合のものまで手に入れて読み耽っている。研究熱心なのはいいことだが、読み始めると寝ることすら忘れるのはどうかと思う。
「腹減った。何か作って」
「作ってくださいお兄様って言ったら作ってや」
「作ってくださいお兄様」
「まだ言い終わってねえ!」
「ほら、言ったんだから早く作れよお兄様」
「可愛くない!」
 昔はもっと可愛げがあった気がするのだが、どこに忘れて来たのか。探して取り戻して来いと言いたい。
 冷蔵庫、冷凍庫、野菜室と順番に覗き、最後に炊飯器を開けてみる。
「何かってなあ……」
 飯はあるし、具なし炒飯とかでいいだろうか。

 コトン、と皿を弟の前に置いてやると、無言で見つめた後一口食べた。
「……30点。及第点には程遠いな」
「うるせえ!文句言うなら食うな!」
 せっかくキャベツに卵、ベーコンまで入れてやったというのに、飯が固まりになっているだの、味が薄いだの、べちゃっとしてるだのと文句ばかり言う。
 お兄ちゃんありがとうという可愛らしい台詞は出てこないものか。この際兄貴サンキュでも構わない。お兄ちゃんは弟から感謝の言葉が貰いたいのだ。
 固まりになった炒飯をスプーンですくい、眉をしかめながら口に運ぶ弟に俺は盛大な溜息を吐いた。

 一也は俺の一つ下の弟だ。
 今のこいつからは想像もつかないが、昔はそれなりに可愛い弟だったのだ。
 昔はちゃんと兄ちゃんと呼んでいたし、足蹴にされることもなかった。それがいつからか兄貴になり、今や「おい」とか「そこのバカ」とか愛称も尊称もあったもんじゃない呼び方に成り果ててしまった。一体何処で育て方を間違えたのだろうか。
 一也はとても優秀な子どもだった。いわゆる神童というやつだ。
 テストは100点が当たり前、公園でキャッチボールをすればリトルリーグからお声がかかり、リトルリーグの試合に出れば有名私立中学から勧誘が来る。野球以外のスポーツは全くダメだったが、どうやら一つに秀でていれば他のことはその影に隠れるらしい。
 教師たちからも、近所のお節介なおばさんたちからも、周囲からは期待の目で見られていた。
 そうなると、誰しもが兄である俺と一也を比較始めた。生憎と、俺は弟のように優れた人間ではなかった。特に目立った才能はない。テストを受ければ赤点ばかりで居残りが当たり前、野球は好きだが弟ほどの注目を集める選手ではない。親が呼び出されるような素行不良の問題児ではないが、おふざけ程度のいたずらは数多くやってきた。
「弟の一也君はあんなに優秀なのに、お兄ちゃんの栄純君は、ねえ」
 そう囁かれることは何度もあった。
 それは俺への皮肉であったのだろうが、あまり頭のよろしくなかった俺は自分の弟が褒められているのだと純粋に喜んだ。隣で気に喰わないといった様子で眉を顰める弟に、何でお前は喜ばないんだよと本気で疑問を投げかけたこともある。俺より一つ下なのに、弟は周囲の皮肉をきちんと理解していたらしい。
 俺が小学5年、一也が小学4年のとき、賢く優秀な一也が他人をわざと転倒させたことがある。確か一也を熱心に勧誘していたリトルリーグチームのベンチ要員の保護者であったように思う。自分の子どもは試合に出られないのに、チームに所属してもいない子どもに監督が執着していることが許せなかったのだろう。
「お兄ちゃんとは顔も全然似ていないし、本当に兄弟なのかしら。他所で作らせた子じゃないの」
 それはきっとただの負け惜しみの嫌味だったのだろうが、当たらずとも遠からずだった。

 一也と俺に血の繋がりはない。父さんとも母さんとも一也に血の繋がりはない。一也は、父さんの今は亡き親友の子どもであるらしい。
 うちに一也がやって来たのは俺が5歳のときだ。さすがに物心はついていたため、世間一般で言うところの弟とは違うことはわかった。賢い一也のことだ、俺よりずっと理解していただろう。
 それでも俺にとって一也は弟だったし、それを気にしたことはない。昔からずっと。無論、今もである。
 しかし、当の本人は違ったらしい。一也は俺の弟であろうとしていたようだ。
 3人から4人家族になり、そのうち身体も大きくなるからと、それまで住んでいたアパートから俺たち家族は一軒家へと引っ越した。そのおかげで一也が本当の弟ではないということを知らない人も多いが、別に悪いことをしているわけでもなし、隠したりはしなかったので知っている人もいるだろう。
 他所で作らせた子じゃないの、と暴言を吐いたおばさんがそれを知っていたのかはわからないが、どちらにせよそれは一也の逆鱗に触れたのだ。
 家族の中で自分だけが異質な存在だと思い、家族と、とりわけその中でも俺と一緒であろうとしたのかもしれない。一也は俺と兄弟ではないと思われることに過敏なほどに反応した。
 リトルリーグの中でも強豪と言われるチームから勧誘が来た時、一緒にキャッチボールをしていた兄が勧誘されないのに自分だけ誘われるのはおかしい、と他人からすれば理解しかねる断り方をした。その後俺はマネージャーとしてでいいからと熱心に誘われて大変だったのだ。
 俺がやりたいのはマネージャーではなくピッチャーで、しかもただのピッチャーではなくエースになりたかった。当たり前のことだが既にチームにはエースが存在していて、野球のルールも知らずにただ目立つからという理由でエースに憧れた俺の出る幕ではなかった。
 何を思ったか、キャッチャーを志望した一也は俺がピッチャーでなければやらないと言い張り、晴れてなのかどうかはよくわからないが二人してリトルリーグのお世話になることになった。もちろん俺はエースではなく控え投手だったわけだが。
 しかし俺の球じゃないと受けないと言ってたあの頃が懐かしい。今では俺が球を受けろって言っても殆ど受けてくれないくせに。初心を取り戻せと言いたい。くそ、あの時の言葉を録音しておくんだった。

 リビングで、兄よりも発育よく大きく育ってしまった弟と二人、何をするわけでもなくくつろぐ。
 本音を言えば今すぐにでも球を投げたいし、一也にそれを受けて貰いたい。だが、最近のオーバーワークを昨日咎められたばかりで、今それを言えば説教タイムが始まってしまうのは必至だ。兄として弟に説教されるというのはあまり喜ばしいことではない。というか、こいつ怒らせたら結構怖いし。
 肩を休めるのも練習の一環、と何度も言われた言葉を自分に言い聞かせて大人しく過ごす。弟に目を向ければ、飽きもせずスコアブックに眺めている。
 人のことをとやかく言えないのは重々承知してはいるが、こいつ本当に野球が好きだな。最近では野球が兄弟間のコミュニケーションツールとなっていると言っても過言ではない。
 一也が俺を兄貴とすら呼んでくれなくなった頃から、兄離れをしてしまったのか、同じ家にいるというのに自室に篭もったりしてあまり一緒に居てくれなくて少しばかりの寂しさを覚える。昔のことを思い出せば尚更だ。昔はいつも一緒に過ごしていたというのに。
 どうしたら可愛かった頃の弟を取り戻せるだろうかと唸っていると電話が鳴った。一也はスコアブックから目を外さない。こいつ聞こえないふりしてやがる。
「はい、こちら沢村でーす。あ、母さん?……あ、そ。わかった」
 受話器を置いて振り返る。
「母さんから電話だったんだけど」
「なに」
 スコアブックから目を離さずに声だけで返事する。
「言い忘れてたけど、今日は主婦の会の慰安旅行で一泊するから帰らないって」
 ちなみに父さんは一週間の出張真っ只中である。母さん、絶対狙ってたな。
 一也は目を見開いてこっちを見た。一体何をそんなに驚くことがあるというのか。
「……実は、俺も言い忘れていたんだが、今日の夜は倉持の家に泊まる予定になっててだな」
「嘘吐け!お前と倉持がそんなに仲良いはずがねえ!」
 友達がいない者同士というとアレだが、二人でつるんでいることは多々あるにしろ休日にわざわざ約束してまで会うような間柄ではない。
「母さんからの伝言だ。兄弟二人仲良く協力してね、だと」
 一也は言葉を詰まらせる。弟のこういう姿は珍しいのでついからかいたくなる。
「ということで、今日は兄弟仲良く過ごすぞ!ご飯は一緒に作ること!」
 燃えてきた俺とは対照的に、弟は頭を抱え込む。そんなに俺と一緒が嫌か。さすがにそんなあからさまにされると傷つくのだが。これは折角の機会だし、兄弟の親睦を深めておくべきだろうか。
「何なら昔みたいに一緒に風呂入って、布団並べて寝るか」
 弟は信じられないような目で俺を見た。何故だ。昔は当たり前にやっていたというのに。
 これが俗に言う反抗期ってやつなのだろうか。



♦♦


 包丁とまな板の奏でる、トンと少し高めの音が響く。いーち、にー、さーん、と頭の中で数えたところでようやく次のトンという音が響く。そしてまた、いーち、にー、さーん、し。今度は4秒かかった。いくらなんでもこれは。
「遅すぎる」

 義兄である栄純は今、きゅうりを輪切りにすることに必死になっている。
 買い物に行くのも面倒だし時間がかかるから家にあるもので済ますぞ、とあちこち漁ったあと、今晩のメニューはカレーとマカロニサラダに決定したらしい。
「お前はカレー担当、俺はサラダ担当な!」
 そう言ってマカロニを熱湯に放り込んだあと、きゅうりを切り始めたまでは良かったのだが、これがもう、とんでもなく遅い。一枚切るのに3秒から5秒かかっている。一本切るのに何時間かける気だ。これではいつ食べられるのかわかったものではない。
 こっちは既に具を煮込む段階に至り少々手持無沙汰なため、必死になりすぎて前かがみになっている義兄の背中を座ってぼんやりと眺めていたのだが、あまりの遅さに口出ししてしまう。
 立ち上がって後ろから覗けば、まだ5枚ほどしか切れていないうえに、やたらと分厚かったり繋がっていたりと散々だ。
「お前は俺に何を食べさせる気なわけ」
「う、うるせえ!文句言うならお前がやってみろ!」
「サラダ担当はお前なんだろ」
 うぐ、と言葉に詰まった栄純はふくれっ面になって再びきゅうりと格闘し始めた。
 夕食にありつくまでにはまだ当分かかりそうだ。カレーの具がよく煮えるであろう。

 栄純は俺の一つ上の義兄だ。
 中学一年くらいまでは俺より大きく、二人並んで歩けば周りの人にもきちんと兄として認識されていたのだが、中学二年の頃に成長期を迎えた俺はあっという間にその身長を超え、高校生となった今では体つきも俺の方が逞しい。
 母親似の栄純は童顔であるため、二人並べばほぼ間違いなく俺の方が年上として認識される。兄として、ではないのは二人があまりにも似ていないからだ。血の繋がりがないため、当たり前のことではあるのだが。
 俺の母親、育ての親ではなく、生みの親のことだが、非常に美しい女性であったらしい。らしいというのは実際に見たことがないからだ。元々病弱であったらしい母は、俺を産み落とした時に命を落としたと聞いている。
 生まれた時から父子家庭となったわけだが、その生活が続いたのもわずか数年のことだった。父親は他人から見ても明らかなほど母を深く愛していて、その存在を失ったことを上手く受け止めきれなかったようだ。俺を育てなければいけないという考えはあったようだが、まるで縋りつくように仕事に必死になり、俺が4歳の頃に倒れてそのまま亡くなった。死因は心労と過労だった。
 もともと周囲の反対を押し切って結婚したのだという二人の息子を快く引き受けてくれる親戚はおらず、醜い押し付け合いをどこか他人事のように聞いていたのを覚えている。
 同情心からなのかはわからないが、父親の親友だったという沢村家に引き取られることになった俺は、そこで初めて義兄となる栄純と出逢った。
 正直なところ、第一印象はバカそうな奴だった。しかも一緒に暮らして見れば最初の印象を裏切らず本当にバカだった。
 どこまでも真っ直ぐで人を疑うということを知らず、他人の嫌味にも気付かない。遠回しに自分が貶されているというのに俺が褒められたと純粋に喜ぶ姿は呆れを通り越してその愚直さに感心したほどだ。
 出生とその後の生活から、恐らく世間一般では俺は可哀想な子どもであったのだろう。だが俺は別に自分の人生を悲観してはいないし、当時も然程傷ついてはいなかった。むしろ同情され腫れ物に触るようにされるのは嫌だった。その点、栄純は一切気にせず俺に接してきた。今思えばどうせ何も考えていなかったのだろうと思うのだが、当時はそれが嬉しかった。
 他人はよく、俺のことを天才だとか、才能に恵まれているだとか、そんな風に表現する。だが、俺は別に他人に出来ないことが出来るわけではない。他の奴より出来るようになるのが早かっただけだ。
 対して栄純は義弟である俺と比較されて良い評価を受けることはまずなかった。確かに栄純は何をするにも人一倍時間がかかったし、要領は悪く手を抜くということを知らない。だが、それは出来ないのとは違う。時間はかかるが、必ずできるようになるのだ。できるようになるまで努力をやめない。それがどれだけすごいことなのか、他人にはわからずとも俺は知っている。
 小さい頃からやたらと人気者でいつも人の中心にいる義兄を、キャッチボールをする時だけは独り占めすることができた。投げている本人ですらよくわかっていない曲がるボールを捕れるのは俺くらいで、他の奴らは捕りにくいと嫌がったからだ。
 いつも大勢に囲まれている栄純を独り占めしている。俺はそれに他人から天才だと持て囃されるよりもずっと大きな優越感を持っていた。
 思えばあの頃から栄純は俺にとっての特別だった。

 昔のことを思い出しながらぼんやりと義兄の背中を見ていると、突然びくっと身体が揺れた。
「痛っ!指切った!」
「見せてみろ」
 抑えている右手を掴んで見れば人指し指から血が出ている。慣れない包丁で切ってしまったらしいが、傷口は深くない。
 流水で血を流し、絆創膏を貼ってやる。俯く栄純の額を指で弾くと、ぎゃっと奇声をあげた。
「お前はもう座ってろ。これ以上投手の手に怪我されちゃ捕手として困る」
「利き手じゃねえし大丈夫だって。それにまだサラダできてねえし」
「俺がやる。お前に任せてたら一生夕飯にありつけねえ」
「悪かったな!」
 きゃんきゃん吠える栄純を放って、サラダ作りにとりかかる。10分後には夕食にありつけるだろう。

 結局両方とも自分で作る羽目になったカレーとサラダを黙々と食べる。不味くはないが、特に美味いとも感じない。栄純は一口食べるなり美味いと叫んだが。
「お前って何でも卒なくこなすよな」
「そりゃ不器用なお前よりはな」
「弟が可愛くないんですけど!?」
「何を言う。小中高と他には目もくれず一途に球捕ってやってるというのに。こんな健気な奴他にいねえだろ」
「どこがだ!他の奴の球も受けてるくせに!むしろ最近は俺より降谷の球の方が多く受けてるくせに!」
「エースの球を優先するのは正捕手として当然だろ」
「くそ!見てろよ!すぐにエースの座を奪い取ってやる!」
「そりゃ楽しみだ」
 口では軽く返すが、それに見合うだけの力を持っていることも、それを実現させるだけの努力ができる奴だってことも知っている。
「そうと決まればこの後球受けてくれ!」
「それはダメ」
  俺だって他の奴に投げているのを見るのは面白くない。とはいえ、全力投球すぎてオーバーワークになりがちなのはどうにかしなければ。

 皿に盛られたカレーもサラダもきれいに平らげた栄純は「ごちそうさまでした!」と手を合わせると、じっと俺を見た。
「なに」
「んー、お前やっぱイケメンだなと思って」
「は?」
 思わず眉が寄る。俺は栄純を好いている。無論、義兄としてではない。その相手と一晩二人きりというだけでも大変なのに、これは一体何の罠だ。
 いやいや、相手はあの栄純だ。期待した分だけ裏切られるのがオチだ。期待してはいけない。自分に言い聞かせる。
「……唐突になんだよ」
 気持ちを落ち着かせて問えば、案の定栄純はこともなげに言い放った。
「イケメンだし、料理は美味いし、野球上手くて将来有望だし、お前の奥さんになる人幸せだな」
 期待してはいなかったが、それでもさすがに項垂れる。こいつ、本当に何もわかってねえ。もういっそのこと一度襲ってわからせてやろうかとすら考えてしまう。
「でもお前が結婚してここ出ていくと家の中寂しくなるな。こうやって一緒に飯食うこともなくなるし、一緒にいる時間も極端に減るだろうし」
 自分で言っておきながら想像して寂しくなってしまったらしい。やっぱり今日くらいは一緒に寝ないかと上目遣いに誘ってくる栄純に、俺は溜息とともに頭を抱えた。



♦♦♦


 いつもどおりに学校に着いて教室に入れば、いけ好かない級友が机にぐったりと身体を預け、仮眠を貪っていた。
「珍しいな。お前が空き時間にスコアブック広げてないのって」
 机の脚を軽く蹴ると、不機嫌極まりない顔を向けた。その目の下にははっきりとした隈ができている。
「何だその顔。普通一日でそんな濃い隈できねえだろ」
「うるせえ。黙れ。寝かせろ」
 これは相当機嫌が悪そうだ。しかし寝かせろと言われれば余計に邪魔したくなる。
 こいつがここまで感情を顕わにするというのも珍しい。そう長い付き合いではないが、クラスも部活も同じとくれば嫌でもその性格はわかってくる。
 いつも飄々としていて、言いたいことは遠慮なく言うくせに本心が見えにくい。それは他人と本音で関わろうとしないからだ。この男の興味の対象は非常に狭く、その狭い範囲に入らなければどんな感情も抱かないのだ。好きも嫌いもない。完全な無関心である。
 その男がここまで不機嫌になる相手など一人しか浮かばない。
「何だ。沢村先輩と喧嘩したのか」
 男は眉間にこれでもかというほど皺を寄せて顔を上げた。
「別に喧嘩なんかしてねえよ」
「じゃあ何だよ。どうせ沢村先輩に関わることだろ」
 だいたい、この男がまるで人間みたいに感情を顕わにする場合はほぼ間違いなくこいつの義兄絡みなのだ。それ以外の時はよくできたロボットと大差ない。
 きっとこいつには誰かを思いやるといった感情は初期設定に組み込まれなかったのだろう。目の前で困っている人間がいようとそれが自分に影響を与えないなら指一本差し伸べない。

 こいつと知り合ったのは高校入学前の春休みだった。中学卒業後、野球の名門校である青道高校に進学することが決まった俺は春休み中から野球部の練習に参加し、同じように参加していたこいつと知り合った。
 一つ上の沢村先輩と兄弟だと聞いた時には驚いた。二人があまりにも似ていなかったからだ。顔だけの話ではない。性格も、雰囲気もまるで違う。少し経ってから血の繋がりはないと知った時には驚くよりも納得してしまったほどだ。
 沢村先輩は、一言で言うと単純バカである。先輩に対してこんなこと言うのもどうかと思わないでもないのだが、真実なのだから仕方ない。さすがに名門青道野球部で一年の時からレギュラーであるだけあって、選手として一目置くところもあるし、練習量は恐らく部内一だろう。少なくとも俺の知っている限りでは先輩以上に練習している奴はいない。そういうところは素直に尊敬するのだが、如何せん言動がバカっぽいというかガキっぽいのだ。
 公式試合のマウンドで叫びまくっているし、エースである降谷先輩とは引くタイヤの個数を競い合っている。チームを代表する二人の投手がそんなのでいいのかと思いもしたが、あれだけ闘志を燃やせるからこその投手なんだろう。もう少しレベルの高い戦いをして欲しいところではあるが。
 速球のエースとは違って、沢村先輩は球のスピードは然程速くはない。変化球とチェンジアップが売りだ。打たせて取るピッチングは後ろを守る者としては面白い。守備を信頼してないとできない投球だ。否応なくその信頼に応えたくなる。
 しかも、沢村先輩のピッチングは捕手が弟である時にはより力強いものになる。恐らく幼い頃からずっと組んでいたのであろうバッテリーは完璧な意思疎通で相手バッターを翻弄した。
 投手の力量を全て把握していてその中で最善の球を要求する捕手と、その要求に寸分違えずに応える投手。きっと二人は今までに俺には到底想像できないほどの球を投げてきたのだろう。
 
 はあ、と大きな溜息を吐くと、片肘をついて頭をもたれさせた。
「……昨晩、俺と栄純はそれはもう仲睦まじく一夜をともにした」  
「はあ?」
「栄純が一緒に寝てくれと涙を流しながら請うてくるんだ。俺が断れるわけないだろ」
「なんだ妄想か」
「妄想じゃねえっつーの。いや、涙を流しながらっていうのは嘘だが、とにかく一緒に寝たんだ。同じ布団で、枕を二つ並べてだ。据え膳食わぬはって言うだろ」
「食ったのか」
「食わねえように背を向けて寝たわけだが、俺はとても大事なことを忘れていた。あいつは寝ている時誰彼構わず抱きつく癖がある」
 それはまあ、なんというか、御愁傷様である。この男が義兄に対して家族以上の感情を抱いていることは明らかだった。もう少し隠せと言いたい。こっちだって部活内のホモ事情なんて知りたくねえ。
「俺はあいつにとって自慢の弟らしい」
「今度は自慢か」
「その自慢の弟に突然童貞を、いやこの場合処女か。奪われました。どうすると思う」
「幻滅、絶交、とりあえず半径1メートル以内には入れず、一生口きいてもらえねえだろうな」
「だから必死で我慢した結果がこれだ。わかったら頼むから寝かせてくれ」
 そう言って机に突っ伏した級友の睡眠を邪魔するべく、再び声をかける。
「残念だが、お前に呼び出しかかってんぞ」
 女子から大変人気のあるこの男に呼び出しがかかるのはいつものことで、その度に適当にあしらっていることを知りながらわざとそう告げると、顔を上げることもせず「うざい」と呟いた。
「行きたきゃお前が行けよ。俺は寝る」
 予想どおりの言葉ににやりと笑う。
「んじゃ代わりに行くとするか。先輩からの呼び出し蔑ろにできねえし。弟君はそこで寝てていいぜ」
 その言葉を聞くなり、ガタンと勢いよく立ち上がると足早に先輩の待つ廊下へと向かう。あまりにもわかりやすい態度に苦笑いがもれる。
 男子高生なんてのは欲望の固まりだ。一体いつまでその我慢が続くか、なかなかに見物である。



♦♦♦♦


 栄純が家に女を連れて来た。
 いや、そう言うと語弊があるかもしれない。野球部の小湊先輩と金丸先輩がやって来て、そこに女子マネの吉川先輩がくっついてきただけだ。
 なんでも学校で出された課題をやるためで、それは数人のグループでやらなければならないのだが、野球部は練習時間も長いし他の部活の人と時間が合わないからと野球部で一括りにされたのだという。
 言っていることはわかる。自分のクラスでも同じようにされるだろう。だが、部活でも一緒で教室でも一緒なのだから、それ以外の時間まで一緒に過ごさなくてもいいではないかと思わずにはいられない。だからといって、見知らぬクラスメイトが一緒でもそれはそれで嫌なのだが。
 栄純の部屋は俺の部屋の隣で、声が大きいおかげで部屋の中の様子はなんとなくわかる。暫く様子を窺っていると、部屋から出ていく音がしてその後は静かになったため、やっと帰ったかと隣室に行ってみれば、そこにいたのは栄純と吉川先輩の二人だけだった。一体どういう状況だと思わず眉を顰める。
「あ、お邪魔してます」
 ぺこりと頭を下げた先輩に「ども」と一応頭を下げる。栄純はといえば机の上に広げられたレポート用紙とにらめっこしている。
「小湊先輩と金丸先輩は?」
「今買い出し行ってる。お前こそどうした?」
 漸く顔を上げた栄純に「別に」と返し、栄純の隣に腰を下ろした。
「なんだよ」
「んー、二年がどんな勉強してんのか興味あって。ほら、来年は俺もやるわけだし」
 もっともそうな御託を並べてみたが、実際には女と二人きりにしたくないだけだ。栄純に限って何か起こることはないだろうが、警戒するに越したことはない。
 だいいち、吉川先輩は俺が最も警戒する人物の一人である。野球部のマネージャーをしているために他の女子生徒に比べて格段に栄純との距離は近い。そればかりか、練習中も試合中も、先輩の目は栄純を追っているように見えた。気のせいならそれでいい。だが、気のせいでないのなら、この状況はあまりにもよろしくない。
「あーもうわかんねー!」
「小湊君と金丸君が戻ってくるまで休憩にしよっか」
 シャーペンを投げ出して大の字に寝転がった栄純に先輩はそう言って笑う。
「一也、茶入れてきて」
「自分で行ってくださーい」
「お前な」
「ほら早く。客待たせんなよ」
「くそー!」
「あ、俺の分もよろしく。珈琲な」
「知るかこのやろー!」
 そう言いながらきちんと入れてきてくれることを知っている。
 先輩はそのやりとりを見てくすくすと笑った。
「仲いいね」
「そう見えます?」
「うん。今のもだけど、野球してるときは特に。お互いに信頼し合ってる感じ」
「そりゃまあ、ずっと一緒にいるんで。お互い野球バカなんで、二人でいると野球の話ばっかですよ。高校生にもなって女の話なんて全然出ねえの」
 女の話題が出た瞬間、先輩の身体がぴくりと揺れたのを見逃さない。
「あいつ、あんなんだからクラスでも迷惑かけてるんじゃないですか?」
「ううん!迷惑なんて全然!沢村君はいつもクラスの中心にいて、人気者だし、みんなから慕われてるっていうか」
「誰に対しても態度変わんないですからね。慣れ慣れしいっていうか。男子も女子も関係ないし。だからよく女子が勘違いしちゃうみたいなんですよね」
「勘違い?」
 ええ。と貼りつけた笑顔で頷く。
「自分には特別な距離で接してくれてるんじゃないかって。本人は全然その気ないから性質悪いですよね」
「……沢村君は、彼女とかそういうの興味ないのかな」
「今はないでしょうね。野球のことしか考えてないし。一度に二つ以上のこと考えられるような器用な奴じゃないし。告られても野球一筋だからとか言って断ると思いますよ」
「そっか。うん、そうだよね」
「先輩は彼氏とかいないんですか?」
「えっ?!わたし?!い、いないよそんな、全然もてないし」
「そんなことないと思いますけど。でも先輩は年上相手とかの方が良さそうですよね。男らしく引っ張ってくれるみたいな。間違ってもうちの兄みたいなガキっぽいのに捕まっちゃだめですよ」
 外面用の顔で微笑んだと同時に、三人分の飲み物を持った栄純が戻って来た。
「何の話?」
「なんでもない。ですよね、先輩」
「う、うん!あ、飲み物ありがとう」
「おーどういたしまして」
 受け取ったマグカップには注文どおりの珈琲が注がれている。
「っつーか小湊先輩と金丸先輩遅くね?どこまで買い出しに行ったんだよ」
「近くのコンビニまでのはずだけど。確かに遅いな。電話してみるか。……もしもしカネマール?お前今どこにいんの」
 携帯片手に会話していたかと思えば「はあ?」と栄純は首を傾げた。
「上手くいったかって何のことだよ」
 その言葉に得心がいった。この状況を作ったのは金丸先輩で、二人をくっつけようとでも企んだのだろう。小湊先輩はそれに協力、というより巻き込まれたとかそんなとこだろう。
 いくら先輩とはいえ、余計なことをしてくれたお礼はしておかなければなるまい。失敗したからよかったものの、万が一にも上手くいってたらと思うとゾッとする。もう二度と同じことをしないように釘を差しておかねば。

 金丸先輩と小湊先輩は電話から数分で戻って来た。金丸先輩は俺の姿を見つけるなり、苦笑いのような何とも表現しがたい表情を向けた。
 倉持と同様周りをよく見てる先輩のことだ、俺の気持ちにも薄々感づいてはいるのだろう。
 戻って来た先輩たちと入れ替わるように部屋を出ていくとき、先輩の耳元で栄純には聞こえない声で囁いた。
「余計なことしないでください。まあ次があっても俺が潰しますけど」
 にこりと笑うと、金丸先輩は頬を引きつらせた。
「お前、目が笑ってねえんだよ……」
「こっちも真剣なんで」
 これに関しては運動部の上下関係なんて気にしている場合ではないのだから仕方ない。
 俺も我慢の限界が近いことだし、まずは外堀から埋めるとしようか。



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